第十三章 二十
劉毅が北へ向かったなら間違いなく堯家村を通り、そこから東の都、金陽へ行くだろう。逆に西に向かう可能性は低い。その先は荒涼とした砂漠が広がるのみで、そこをあえて進むのは国外へと向かう商団くらいのものだ。過酷な旅である。ただ一人の人間を探して行くには、時も、そして命をも賭ける必要がある。
「離れすぎや。此処かて既に遠いけどな。景北港になんかあったとしてもすぐ戻られへんし、恐らくこのまま戻るんとちゃうか」
狗不死の言う通りに違いない。ましてや北辰教の末端に命じるのでなく七星が教主陶光の許から離れてこんな処まで来る事自体考えられない事である。林玉賦は命令によって武慶に姿を現したのだろうが、ならば尚更、他は教主の傍に置く筈だ。少なくとも、七星という存在が以前と変わらぬものであるならば。
傅朱蓮と狗不死は武慶を離れてから暫く大きな街には立ち寄っておらず、殆ど新しい情報に触れてはいなかった。そもそもそんな物は無いのかも知れない。しかし、日が経つにつれ、早く都へという気持ちが強まった。国中から人が流れ込む都、金陽。何の根拠も無いが期待は膨らむ。
(殷兄さんだって、『人』だわ――)
雨季が去った都、金陽は例年の如くその熱気を取り戻し始める。特にその南半分、都の最奥にある王城から距離を置く様に広がった市街には人が集中し、湿気を帯びた熱が充満している。長雨からようやく解放された人々はこれまでの鬱憤を晴らすかの様に、通りを闊歩していた。
お供を引き連れた豪奢な身形の富豪と、一枚の布切れすらも纏わず立ち尽くす汚れた幼子が、全く視線を交わらせる事無くすれ違う。そんな様子を目に留めて、何かに思いを致す者は無い。
その幼子の脇を掠める様に足早に通り過ぎた男と女。その者達もかなり良い身形の者達だった。女はこれといった特徴も無かったが、男の方はその衣服の上からも分かる丸々とした太鼓腹を揺すっている。二人はただ真っ直ぐに通りを進み、そのまま一つの建物へと並んで入って行く。そこには『宿』という文字が見える。
二人は同じ動作で中をさっと見渡して誰かを探している様だったが、見当たらないのかすぐにまた揃って歩を進め、そのまま奥へと向かった。
「史よ、居るか? 何処だ?」
太鼓腹の男が何処ともなしにそう呼ばわると、そこへ酷く疲れているらしくふらついている痩せた男が姿を現した。
「おお、無事だったか。心配したぞ」
「……ああ」
痩せた男は柱に身を持たせ掛けたまま、息を吐く。
「……いや、久しぶりに酷く緊張したもんだから、戻った途端、力が抜けてしまってな。いや、情け無い」
女が怪訝そうにその顔を覗きこむ。
「本当に大丈夫かい? 何も、されなかったかい?」
「何も。何もされなかったよ」
「当たり前だろう。されてたら今頃生きてはいまい」
太鼓腹の男は先程までの険しい表情をようやく緩めるとそう言って笑った。
この丸々とした腹の持ち主の名は王喜勝、女はその妻の李軍で、痩せた男はこの宿の主人、史小倚という。この金陽に住む数少ない太乙北辰教徒である。
王喜勝が史小倚に訊ねる。
「用向きは何だ? わざわざこの都まで来られるという事はやはり……あの事か?」
「まあ……そうだ」
「で? お前は何を喋った?」
王喜勝はじっと史小倚の目を真っ直ぐ見据えて返事を待っている。すると史小倚は慌てたように腕を振った。
「言える様な事など殆ど何も無いではないか。我らは何も知らぬ。か……夏天佑と名乗る者と……あの洪破天様を泊めただけで……」
