第十三章 二十三
都を囲む巨大な長城を、傅朱蓮は黙って見上げていた。初めて見る訳ではない。だが見慣れる程訪れてもいない。これを人が造ったのか、と、前に見た時と同じ事を思いながら眺めている。
傅朱蓮と狗不死が辿り着いたのは、金陽の西門である。咸水から北上して宿場である堯家村に着けばあとは都から西方へと続く街道があるのみで、その街道はこの目の前の西門から始まっている。傅朱蓮の様に此処へ辿り着いた者は皆一様に、この巨大な城壁を見上げ、感嘆する。そして此処を去る者であれば、今から失う物の巨大さに、大いに落胆することだろう。荒れた大地が拡がりつつあるこの国で唯一、この都だけは永遠に失われはしないと人々に思わせるに充分な、見事な城壁がそびえている。
「やっと、やなぁ。久しぶりにええ宿、泊まりたいわ」
「丐幇の前幇主様のお言葉とは思えませんが? 幇主を退くと同時に丐幇からも抜けられたのですか?」
傅朱蓮の狗不死に対するこんな丁寧な言葉遣いは、明らかに冗談でしか有り得ない。そして当然の如く狗不死は大いに笑う。
「泊まりたいなぁゆうただけや。別に丐幇は思うのもあかんなんて決まりないで? 朝から晩まで『腹減った何かええもん食いたい』しか考えへんようなモンの集まりや」
「で? 狗さんの思う『ええ宿』ってどんな処をいうわけ?」
「知らん。泊まった事無いもん」
「あら、そう? 昨日の処なんてかなり高級だったわよ?」
「んなわけあるかいな。あんなきったない布団、よう客に使わせるわ。なんか匂っとったで」
「え、狗さんあれで寝たの?」
「しゃあないやないか。他に何もあらへんかったやろ」
「さすがは狗前幇主様。私は無理だったわ。絶対無理。椅子に座ったまま寝たわ。おかげで体中が少し痛いんですけど」
「何やそれ。どこが高級やねん」
まだ都の西門をくぐってはいない。だが辺りは大勢の人間がたむろし、傅朱蓮と狗不死はそれらの視線に晒されていた。しかしそれは傅朱蓮らに限った事ではなく、行き交う者は皆、周りからの視線を浴びるのである。何の色も、熱も無く、弱々しく、だが確かにこちらを向いている。それらはすべて、故郷を捨てて遥々この都へとやって来た者達のものだった。
城門の外は見渡す限りと言ってよい程、そんな人々で溢れかえっている。此処まで来て何故街に入らないのかと思ってしまうが、殆どが一度は城門をくぐったものの、再び外へと追い出されてしまった者達なのである。
梁媛と梁発の二人が荒れた安県を逃れてこの都に辿り着いた時の事を、傅朱蓮は聞き及んでいる。彼女らも洪破天と殷汪に出会わなかったら、この中に居る事になったのだろうか。安県からなら辿り着くのは南門だろうが、違いなど無いだろう。しかしながら一年を経過した今でもこんな場所で無事に居られるとは思えなかった。この者達は寄り添う様に其処彼処にうずくまっているものの、互いに助け合う気力がはたして残っているのか疑わしい程に、彼らは弱っていた。
「都は広いのに、どうしてこんな……」
傅朱蓮の問いに、狗不死は首を振った。
「広いけどその分、人かて多いんや。国中の民が皆押し寄せたらこうなんのも当然やで」
「でも、それでも何とかする手立てを考えるべきでしょう?」
「儂が? それとも朱蓮、あんたがか? 言うとくけど、お上の考えた方策は、今のこれやで。これだけでも、難儀なこっちゃ。国中の人間が減っていく。ほんならお上の懐も同じや。皆一まとめに救ってくれる様な力を持つ人間は、今はおらへん」
「でも……」
「この今の状況は天から降った災いが大きい。大き過ぎるわ。人は幾らか知恵持ってきたかしらんけど、天に逆らう力は無い。……こっから城門入るまでに皆を救う方法を言えなんてゆうても儂、そんなん知らんで?」
