第十三章 二十五
史小倚の宿と教わった場所に辿り着いたのは陽が西の空で赤味を増し始めた頃だった。昼間と変わらぬ多くの人通りがあり、何か食べ物を売っている出店が白い湯気をあたりに撒き散らし、それに誘われる様に群がる人々の姿があった。その景色は遠く離れた東淵の繁華街と何ら変わりは無い。
客を呼び込む女の甲高い声のするその反対側に、史小倚の宿は静かに建っていた。
「なんやパッとせえへんな」
狗不死の言葉にほんの少しの微笑でのみ応えた傅朱蓮は先に足を踏み入れる。
「あっ、どうもどうも、いらっしゃいませ」
愛想笑いを浮かべて傅朱蓮の許へやって来る痩せた中年の男。客以外の、宿の者らしき人物は他には見当たらなかった。傅朱蓮は丁寧にお辞儀をしてから、
「こちらは史小倚さまの宿でしょうか? 私は東淵から参りました傅朱蓮と申します」
「えっ」
愛想笑いが途端に消え、男はあからさまに驚いた様子でそんな音を口から洩らして動かなくなってしまった。
「あの……」
傅朱蓮は狗不死と一度顔を見合わせて後、また男を見たがその表情は全く変わっていない。
「傅……、東淵の……、傅……千尽さまの?」
「はい。傅千尽は私の父で――」
「わ、私が史小倚でございます。あの、あの、……ようこそお越し下さいました」
男、史小倚の声は若干震えているようにも聞こえる。恐れる、というのでは無さそうだが、大いに戸惑っている。一体、何にそれほど戸惑うのか傅朱蓮には判らなかった。
「そうですか、東淵から……わざわざこの都までお越しで……お疲れでございましょう。その、どちらへ参られるのでしょうか?」
史小倚は言う間、一度も傅朱蓮と目を合わせなかった。
「どちらて、もう陽も傾いとんがな。宿ちゃうんか? 此処に、参ったとこや」
「ああ、左様でございますね。お泊りで……。部屋は空いてございます。すぐ支度をして参りますので……」
史小倚はチラと視線を上げて狗不死を見たがすぐに顔を逸らして言う。そしてそのまま後退るとくるりと体を回して店の奥へと早足で去って行った。
「で、儂らはここに突っ立って待っとらなあかんのか?」
狗不死は口を尖らせて文句を言っているが、傅朱蓮は何も言わず宿を隅々まで観察する様に眺めていた。
(此処に泊まったのね。殷兄さんと洪小父様は。媛と、発も一緒に)
華やかさとは全く無縁の、古い宿だった。だが今までの旅で泊まった宿と比べればこちらの方が幾らか広い。しかしその広さのせいで、客の少なさが目立った。ほんの数人が広間の端で酒杯を片手に食事を摂っているのが見えるが、外の喧騒が不思議なほど中は静かで、あまりにも質素な宿だった。
その後、史小倚の案内で部屋に通され、とりあえず暫く此処に留まれる手筈となったのだが、史小倚は余計な事は一切喋ろうとせず、早く話をしたい傅朱蓮が史小倚を捕まえたのは夜も更けて狗不死の寝酒に付き合い広間に降りた時だった。
傅朱蓮に呼び止められた史小倚は緊張の面持ちで振り返る。
「もうこんな時間や。ちょっと付き合ったってえな」
狗不死は自分の隣の席を指差し、座るよう促す。
「あの、史さん。私からもお願いします」
傅朱蓮にもそう言われ、はあ、と小さく頷いた史小倚は仕方ない、といった様子で狗不死の隣に座ると同時に肩に掛けていた手拭いで顔を擦った。
「傅千尽さまはお元気でございますか」
以外にも史小倚が先に話し掛けてきた。何かを案じて機先を制するつもりなのだろう、と傅朱蓮らは感じたが、一体何を案じているのか?
