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流浪一天  作者: Lotus
第十三章
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第十三章 十六

「いつまでも此処に居ても仕方ないわ。行きましょ、あのお婆さんの処」

 立ち上がって出て行こうとする傅朱蓮に、田庭閑と狗不死も続いた。幾ら待った処で雨は止むどころかその勢いを弱めそうにも無い。もう陽も傾いている筈で、辺りは益々暗くなっていくばかりだった。

「あ、居ない」

 一人、雨の中に飛び込むようにして草むらまで戻った田庭閑が言う。辺りを見回しているが、血まみれの猪が何処にも見当たらなくなっていた。田庭閑は傅朱蓮の傍まで戻って来ると、

「お婆さんが持って帰ったみたいだ」

「嘘。一人で? あれを?」

「……それ以外考えられないよ。血の跡だけは残ってた。行こう。こっちだ」

 田庭閑は返事を待たずに再び雨の中へ駆け出し、傅朱蓮と狗不死は一瞬躊躇ったが覚悟を決めるとその後を追った。

 時々、崩れた家に逃げ込むように雨を避けるが足を止める事は無く、走っている時の方が遥かに長いので三人ともあっと言う間にずぶ濡れとなってしまった。皆同様に足元を泥で汚している。傅朱蓮は時々衣服に目を遣りながら眉間に皺を寄せていた。

 田庭閑が足を止めたのは、他に比べれば幾らかましという様な一軒の民家の前だった。壁の穴に一応の修繕がなされているが隙間が空いていて、しかもそんな箇所がそこかしこに見受けられる。風通しの良さそうな家だ。

「もう、どうするのよこれ」

 傅朱蓮の羽織った衫の袖がまるで(おもり)の様に下がっている。

「中で火が焚けるんだ。乾かせるよ」

「あっ、飛雪!」

 傅朱蓮は置いてきた愛馬の事を思い出し、何気なく狗不死を見た。

「ああ、儂か。儂やな」

 狗不死はそれだけ言うとまた、雨の中へと歩き出す。

「狗さん、ごめんね」

「こんだけ濡れたらもうこれ以上は無いわ。あんたら先に入っとき――」

 狗不死が傅朱蓮らを振り返った時、二人はまさに中へと入っていくところだった。

「誰も……居ない?」

 中は暗く、人の気配は無い。部屋が幾つもある様な家ではなく、確かに誰も居ないようだ。田庭閑が一人奥へと進み、傅朱蓮は入り口で待つ。走って温まっていた体が冷えていくのを感じ、肩を震わせた。

 田庭閑が部屋の真ん中辺りでしゃがみこみ、その直前で小さな火が灯る。

「えっ? 火、そんな処で大丈夫なの?」

「ああ。此処は……焚き火の周りを壁と屋根がただ囲ってるだけの場所だからな」

 田庭閑が脇に積んであった木の枝の束から幾らか引き抜いて()べると火は瞬く間に大きくなった。慣れない傅朱蓮は辺りに燃え移りはしないかと不安になったが、田庭閑は特に気にする風でもなく、そのまま奥へと歩いて行く。

「火に当たるといいよ」

 傅朱蓮は何故か忍び足になりながら火に近付いて行き、ようやくほっと一息ついた。辺りを見回してみる。置いてあるのは皆、農作業に使う道具ばかりでそれ以外の用途のありそうな物は見つからない。土の匂いのする家だった。

(此処にお婆さんが住んでいるのなら……此処が殷兄さんの家だった?)

 二十数年前は全く違う姿をしていたに違いない。今のこの家は人が住めると思えないからだ。では老婆と田庭閑はこの家の何処で休んだりするのだろうと思いながら、ゆらゆらと光が揺れる室内を眺めていた。

 

 田庭閑は老婆を探しに出たのか、気配が無い。奥にも入り口があるのだろうかと傅朱蓮が目を凝らしていると、不意に物音がして思わず息を呑んだ。正面に人影が現れる。一体何十年着ているのかと思うほどにぼろぼろになった袍を纏った、老婆がそこに居た。