狗不死はいつもの軽い口調でそう言いながら、城門へと馬を進めていく。傅朱蓮は何も言えず、人々の視線を避ける様に俯き加減で後を追った。
城門の兵士達の睨む様な視線に耐えつつ都の中へと入った傅朱蓮は、辺りの様子を見渡すが暫く無言だった。外と、この中の違いは一体何なのか。都を包む城壁があまりにも大きいが故にこれほどの差を生むのだろうかと、そんな事を考えながら行き交う人々の合間を縫って進む。賑やかさで言えば東淵も負けてはいないだろう。だがこの広大さは比べるべくもない。
「山が無いわ」
「ん? ああ、そうやな。無い訳でもないけど、此処からは見えへんな」
東淵は山と湖に挟まれた細長い土地である。傅朱蓮が見慣れているそんな風景とは全く違う、ひたすら平たい大地の上に、金陽の街は築かれている。西門の真正面からおそらくは遥か先の東門まで真一文字に伸びているであろうこの大通りを傅朱蓮は目を凝らして見るが、その先は霞んで空と同化している様に思えた。
「さて、何処行くんや? なんも無い場所にはなんも無い。逆にあり過ぎても何も無いのと同じや。探しもんするなら尚更や」
「洪小父様たちが泊まった宿を探すわ。殷兄さんに連れられて行ったって媛は言ってたけど、お父様も知ってる人がやっている宿みたい。史小倚っていう、北辰教徒」
「ふうん。北辰か。それを堂々と名乗っとるんやったら見つけ易いかも知れへんけど、此処でそれは無いわな」
二人がそんな話をしていると、通りの人を掻き分けながら慌てた様に駆け寄ってくる数人の姿があった。
「狗不死様! 狗不死様ではありませぬか!」
狗不死はそれを聞いてあからさまに顔を顰め、すぐに馬を降りるとその手綱を強引に引っ張りながら脇道へと向かう。
「ちょっと狗さん、何処行くの?」
傅朱蓮も慌てて追うが、狗不死は答えず進んで行く。しかし、名を呼んで近づいてくる者達が二人を見失う事は無かった。
「お待ち下さい狗不死様! 何故お逃げになるのです?」
口々に狗不死様、狗不死様と叫びながら追ってくるので、ついに狗不死は立ち止まり、振り返る。脇道には入ったがまだ大通りからはあまり離れていなかった。
「お前ら、声が大きいねん。儂に恥かかせるつもりか!」
「え?」
狗不死と傅朱蓮に追いついた男達は、何を言われているのか分からないといった様に互いの顔を見合わせていた。
傅朱蓮は一目見ただけで納得する。この男達は間違いなく丐幇の人間だと。彼らは、まるで貧しさを争うかの様に襤褸を身に巻きつけ、髪を振り乱し、まったくもって異様な集団としか言い様が無い。こんな姿でこの都の大通りを、しかも集団で闊歩する神経を持ち合わせるのは丐幇の者しかあり得ないのである。
だが、彼らが本当に貧しいのかは甚だ疑問である。真に貧しく明日をも知れない者達はこの丐幇の者達の様に、到底、元が衣服であったとは思えない選び抜かれた襤褸布を幾重にも巻いてなどおらず、裸同然の者の方が圧倒的に多い。似ている処といえば、『太ってはいない』という事だけだ。
(丐幇には力がある。本当に飢えた人たちしか居ないなら何千、何万居ようととっくに飢え死にして消えて無くなってるわ。本当の姿は――でも、それを演じる意味ってあるのかしら?)
傅朱蓮は酷い身形の男達を観察しながら、狗不死の脇で黙っていた。
「儂は用があるんや。お前らとは関係無い」
「そんな……、あっ、休! 休幇主も狗不死様の事を心配して――」
「もう話したわ。ついこの間な。武慶で」
武慶で丐幇の現幇主、休達と会ったのは確かだが、ついこの間と言うには無理がある。