第十三章 二十一
これ以降、三人は度々この史小倚の宿に集まる様になった。とは言っても特に何をするでもない。普段通りの雑談に終始するだけだが、それによってこの都にいる僅かな太乙北辰教徒の今後について思い致す事となり、薄れがちだった『仲間』という概念をより意識するようになった。時には他の同胞も呼んで話す事もあるが、大抵が史小倚、王喜勝、李軍だけであるのは、あの殷汪とまみえた事があるのがこの三人だけだという事もあろう。
北辰教の本拠、景北港から遥かに離れたこの都では教徒といえどもその信仰も薄れがちである。敬虔な、そして中には狂信的とも言える者達が作り出した街とこの都では、同じ国にありながら生活文化の差異は小さくない。
日々の営みに追われる様に信仰から遠ざかっていた『辺境』の教徒の前に突然、教主の傍らで采配を振るう総監が姿を現す。突然現れ、しかも偽名を使った彼をよくは知らない。ただ本物の殷総監であったというそれだけで、眠っていた彼ら教徒の目を覚ますには充分だった。ただ、目覚めたとはいっても此処は辺境、何の状況も確かな事は分からない。自分は太乙北辰教徒なのだという事を思い出す、まだそんな段階であった。
殷汪の去った方崖は今どうなっているのか? 教主のお出ましはその後あったのか? などとは繰り返し三人の口に上る話題だが、さっぱり分からない。何の手掛かりも持たないのだ。史小倚の家は宿を営んでいる。東から来たと客が言えば、東はどんな様子であったかを訊くようになったが、詳しい人物は殆ど居ない。そもそも都に数多ある宿の中で史小倚の商いは繁盛しているとは言えず、情報を持ってやって来る客など極めて少なかった。
「張総監の噂を聞いたよ」
そう言って李軍は話し始める。今夜は珍しく新たな話題がある、と李軍の口振りは少しばかり勿体を付けた。王喜勝と李軍夫婦も自ら商いをしており、衣服から装飾品、或いは様々な調度品を扱う店を持っている。李軍の聞いたという話は客との雑談から出た噂話の一つだった。
「張総監だって? 一体何の話をすればそんな名が出て来るのだ?」
夫である王喜勝も初耳なのか、怪訝な表情を妻に向ける。李軍は三人集まるこの時まで隠して驚かせてやろうと目論んだのだろう。内容はともかく、北辰教の総監、張新に関わる話が出て来る事自体、非常に貴重な事だ。
「傅夫人の話から東淵辺りの話になってね。傅家は今でもあんな田舎に引っ込んで勿体無いじゃないか。傅夫人が本当にお子を、しかも男子をお生みになれば傅家は田舎の小金持ちなんか辞めてこの都でとんでもない権勢を揮えるんだよ? 桁違いだよ」
「馬鹿な事を。そもそも東淵の傅家というのは豪族でも何でもない。権力を収めきれる程の一族を持ってもいない。言わば我らと同じ、一商売人の家だ。何が出来る? いや、端からそんな気など無いのだ。分をわきまえておるからこそ商業で成功しておるのだ」
「そんな事まだ分からないじゃないか。子はまだ生まれて無いんだよ? 人はどうなるか分からないよ。ま、商才って事では私も認めるね。傅夫人は実の娘じゃないって話だろう? 孤児を拾うならやはり極上の美人が良いというわけさ」
「待て待て。傅家の話はまず置こう。張総監の話はどうなんだ?」
話が逸れていく事が一目瞭然である夫婦の会話に史小倚が割って入る。李軍は残念そうではあったが頷いた。
「最近、この辺じゃ真武剣が色々動いてるだろう? 武林の噂なんて最近無かったからこの都の人間も色々想像するんだねぇ。真武剣といえば北辰、北辰といえば真武剣、向こうも何かやり始めたんじゃないか、だから真武剣が、ってね。まぁ東淵云々は北辰教の事を思い出すきっかけさ」
「お前、何を今更言っておるのだ。そんな事は一年も前から言われてる事だ。傅夫人と殷総監――いや、殷汪様は非常に近しい存在。そして我が教の要であられたのだぞ」
「此処の人間はそう深く考えないよ。東淵や景北港の事なんてこの街の者には異国と変わらない。東方を気にするのはあたしたちくらいのものさ」
「だから、張総監の話は――」
「北辰教の教主がいつの間にか変わったらしい、ってあたしに教えてくれたのさ」
李軍にそう教えたという者はまさか李軍がその北辰教徒であるなどとは露程も考えなかった事だろう。
「教主が、だと? 出鱈目言いおって……」
「だから、そんな認識なのさ。よその者には教主も総監も分からない。でも当ってるんじゃないかい? 北辰を動かす人間が変わったのは事実だからねぇ。で、その新しい教主は張と言って――」
「違う! そんな事があってなるものか!」
王喜勝が拳を自らの膝に叩きつけ、怒声を発する。
「あたしに怒鳴らないでおくれよ! 聞いただけさ!」
「二人とも落ち着け! とにかく続きを聞こうじゃないか。教主というのは間違っているが、その人となりについての噂なんだろう?」
史小倚は懸命に間をとりなし、話を続けさせた。
「今度の教主はとても穏やかで思慮深く、争いは好まないそうだよ」
「フン、何を根拠に。殷汪様が去って一年程、まだ北辰教の情報などそれ程この都には入って来てはいまい」
「その噂は――」
史小倚は李軍の話を聞いて首を傾げた。
「その話には他にも勘違いがあるんじゃないか? 今度の教主が穏やかで云々、とは明らかに陶峯前教主との比較じゃないか。陶峯様が亡くなられて十年は経ったが、その後は陶光様が教主となられて殷汪様が補佐された。かつて無い程、北辰教は穏やかな時代を迎えたじゃないか。最近の事じゃないだろう?」
「その辺は知らないよ。とにかく、これからも昔みたいな争いは起こらないだろうって話さ。火種はまだ色々ありそうだけどさ。何か、武慶であったんだろう? 真武剣が何かしでかしたとか何とか」
「真武剣の間抜けが、秘伝書を賊に奪われたという事だ。真武剣が何かした訳では無いらしいぞ」
王喜勝がそう言って最近耳にしたばかりの真武剣派の噂を披露する。武慶で何かが起き、この都に居る真武剣派の連中も慌しく動き始めている事は知っていたが、詳しい事情は分からない。奪われた物を探しているとも、人を探しているとも聞いていた。
「でさ、その新教主は裏切り者の殷汪様も追わずに許す事にしたとか何とか――」
李軍の話に王喜勝は鼻を鳴らした後、冷笑を浮かべる。
「そいつの話は出鱈目しかないな。現にあの七星が追っているではないか。所詮、この街の噂は真実かどうかなど構わんのだ。面白ければ……いや、もはやそれすらどうでも良い。適当に間を埋める為なら何でも吐くのだ」
「成る程。それに比べて――」
突如、この場の三人とは違う声が部屋の入り口の方で響く。三人は揃って飛び上がらんばかりに驚き、肩を強張らせて振り返る。そこには見覚えのある若い男の姿があった。
「あなた方は真実を追って真摯に語り合っておられる。さすが、北辰教徒の方々は違いますね」
「おっ、お前、真武剣の――」
「ええ。真武剣の。ただし同じ真武剣派でも、『間抜けでは無いほうの』真武剣派ですが」
言いながらせせら笑う様な表情を見せて一人ゆっくりと入って来たのは、真武剣派丁常源の弟子、張撰修である。同じ都に居ながらその姿をこの三人の前に現したのは一年ぶり、殷汪や洪破天らが都に来ていたあの時以来であった。