「ええ、変わりありません。一年ほど前、こちらにお邪魔した洪小父様も無事に東淵に戻りましたし、梁媛も元気でおります」
「あ、はあ……」
やはり史小倚はどこか変だった。酒のせいか狗不死が早々と苛つき始め、史小倚に向かって言う。
「何や。儂らを警戒してんのか? あんた北辰やろ? 殷汪がとんずらして傅の家も敵になったっちゅう事か? もう、仲間に儂らが来たんを知らせたんか?」
すると史小倚は目を丸くして、
「とんでもない! 私は殷汪さまを敵などと――」
「そんな事言うてええんか? あんた、裏切り者を庇う様な事言うてたら、危ないんちゃうんか?」
史小倚は言葉を失うほかはなかった。己は北辰教徒だが、殷汪を敵と見なすつもりも毛頭無い。この二人は、どちら側なのか、どんな言葉を望んでいるのか、史小倚は必死に考えを巡らすが余計に混乱していくだけだった。傅朱蓮という娘は殷汪の義兄弟とも言える傅千尽の娘。殷汪の味方につく筈だが――しかし此処は遠く離れた金陽の都。正直、今の東淵や景北港で何がどうなっているかなど解っていないのである。
同時に、傅朱蓮にも同様の迷いが起こっていた。殷汪の今の詳細を知るべくして旅をしてきたのだが、この史小倚に正面切ってそれを訊ねる事はまだ出来ないのである。一年前、殷汪や洪破天が此処へ来た時にはこの史小倚という男はよく世話をした様で、それもその筈、当時はまだ殷汪は北辰教総監であったのだ。だが、今はどうなのか? 殷汪は方崖で人を斬って出奔したと広く伝わった今、この男は殷汪は裏切り者で敵と思っているかも知れない。そう考える方が北辰教徒として自然な事である。
このままでは一向に話が切り出せない。意を決するしかない。今さっきこの史小倚は『殷汪を敵とは思っていない』という事を口にした。殆どの北辰教徒はそんな事は言わない筈だ。傅朱蓮はそれを信じる事にする。
「私は、殷さんを探しています。あの人は、私の家族ですから。北辰教徒であるあなたに訊くのは変に思われるかも知れませんが、最後の消息を知るのはあなたしか居ない様なのです。あなたに、すがるしか無いのです」
傅朱蓮はそう言うと、反応を窺いつつ史小倚を真っ直ぐ見つめた。整った切れ長の、傅朱蓮の真剣な眼差しに史小倚は思わず視線を逸らす。そして呟くような小声で訊き返した。
「探して、どうするおつもりで? 殷汪さまはもう……表に出る事を望まれないでしょう。何処かで、このまま――」
「そう、殷さんが言ったのですか? あなたは直接聞いたのですか? 一年前に?」
「……」
「史さん。どうか教えて下さい。私は知りたいんです。今もちゃんと、殷……殷兄さんが無事なのか。ただそれだけを――」
「一年前の、あの時ではありません」
史小倚は顔を伏せたまま、静かに言った。
「え?」
「あなたの仰っている一年前というのは、あの梁媛というお嬢さんを連れて東淵に帰られた時では?」
「……その時ではないと? もっと後、最近の事なのですか?」
殷汪が最近になって此処を再び訪れていたというのだろうか? それなら傅朱蓮は一気に手掛かりに近づいたという事になろう。
「いえ、最近でもありません。殷汪さまが方崖で騒動を起こして行方を眩ましたとこの都に伝わって後の事です。当然ながら、長居はされませんでした」
「何か、何か言っていましたか? 何処へ行くとか」
「まさか。一応私も北辰教徒ですから……」
「あんたも、北辰教に殷汪が来たっちゅう事を言わへんかった訳やな? 何でや?」
狗不死の言葉にようやく顔を上げた史小倚は、幾分緊張が解けた様で、逆に目に力を取り戻した様だった。
「色々お話を聞かせて頂きました。そして思ったのです。あの方は――教主様の敵になった訳では無いと」