第十三章 二十二
真武剣派の弟子の姿は何度も目にしているが、この張撰修の身形は少し変わっていた。史小倚らの記憶にある一年前も同様であったが、同輩の弟子達は絶対に身に着けられないであろう上等な衣服に身を包み、瀟洒な書生風を努めて装っているかの様な出で立ちと身のこなしは本当に真武剣派の一子弟かと疑うほど異質であった。その衣服の派手さが幾らか増している様にも思える。腰には長剣を提げていたがそれにも派手な装飾が施され、よくもこんな姿を師父が許しているものだと史小倚ら三人は呆れた。
「フン、まだ無事で居られたか」
王喜勝が睨みながら言うと張撰修はゆっくりとした動作で後ろ手を組み微笑んだ。小僧のくせに妙に落ち着き払ったその雰囲気を、三人は苦々しく見つめる。
「無事? はて、私は何か危機に晒されていたのですか? 自分の知らぬ間にまさかそんな事になっていようとは。何かありましたかな?」
芝居がかった張撰修の反応に王喜勝らは怒りを覚える。こんな人間を好む者が居るだろうかと思える程の太々しさだ。
「何の用だ? こちらはお前なんぞに用は無い。消えろ」
まともにこの奇妙な小僧の相手をするのは面倒だとばかりに、王喜勝は吐き捨てる様に言う。だが張撰修はそんな王喜勝を気にも留めずに相変わらずの調子で口を開いた。
「言われずとも、此処を去るので、まあご挨拶に寄ったまでですよ」
「ほう? 何かありましたかな?」
王喜勝はわざと先程の張撰修を真似て訊き返した。
去るとはどういうことか? 恐らく洪破天の報復から逃げる為だろうと想像するが、それにしては遅い気もする。新たに、洪破天がこちらに向かっているという情報でも得たのだろうか? と王喜勝ら三人は同様の事を思い浮かべていた。
「武慶が私を必要としているようでね。この都も中々面白くはありましたが、ここでいつまでも遊んでいる訳にもいかず、そろそろ真武剣派の事を真面目に考えねばと思う処もあるのでね」
お前は何様だ? とこれを聞いた三人は怪訝に思う。張撰修は真武剣派総帥の高弟丁常源の弟子という事は知っているが、数多く居る下っ端の一人の筈だ。武慶が――つまり、真武剣派がこの張撰修を必要となり呼び寄せるとは、どういう意味なのか。あるとすればこんな小僧一人、所詮何かに利用されてそれで仕舞いだろう。それはそれでいい気味というものだ。だが自分達の希望としては、洪破天に八つ裂きにされて惨死する様を晒してくれたほうが遥かに気が晴れるというものだが――。
(武慶に行けば、洪破天様から逃れる事は可能になるな……)
史小倚はそう思いながら、ふと殷汪、洪破天と共に居た梁発の姿を思い出していた。
「私などより、あなた方こそ無事で何よりですね」
「俺達が……何の事だ?」
王喜勝が訊き返すと張撰修は口許の歪んだいやらしい笑みを浮かべて、
「今、北辰の新総監の話をされておられたようですが、お優しい方の様であなた方も救われたのではありませんか?」
「何だと?」
「あの裏切り者の殷汪――あれに関わったのですから、本来あなた方も敵と見なされて当然なのでは? 張総監が許したというのはまさに僥倖としか言いようが無いではありませんか」
「ハ! お前に何が分かる? 余所者が知った口を利くな!」
王喜勝らは生意気なこの張撰修に腹を立てていたが、こんな小僧の口から『張総監』という名が出る事に変な違和感を感じていた。教徒である自分達でも殆ど知らないが、真武剣派の情報収集の能力は一体、どれほどなのだろうか。張撰修ごときでさえも耳にするほどというのに、自分らがいかに孤立しているかを思い知らされる。
