第六章 十四
林汪迦はゆっくりと歩を進めて陸皓の正面まで来ると恭しくお辞儀をする。
「太乙北辰教教主、陶光より真武剣派陸皓総帥様へ、祝賀の品と書簡を持参致しました」
そう言ってから顔を上げる。柔和な眼差しでなんとも愛らしい。各派の総帥、高弟達は冷静を装って神妙な面持ちでその様子を見ているが、かつて北辰教と苛烈極まりない闘争を繰り広げた際に恐ろしいまでの強さと残虐さを見せつけたのがこの林汪迦らの七星と呼ばれた者達であることを良く覚えている。直接見ていない若い世代でもその様子は何度も繰り返し聞かされていた。その記憶が林汪迦の嫣然と微笑む姿をより不気味に感じさせる。
(北辰は一体、何を企んでいる?)
「林どの、ようお越し下された。教主のお気遣いには痛み入る。こうしてそなたを遣わされたのは何より嬉しい事じゃ」
礼を受けた陸皓は林汪迦に対して優しく語りかける。傍目には林汪迦を全く警戒する素振りを見せず、とてもにこやかな笑みを浮かべていた。
「こちらが、祝いの品でございます」
林汪迦が言うと後ろに控えていた箱を持った男達が進み出て、一人が林汪迦に手渡す。林汪迦は両手でそれを自分の顔の高さに掲げ持った。陸皓はそれを見て頷く。いつの間にか陸皓の傍らに来ていた白千雲が、前庭に降りて林汪迦の前に立ち大仰に両の袖を振って抱拳すると、林汪迦は再び微笑んだ。
「よもや白千雲様の様なお方に直にお受け頂けるとは……。光栄でございますわ」
林汪迦は顔以外ぴくりとも動かしてはいない。白千雲はほんの僅かだが眉をしかめた。
(なるほど、こちらが警戒してその品を受け取らぬと思っておったのだな。フ……我等は何も恐れぬわ。それにどんな仕掛けがあろうとも儂には通用せぬ。我等に危害を加えるつもりならすぐにその品、そなたに返してくれよう)
白千雲は林汪迦に近付いて箱に両手を伸ばす。その間どちらもお互いの目から視線を逸らさない。目だけでは無い。白千雲はその五感を駆使して周囲の空気の流れをも読まんとばかりに神経を研ぎ澄ます。
「頂戴致す」
短く言葉を発して箱に手を触れる。
後方に居る群衆には何が行われているのか良く分かっていなかったが、二人の様子が見える場所に居た者達は固唾を呑んでその光景を見守った。林汪迦が白千雲に対して何かするかも知れない。しかし白千雲は真武剣派では第一の高弟であり、また林汪迦などという得体の知れない女に遅れを取るなどあり得ないという期待感もある。ただ、そう思っている多くが林汪迦を全く知らない者達であるのだが。
白千雲が箱に手を触れた瞬間、見ていた陸皓が密かに眉根を寄せる。木傀風や狗不死達も同様にそれを注視した。僅かに白千雲が身震いをしたように見えたのである。恐らくそれに気付いた者は少なく、周りの群衆の中では皆無であろう。それほど僅かだった。
「おい……どうなったんだ? 二人とも何やってる?」
「静かにしろ」
「二人ともピクリとも動かんぞ?」
「わからん」
辺りがざわつき始めた。
林汪迦と白千雲は共に同じ箱を両手で持っている。いや、持っているというよりはまるで宙に浮いた黒い箱に二人とも両手を添えている、といった感じである。陸皓らの方からは白千雲の表情は窺えない。林汪迦は――笑みは消えているが焦燥感も無い。無表情である。
「……陸総帥」
不安を覚えて陸皓に話しかけたのは襄統派から総帥代理として来た羅鉄指。襄統派の弟子の筆頭である。襄統派総帥も陸皓と同世代で高齢であり、その直弟子であるので白千雲と同輩、年齢も近い。
「心配は無用じゃ」
