第十三章 十九
「そいつら、いつ頃此処へ来たんや?」
『倚天が都に現れた後』
「まだ最近やな」
倚天が現れたなら青釭も、と考えたのなら当然の事だ。今までは無く、そしてこれから傅朱蓮の腰にある青釭剣を狙う者達が姿を現し始めるのだ。
『お前にその剣が守れるとは思えない』
老婆にとって守るべきは剣であって、傅朱蓮では無い様である。
「でも……、どうする事も……」
『この婆が預かっても良い。だがお前は嫌であろうな』
傅朱蓮は答える事が出来ず、代わって狗不死が言う。
「あんたは殷を知っとるみたいやけど、まだ信じたわけや無い。この剣が欲しいだけかもしれへんやないか。渡すわけにはいかへんなぁ」
『狗どのがその剣を守って下さるのならば、これ以上は言いますまい』
「狙っとるんがどんな奴らか知らんけど、そらぁ儂かて手出されて何もせんなんちゅうつもりは無いけど?」
『ならば結構。気をつけて行きなされ』
その後、暫く狗不死と傅朱蓮は黙ってその場に佇んでいた。しかし老婆はもう何も言わない。去ったのかどうかも全く判らない。
「朱蓮、行こ」
狗不死の呼びかけに頷いた傅朱蓮はその瞳を潤ませていたようだったが、顔を上げて大きく息を吸ってから、再び進み始めた。
それから数日、進んでも進んでも雨からは逃れられず、狗不死ですら随分と口数が減ってしまう程、気の滅入る旅が続いた。加えて老婆の言った青釭剣を狙う者の事が気に掛かり、どうにも気が休まらない。だが一向にそれらしき怪しい影も見えず、あの話は出鱈目だったのではないかと思い始めていた。
「雨はじきに止みますよ」
宿の下男が、軽い調子で言う。
「いや、信じられへんわ。もう儂は死ぬまで青い空拝む事なんて無いんや。絶対そうや!」
「そんな……いや、この辺は毎年こんなもんです。もうじき嫌というほど晴れますよ」
「『嫌』なんはもう嫌や!」
「……」
男は呆れ顔で連れの傅朱蓮を見るが、傅朱蓮は黙って肩を竦めるだけだった。
「何処まで行かれるおつもりで?」
宿は人も疎らで、この男は暇の様である。
「北へ少し行けばもう堯家村ですが、その頃には青い空が拝めるでしょう」
「そうならどれだけ有難いことかしら。私ももう雨は当分いいわ」
傅朱蓮は小雨の降る表に目を遣って呟く様に言った。
「お客さんは武慶に行かれましたか?」
不意に男がそんな事を言うので傅朱蓮は男を振り返った。
「何故?」
「お客さんは武芸がお出来になるのでは? そんな立派な弓は私は初めて見ます。それに剣も提げてらっしゃる。道行く者が振り返っていたんじゃありませんか?」
傅朱蓮は、随分と馴れ馴れしい口を利くものだと眉を顰めたが、男が話し掛けたがるのも無理は無い。傅朱蓮の身形は他の旅の者達と比べて一際垢抜けて見えるのだ。珍しい反りを持つ長弓も人目を引く。子供の様に駄々をこねるおかしな老人を連れた若い娘。奇妙というより珍妙、そんな二人に興味は抱いても警戒する気など起こらなかった。
「武慶というのは? 私は真武剣派とは関わりが無いわ」
「ああ、そうですか。いえ、武慶では真武剣派のお祝いがあったと聞きましたのでね。真武剣派が大勢のお仲間を集めて大変な賑わいだったとか」
「そう……らしいわね」
何故か傅朱蓮はそう答えた。特に深く考えた訳でもなく、何となく、である。
「太乙北辰教までもが人を遣ったとか。凄いですねぇ」
真武剣派は――という事なのだろう。ついにあの北辰教までも真武剣派の顔色を窺うまでになったとでも思っているのだろうか。
「私も初めて北辰の七星とやらを見ました。やつらがこんな処まで来るなんてかつては考えられなかった事ですよ」
「あなたが……見たの? この辺りで?」
「はい。ついこの間ですよ。いや、本当は私は何も知らなかったんですがね。そいつに気付いた旅の人が教えてくれたんですよ。この近くに北辰が居ると。武慶に行った後、こっちに来たんですかねぇ。何でも名の知れた奴だと言うんでちょっと此処を抜け出して見に行ってしまいましたよ」
男はそう言って笑っている。傅朱蓮の視線は自然と、丁度顔を上げた狗不死に向いた。
「北辰の誰や?」
「ええと……」
「林玉賦いう名ちゃうか?」
「いや、あー……」
男は名を思い出せないようだ。本当に北辰七星の誰かが居たならそれなりの騒ぎがあってもおかしくない。そしてその七星とは林玉賦である筈だ。傅朱蓮らは武慶に現れた林玉賦を見たのである。
名がすぐに出てこないところをみるとこの男は本当はあまり興味が無かったのかも知れない。七星の名は広く知れ渡っている筈だが、太乙北辰教はこの土地の者からすれば遥か彼方にある辺境の集団であるし、武林に縁が無ければ尚更、記憶から消えるのも早いだろう。周りで人が騒いでいるのを見て、ただ覗きに行っただけといったところか。
「なんだかおっかなそうな厳つい男でしたよ。でも、本当に偉い奴なのかは知りませんよ? お供も一人も連れてないし、本当かぁ? って感じで」
「一人で? ……もしかして、劉という人では?」
傅朱蓮が言うと、男は目を見開いて手を打った。
「そう、それです! みんなそう言ってましたよ。まぁ確かに腕っ節は強そうでしたね。腕がこんな、いや、これくらいありましたから」
男は両手で輪っかを作りながらそう言った。
「……七星の劉なら、腕っ節が強いなんて程度じゃ済まないわ」
男が急に弱々しい小声を出す。
「あの……もしかして、お知り合いで?」
「噂はよく耳にするわ」
傅朱蓮の答えを聞いた男は明らかに取り繕う様な笑みを浮かべて、
「ハハ、そうですそうです。いやぁ、とにかく何やら凄そうなお人でした」
そう言いながら男はそそくさとこの場を離れようとする。見ず知らずの者に下手な事を言うものでは無いと今更ながら気付いたのか。だがそれを傅朱蓮は引き止めた。
「この近くで見たの? 北辰七星の劉に間違いないのね? 背は大きかった?」
「え、あー、このくらい、だったか……」
男は腕を頭上に伸ばして高さを示した。確かに大柄そうだ。
「この前の通りを行きましたよ。北へ。私らは遠巻きに眺めてただけで」
「北へ……」
「劉毅やな。『厳つい』なんて鐘や侯では言わんやろ。慮やったらもっとでかい」
「方崖から出てきたのは林玉賦だけじゃなかった……やっぱり殷兄さんを追ってるのね」
「一人でか? 殷相手に一人では話にならへんいうのんはあいつら七星が一番よう知っとんやで?」
「でも、他にあの人が今、こんな処に居る理由があるの? 他の七星も来ていて何処かで会うかも」
「そらぁ殷の居場所探るくらいはするやろけど、見つけても手は出さへんやろな。……北か。何やろ? しかしあいつも色んなとこ、うろついてんなぁ。忙しいこっちゃ」