第十三章 十八
表に出て傅朱蓮がまず向かったのは、昨晩、老婆が言っていた『隣の傅家』である。向かうといってもそこは既に視界にあり、そして目指すべき目印になる物も存在しない。ただ濡れた草むらが広がるだけである。
「此処で……私が生まれたなんて、信じられないわね」
傅朱蓮の呟きに、田庭閑は何も言えなかった。自分も傅家がそこにあったというのは昨晩初めて聞いたのである。
よく探せば柱の立っていた痕跡ぐらいはあるのかも知れない。しかしそれを探して傅朱蓮に教えるべきか、それすら田庭閑は迷ってしまう。表情を失ったような今の傅朱蓮がどこまで知りたいのか、計りかねた。恐る恐る、傅朱蓮に訊いてみる。
「此処での暮らしの事は、何も聞いてないのかい?」
「お父様に? ……たまに話してはくれたけど、詳しく思い出す事自体、あまり気が乗らないみたい。でも、どんな暮らしぶりだったかくらいは教えてくれたのよ」
「君の……お母さんの事は?」
「東淵の、お母様と一緒になったから、お父様も此処での事を口にするのは躊躇いがあったと思うわ。私がまだ何も解らない赤ん坊のままだったら、いっそのこと何も言わずに済んだかもしれないのにね。でも、そうじゃなかった」
「でも、君が一番知りたいのはやっぱり……」
田庭閑が言うと傅朱蓮は不意に笑みを浮かべ、田庭閑へと向ける。ただ、それはどこかぎこちなかった。
「私なんか、まだましよ。お父様が居る。この村の事を知っている洪小父様も、殷兄さんも居る。でも、紅葵姐さんは……両親も、生まれた場所も、全く何も解らないんだもの。紅葵姐さん、知ってるわよね?」
「ああ、会ったというか、一目見ただけって感じだけど」
「やっぱり、これでも私は恵まれてる方なんだわ」
傅朱蓮は此処で何も探そうとはしなかった。何も無い、と諦めているのだろうか。それを見ている田庭閑も立ち尽くしたまま、傅家の跡地を眺め続けた。
「あの婆さん、何処行ったんや?」
辺りが明るくなり始めた頃、狗不死も目覚めて表に顔を出した。
「判りません。出掛けたかも。本当にこの村だけでは生活するのに足りないから。たまに買出しにも行くし」
「そんな金、あるんかいな」
「まあ、あるんでしょう。俺には隠してるだけで」
馬の様子を見ていた傅朱蓮が戻って言う。
「お婆さんに、お礼を言っておいて。それに、お詫びと。あんな酷い雨の中に追い出す様な事になって、申し訳なかったと」
「えっ、もう行くのか? まだ、何も聞けてないじゃないか」
「いいの。これが最後って訳でもないし、今回は殷兄さんを探すのが旅の目的だから。のんびり行くという訳にもいかないし」
「そうか……」
がっくりと項垂れる田庭閑の肩を狗不死が叩く。
「一緒に行くか? 次、都やけど」
「都なんて無理ですよ。……俺はまだ此処に居ます」
「ほうか。あの婆さんの功夫、何とかして聞き出すんやで。あんなんに出会える機会はまず無いしな」
「万が一、聞けても理解するのは到底――」
「若いくせに何言うとんねん。この先、何十年もあるやないか。羨ましいわ」
田庭閑はハハ、と乾いた声で小さく笑うが、『何十年』と聞き落胆した。武林の修行で何十年というのは何も特別な事では無い。だが、まだ若い田庭閑には手に入れるのに何十年も掛かるなど我慢出来そうもない。
早々と馬を引き連れて戻って来た傅朱蓮の姿に、田庭閑は更に落ち込んだ。
(ちょっとぐらい未練があるらしいところを見せてくれてもいいじゃないか)
だがすぐに思い直す。この場所から、離れたくなったのかも知れない。嫌いである筈は無い。だが、此処はやはり傅朱蓮の心情を掻き乱すのだろう。それもあの老婆の態度が柔らかかったなら違っていたろうに――。
「また……来るかい?」
「ええ、もちろん。いつか、皆揃って此処に来れたら……。今はまだ夢でしかないけれど」
傅朱蓮は田庭閑に微笑を返した。皆、とは傅千尽、洪破天、殷汪の事である。
「君は若いけど、でも急がないとあの洪さんなんかはもう歳も――」
「洪小父様はまだまだ元気よ」
傅朱蓮が口を尖らせたので田庭閑は少しばかり焦った。ふと、緑恒千河幇の范撞の顔が思い浮かぶ。范撞なら多分、笑って別れられる様な何かを言うだろう。田庭閑は慌しく口を開いた。
「都、都に行けばきっと、君の姉さんの事、聞けるんじゃないかな」
笑える話とはかけ離れていたが、きっと傅朱蓮にとって喜ばしい事に違いないという確信が田庭閑にはあった。
「紅葵姐さんの?」
「今、都では傅夫人が懐妊したって噂が流れているらしいんだ。まだ公布は無いみたいだけど、都の人達にとっては今、最大の関心事の一つだよ」
「そう……姐さんが……。元気で居てくれてるのね」
傅朱蓮がまた笑顔を見せたので、田庭閑はほっと胸を撫で下ろした。
「朱蓮、ほな行こか。とりあえず飯屋や。腹減ってしゃあない」
狗不死が馬に乗り傅朱蓮の横に着ける。
「ええ、行きましょう。田さん。また会いましょう。きっとよ」
「あ、ああ。次、次会う時には、そうだな……あの猪、運べる様になってる筈さ」
田庭閑はそう言って反応を窺っていると傅朱蓮が此処へ来て一番の笑顔を見せてくれたので、一緒になって笑った。
傅朱蓮と狗不死が小雨の中、村の入り口の谷間を進んでいる時だった。風と、それに揺れる木々のざわめきの中に、声が混じっていた。
『その剣が危ない』
「お婆さん!」
傅朱蓮は辺りに目を凝らすがやはり姿は見当たらない。声は間違いなくあの老婆のものだった。
「何でいっつも隠れてんねん。出てきたらええのになぁ」
狗不死も言いながら首を廻す。
『ちと遠いものでね。お許し下され』
「お婆さん。昨晩は失礼を――」
『青釭を探す者が居るよ』
「これを……?」
傅朱蓮は思わず腰の剣を握り締めた。
『殷汪様が亡くなったという話が広まってすぐ、倚天が現れた。ならば青釭も何処ぞへ現れるやも知れぬとな』
「私はずっとこれを帯びて旅をしています。でもそんな人には会った事がありません。それにこれは一見しただけでは青釭剣だなんて誰も……」
『判る者は一人も居らぬと? その剣はお前より永くこの江湖に生きているんだよ』
「探してる奴をあんたは知っとんか?」
『此処へも来た。その剣はかつて殷汪様と共に此処にあったのでね。今まで無事であったのは運良くまだ気付かれていないからだね。奴らは集団だ。一度目を着けられたら厄介だよ』
「奴ら、とは?」
『黒ずくめの男達だね。何処の者かは判らない』
黒ずくめとは確かにはっきりとした特徴ではあるが、あまり当てになる情報でもなかった。