 何も言わず射すくめる様な視線を向けてくる老婆に、傅朱蓮は身体の芯から起こる震えを感じた。

「あ、あの……」

 ようやく搾り出した傅朱蓮の声にも反応せず、老婆は傅朱蓮を観察している。するとその後ろから田庭閑が姿を現したので傅朱蓮は安堵の吐息を洩らす。このまま老婆と二人きりが続けば息が止まってしまいそうな気すらしていたのだ。田庭閑は老婆の脇を抜けて傅朱蓮の傍に立った。

「こちらが傅……傅朱蓮さんだよ。傅千尽さんの――」

「お前は、武芸者か? それとも猟師か?」

 田庭閑の言葉を無視して、老婆が声を発した。『猟師か?』という言葉の意味が解らず、思わず田庭閑を横目で見ながら助けを請う傅朱蓮。田庭閑にも解らないらしく、怪訝そうに老婆を見ていた。

「その背にあるのは何か? 弓ではないのか?」

 老婆の声は少し怒っている様にも聞こえる。傅朱蓮は思わず背にある長弓に手を伸ばした。

「これは……、弓です。すみません」

 何故か謝ってしまった傅朱蓮は恐縮しきりで怒られた子供の様に俯く。

「山で狩りをするにはちと長過ぎる。その剣は? お前は剣が出来るのか?」

 傅朱蓮は顔を上げられないまま、腰に提げた長剣を掴んだ。

「あの……教わりました。……洪破天、小父様に」

 老婆は傅千尽の娘という言葉に反応を示さない。ならば洪破天の名はどうかと傅朱蓮は試してみたのである。それから傅朱蓮は恐る恐る顔を上げたが老婆の表情は微塵も変化が見られなかった。老婆の灰色の薄い唇が開く。

「だが、その衣服に滲みた雨を散じる程度の内息(ないそく)の運行は出来ぬのか」

「あ……そこまでは……」

 体温を上昇させ衣服の湿気を蒸発させてしまう程の内功は残念ながら傅朱蓮は未だ持ち合わせていなかった。それは簡単な事ではなくそこまで到達するにはかなりの修練を必要とする。内功についても洪破天から教わってはいたが、どちらかと言うと剣術を主とする外功一般の方が修練の主体となっていた。

 老婆はつと顔を横に向け、そのまま部屋の隅に歩み寄って何やら手を動かし始めた。それは傅朱蓮とは何の関係もない日常の作業であるらしく、傅朱蓮は完全に無視されたまま時が過ぎていく。

「座って」

 田庭閑がいつの間にか粗末な小さい椅子を用意してきて傅朱蓮に差出し、傅朱蓮は小声でありがとうと言ってそれに腰を下ろした。田庭閑は老婆に向かって言う。

「傅さんは殷汪どのを探しているんだ。死んでなんかいないんだよ。嘘じゃない」

 田庭閑は東淵で知った殷汪の話を、前に老婆に聞かせていたのだろう。老婆は信じていなかったのか、田庭閑は死んではいないと強調した。

 すると老婆はすっと立ち上がり、火の傍まで音も無く近付いてきた。火の光に浮かび上がる老婆の顔。手入れをするなどという概念は老婆には皆無なのだろう、無数の皺で覆われたその肌は浅黒く、土の色と同じだった。

 老婆は右手を傅朱蓮に差出し、剣を、と掠れた声で言った。傅朱蓮は剣を受け取ってどうするつもりかと思ったが、この長剣は青釭という名の、殷汪に貰った剣であるという事に思い至って、それを腰から外し老婆の痩せ細った手に渡した。

 老婆は殆ど特徴らしき処もないその鞘を一瞥してから、剣の柄に手を掛ける。その瞬間、様子をじっと見ていた傅朱蓮と田庭閑は揃って、あっ、と声を上げた。何の変哲もない黒い鞘がにわかに青白い光を帯び始めたではないか。薄く広がった炎の様な光によって、その像が揺らぐ。

 老婆はその手ごたえをじっくりと味わうかの様に目を閉じ、長く息を吐いた後に、ゆっくりと剣を抜いていく。姿を見せ始めた剣身も鞘と同様、青い光に包まれていた。

 


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