だがそうは言ってもこの都を捨てて太乙北辰教のお膝元まで参じるまでには思い至らない。教主への忠誠心はある。しかし、張新という急に現れた新総監を信用する根拠も無い。普通なら疑いなく受け入れるのだろうが、自分達三人は違う。それはあの殷汪に会ったからだ。殷汪が離れ、張新なる者が現れる。何があってそうなったのか、それを知らねば納得出来かねた。
「ですが、未だにあなた方は新総監を受け入れる気は無さそうだ。遠く本拠から離れたこの場所で、教徒の一部が叛心を育てているとなれば流石に放ってはおけないでしょう。殷汪と接点があるともなれば尚更です」
「黙れ! 何だお前は! 真武剣なぞに関わりの無い事だ!」
「そうなんですが。いえ、先程言いましたように私は此処を離れるのでね。最後ですから少しばかりご忠告にでもなればと……、まあ、用心したほうが良いですよ。せめて、私の様な者にまで聞かれるこんな処でそのような話をされるのは、不味いとは思いませんか?」
終始、笑みを絶やさず話している張撰修を、史小倚はぼんやりと眺めていた。
(あの時……、梁媛様は私を家族の様に思うと言って下された……)
史小倚は鮮明に覚えている。『あなたを忘れない』と。洪破天も『媛児と家族というなら儂もおぬしの身内となろう』と言ったのだ。
(ならばこの男、俺の仇でもあるのではないか? 梁媛様、梁発様の身内ならば当然、これを討つ義務があるのではないか?)
史小倚だけでなく王喜勝、李軍にとってもあの姉弟はすでにただの孤児ではなかった。総監殷汪と洪破天と共に居る、それだけでその前に跪き礼を尽くすに足る存在であるのだ。殷汪は反逆者などでは無い筈だと信じる三人にとってそれは変わっていない。
(武慶に行かせれば、手が――出せぬ――)
洪破天でもそれは難しくなる、そう考えた史小倚の拳が次第に固くなり、普段は力の抜けきったその目が急に息を吹き返すように光を集め始める。
目の前の張撰修は相変わらず口許を緩め侮蔑するかのような眼差しを見せている。史小倚が全身に熱を感じ始めたその時だった。
『誰か、居ないのか?』
広間の方から呼ぶ声がする。史小倚はハッと我に返り、声のする方に目を向けた。急速に身体の熱が退いていくのが解る。
「おや、お客が来たようですね。結構な事です。では私はこれで失礼するとしましょう」
張撰修は史小倚に向かって言うと抱拳し、更に冷笑を三人に浴びせつつ踵を返し、さっさと行ってしまう。
史小倚はただ、あ、あ、と言葉にならない音を口から洩らしながら見送った。
「何しに来たんだいまったく! ねえ、あたしらであいつを縛り上げて洪破天様の処まで届けないかい?」
李軍の荒げた言葉にも史小倚は何も言えずただ見返すしか出来なかった。
『誰か、居ないのか。客だ。部屋を借りたい。誰か』
客の男が呼んでいる。史小倚は、はい、ただいま、とうわずった声を出しながら慌てて表に向かう。そうしながら再び身体が熱くなるのを感じていた。それは先程とは違う、羞恥の熱であることに、史小倚はその身を震わせた。
客の男が、走り出てくる史小倚を見つけ、
「おう、すまんな。暫くこの都に滞在したいんだが、何日になるかまだ判らない。部屋を貸して貰えまいか?」
「あー、部屋はございますよ。さあどうぞどうぞ」
緊張など殆ど無い日常が戻る。丁度客が来てくれた事に安堵する自分が居る。あのままただ感情だけ昂らせてあの若造に挑み、どうなった事か? 仮にこの場は首尾よくいったとしても真武剣派に真正面から喧嘩を売ったことになる。
「二人だ。宜しく頼む」
客の男はもう一人居て、全く同じ黒の衣装を纏った旅人の様だった。史小倚はいつもの様に愛想笑いを浮かべながらその二人を空き部屋へと案内する。
(やらなくてよかったのだ)
そう思った矢先、自分は何と情け無い男なのかと、史小倚は項垂れた。