陸皓は羅鉄指に言う。
「何も起こりはせぬ」
白千雲の方も冷静にじっと林汪迦を見据えていた。
(フン、このような遊びに何の意味がある?さっさと終わらせるに限る)
下腹に僅かに力を込め、そこから勃然と興り来る内力が両の腕へと導かれた。白千雲はそれを手に触れている箱へと注ぎ込む。しかしそこにはかなりの抵抗が感じられる。異質の気、それは林汪迦のものに他ならない。
林汪迦が白千雲の内功を試しているのだ。そうでなければ完全なる悪ふざけとしか言い様が無い。差し出した物を強く握って相手に取らせないのは子供のよくやる悪戯であるが、傍目にはそうは見えない。箱を引っ張り合っている様でも押し合っている様でもない。ただ腕力を比べるなら林汪迦が伸ばしている細い両腕が白千雲に勝る筈が無いのである。しかし林汪迦の掌に乗っている黒い箱はぴったりと手に張り付いて動かない。林汪迦は自らの内力で満たされた箱を完全に支配していた。
「林どの? これはどういう……?」
「白千雲様、あなた様の内力が私に伝わって参ります。ああ、なんと力強い……」
林汪迦は頬を上気させ目を細めて恍惚の表情を浮かべている。やや上目遣いで微笑みかけた林汪迦に白千雲は怒りを覚えた。
(ふざけるのはここまでだ!)
白千雲の眼差しが鋭くなりサッと顔色が変わる。その瞬間、林汪迦が後方に弾かれる様に身体を引いた。それと同時に白千雲の手に残った黒い箱が音を立てて崩れ、中の品が白千雲の手の間からこぼれ落ちる。黄金色に輝く細長い塊。
「アッ」
林汪迦は袖を口元に当てて目を丸くした。まるで自分も周りで注目している群衆の一人であるとでも言うかの様である。白千雲は素早く腕を下方に伸ばしてその塊を掴み取る。それを手にするとそのまま流れる様に身体を回し再び林汪迦と向き合った。かなりの速さである。林汪迦に隙は見せていない。白千雲は冷静だった。箱に一層力を込めたものの破壊する程ではなかった。それでも箱が壊れてしまったのは林汪迦が注ぎ込んでいた内力を急激に引っ込めて力の流れの向きが突如変化した為であろう。
林汪迦は身体を引いたその位置で微笑み、傍に並んでいる黒装束の男達も動いた気配は無かった。手にしたその塊を見るとそれは黄金で造られた短剣を模した装飾品で、切れる程鋭利には作られておらず先端も丸くなっている。白千雲は改めてそれを両手で掲げ持った。
「ご無礼を致した。お許しくだされ」
白千雲はそう言って林汪迦の返事を待たずに恭しく礼をすると数歩後退る。そこで林汪迦が声を発した。
「他の品をこちらに並べなさい」
脇に居た二人の男が別の箱を林汪迦の前へ並べて置く。その様子を見ていた白千風と郭斐林も前へ出て白千雲の脇に立った。
「有難くお受け致します」
白千風がそう挨拶したところで林汪迦は懐から巻紙を取り出した。北辰教主からの書簡である。白千風が受け取ろうと数歩近付くと、
「これは破る訳には参りませんので、こちらに」
林汪迦はそう言って書簡を下に置かれた箱の上に重ねた。
(普通に渡せば良いものを……まったくこの女、訳が分からん)
白千風は苛立ったが面には出さず、黙っていた。
「それでは私の役目は済みましたので、これで」
林汪迦は再び陸皓に正対する。陸皓は微笑んでゆっくりと頷いた。
「教主に宜しくお伝え下され」
「それはもう」
にっこりと陸皓に笑みを見せた林汪迦はくるりと踵を返しさっさと歩き出した。陸皓の正面、群衆のひしめくど真ん中に、である。
(師父に対して何と無礼な)
林汪迦の後姿を睨みながら、郭斐林は拳を握り締めていた。