「でも真武剣の奴らが絡んできたじゃないか。それも誤魔化せたと言うのかい?」
李軍も問い詰める様に史小倚に迫る。
「だから早々に引き上げていったと伝えた。そもそもあの方は真武剣の事には興味があまり無いようだ。全部……殷汪様に関する事だけ訊かれた」
「それでお前は解放して貰えた……ということは?」
「お咎め無し、で良いのだろう。我らは都に居るが方崖から見ればこっちが辺境のようなものだ。向こうで何があろうと知るのは……下手すればひと月、いや、もっと……なんて事もある。我らに何が出来る? 突然来て、数日泊まって、そして帰っていった。それだけだ」
史小倚は首を振って溜息まじりに言うと、そのまま地べたに腰を下ろした。
「意外だったが、穏やかな感じだった」
「何が?」
「無論、話すなど初めてだったが、随分と気さくなお人のようだった。責める様な事も言われなかった。不思議だ」
「まぁ、我らは噂程度しか知らぬからな。七星劉毅……」
王喜勝と李軍も部屋にあった粗末な椅子を引き寄せ、腰を落ち着ける。史小倚は変わらず地面に足を放り出し、しきりに顔の汗を拭った。
王喜勝らがこの宿へ来る前、史小倚は北辰七星の劉毅と会っていた。宿に突然現れた劉毅に半ば強制的に連れ出された史小倚は、一年前に殷汪がこの都へ来た時の事について訊かれていたのである。王喜勝らが知ったのは史小倚が密かに下男を使い知らせる事が出来たからだ。
自分らには何が出来るでもない。ただ、劉毅が捕らえに来た可能性はある。太乙北辰教を裏切った殷汪と繋がっているという嫌疑がかかっているのではないか? ならば、釈明するか、それとも逃げるか――。既に劉毅に見つかった史小倚はどうにもならないが、王喜勝や他の数少ない同志達にはまだ逃れる余地はある。しかし、それを聞いて此処へ来たこの王喜勝、李軍の夫婦は逃げる事を選ばなかったようだ。
「それで、いつまで此処に居ると?」
「すぐに方崖へ向かわねばならんらしい。他に手掛かりも無いし、居続ける理由は無いだろう」
「他にもあるではないか。倚天剣の事はどうだ? 触れなかったのか?」
「いや、俺はただ知らないと答えるしか無い。本当に知らないんだからな。方崖から剣を持ち出した女とやらがその後何処へ言ったかも不明だ。買った者の身元も――」
「それは城南の稟施会だろう?」
「噂じゃないか。それにその事は既に知っていた。『噂があった』というのはな」
「ならば残るは一つ。殷汪様の――」
王喜勝が睨みつけんばかりに見るので史小倚は地面を叩いて声を荒げた。
「言うものか! 絶対に言わぬ!」
「馬鹿、声が大きいよ!」
李軍が慌てて表の方を窺いつつ、部屋の扉を閉めた。そこで王喜勝が大きな丸袖を振って居ずまいを正し、改まった口調で言う。
「いいか、もう一度確認しておくぞ。我らはこれからも変わらず太乙北辰教徒だ。そして教主様に忠誠を誓う。そうだな?」
ああ、と史小倚も当然だと言う様に大きく頷いた。王喜勝は続ける。
「忠誠を誓うのは教主様に、だ。それは全ての教徒にとっての義務だ。殷汪様でも、張新様でもなく、教主様にのみ、だぞ」
「そうだ。だが、……殷汪様を売るような真似はしない。絶対に」
「無論だ。殷汪様は方崖を離れ、わざわざ此処に立ち寄られたあの時も尚、教主様の身を案じておられた。更に我等の様な者の事までもだ。張新様がどの様な方であるのかは判らぬが、殷汪様には二度も直にお会いして我らは感じた。絶対に教主様の、太乙北辰教の敵ではない」
言ってから王喜勝、史小倚、李軍の三人は大きく頷き合っていた。