第十三章 十七
いよいよこれから青釭が姿を現すという処で、老婆は微かに開いた唇から長い息を吐きながら、剣を鞘へと戻してしまった。小さく頷く様な仕草を見せた老婆は、本物だ、とでも確信したのか、改めて鞘全体を眺めてから傅朱蓮に向かって剣を差し出した。この時にはすでに青白い光は消え失せていた。
「青釭は昔から殷汪様が持っていた。倚天は、此処を離れてから手に入れられたと聞いている」
老婆の口から『殷汪』という名がようやく出てきたので傅朱蓮は不意に感慨を覚えた。
「あの……」
「お前が裸で生れ落ちるのをこの目で見たのがもう……いつの事か?」
考え込み遠い目をする老婆に、傅朱蓮が言う。
「二十……二年になります」
震える声でそう告げた傅朱蓮を老婆はじっと見ていたが、何故か変わらず感情らしきものを一切面に出さない。二十余年振りの再会というのに何も感じないのは当時傅朱蓮がただ泣き喚く赤子でしかなかったからなのか。或いは、二十余年が長過ぎたか。
「お婆さんはこの、朱蓮さんが生まれた時を知ってるのかい?」
田庭閑が傅朱蓮を助けるべく会話を繋ぐ。
「傅家は隣だったからね。良く知っている」
老婆は左の腕を挙げ、真横の壁を指差した。その先が当時傅千尽夫婦が暮らしていた場所であったのだ。傅朱蓮はこの家に入る前に見えた風景を思い返してみた。だがそこには何も無かった気がする。
「もう無い。何も」
老婆は冷たい声で、そう言った。
直後、老婆は顔を上げて入り口の戸を凝視する。するとまもなくその戸が軋んだ音を立てて開き始めた。狗不死が戻って来たのである。
「なんや固い戸やなぁ。邪魔するで」
狗不死はちらと部屋の中を一瞥しただけで特に何かに注意を払うわけでもなく、焚かれている火に向かって駆け寄った。
「すんませんなぁ。急に来て」
狗不死が手もみしながら言うと、老婆はゆっくりと拱手して頭を下げた。今までと随分違う態度に、特に田庭閑は大層驚いた。老婆は低い声で、
「狗幇主にまみえるなど全く想像すらしておりませなんだ。ご縁といえば、不死の二字でございますが、はたしてどちらが真なる不死であるか、是非お姿だけでも拝見しとうございました」
これを聞いた傅朱蓮と田庭閑に緊張が走る。姿勢はともかく、到底まともな挨拶ではない。まさか狗不死に挑みかかるつもりかと気が気でないが、狗不死もこんな前口上を聞いて油断はすまい。二人は狗不死の反応を窺った。だが、狗不死に変化は無かった。
「そらぁあんた、どうやら歳は儂とそう変われへんみたいやけど、こんなとこに引っ込んだまま不死を名乗っても意味無いわ。此処から出て勝負せんとなぁ。あんた、勿体無いで」
いきなりそんな話を、と傅朱蓮は焦ったが、老婆は意外にも頷いて応じていた。
「確かに。このところ、この村にやってくる者が増えておりますが、皆、武林の人間を自称しながらその殆どが小物ばかり。今ならこんな不死の婆でも良い思いが出来るかも知れませぬな」
「どっから大物か知らんけど、そんなんは用無いわこんなとこ」
狗不死も遠慮などせず、言いたい事を言っている。老婆もただにやりと笑うばかりで、不思議な間で辺りは満たされていた。
「殷、来てへんか?」
狗不死が単刀直入に、しかも不意打ちの如く訊く。すると老婆は顔を僅かに曇らせて、ゆっくりと間を置いてから訊き返した。
「本当に、生きておいでですのか?」
「そうらしい。せやからこうして確認の為に探しとんねやけどな」
老婆は田庭閑を見る。そして田庭閑も頷いて答えた。狗不死の言葉によって田庭閑の老婆に伝えた話はその信憑性が幾分増す事となった。
「殷汪様が、この咸水を再び訪れる事はありますまい。他所を探しては如何か。それも、ずっと、遠くを」
老婆はそう言うと踵を返し、そのまま家を出て行こうとする。
「何処へ?」
田庭閑が老婆に問うと、今夜だけは此処を貸す、とだけを言い残して裏口を通り、雨の中を出て行ってしまった。
「あの肉……は、無理なんか?」
田庭閑は狗不死に向かって力なく首を振って見せた。
結局、老婆は傅朱蓮の存在など殆ど無視するかの様に、なんら感情の変化を見せなかった。
「まぁ、人なんていつどうなるか分からへん。あの婆さん、壊れてもうたんかも知れへんで」
「止めて! ……そんな事、言わないでよ」
「朱蓮、人ってなぁ。そんなもんなんやで? そうなっても仕方ない事なんやて。此処が襲われた時を記憶してる筈のあの婆さんがこの村に居続けるなんて、普通やない」
「お婆さんは襲われた時は村を離れていたようですけど」
田庭閑が口を挟むと狗不死はフンと鼻を鳴らした。
「そんなんどうでもええ」
傅朱蓮はその後殆ど口を開かず、じっと何かを考え続けている様だった。この家には何も無く、食べる物の用意も無い。狗不死ですら傅朱蓮の口を開かせる事は出来ずに、あとは土間に横になって眠る以外する事が無かった。田庭閑も傅朱蓮の為に老婆から何の良い話も引き出す事が出来ず、落胆する中で眠りに落ちていった。雨音だけが響く中、傅朱蓮は目の前の炎をぼんやり眺めながらただ一人起きていた。
夜明け前、先に起き出したのは田庭閑だった。昨晩の焚き火がまだ燻っているのを見て暫くぼんやりしていたが、不意に目を見張って辺りをしきりに窺った。
何も変化が無い。家中に充満する筈の煙が殆ど無かったのである。田庭閑はすっかり失念していたのだが、いかな穴だらけの家とはいえ、一晩、家の中で火を焚き続けてその傍で寝ている人間が朝まで無事で居られる筈が無い。この家は壁や屋根の一部が容易に外せるようになっていて、火を焚く時は殆ど開け放つのだが、昨日からの激しい雨で屋根はそのまま、壁に幾つもある穴は塞がれてすきま風程度にしか外気は入って来ていない。
「朱……朱蓮、朱蓮」
田庭閑は念の為、火の前で横になり丸まって眠っている傅朱蓮の肩を揺すった。煙を吸う事は無かったとしても気分の良い目覚めとはいきそうもない。煙の匂いは家中に充満しているのだ。
うん、と小さく唸った傅朱蓮がゆっくりと目を開けた。
「ああ、……寝てたのね」
「良かった。危うく俺達、燻製になるところだった」
冗談のつもりが傅朱蓮の反応は起きたばかりというのにすこぶる良い。
「まさか! お婆さんが? 狗さん! 狗さんは?」
傅朱蓮の見遣った先では狗不死が何やら口を動かしながら、まだ夢の中で遊んでいる様子である。
「お婆さんじゃないよ。多分、お婆さんが時々見てくれたんだと思う。俺達が火を焚いたまま眠ってしまったから」
傅朱蓮は改めて家の中を見回した。確かにこの広さではあっと言う間に煙を吸って動けなくなるところであった。今は煙はあまり無いが匂いはきつい。
狗不死は問題無く眠っている。二人は外の空気を吸う為に外へ出る。まだ暗く、雨も降り続いていたが、もうその勢いは和らいでいた。