第六章 十三
「どう違う?」
「黄色のやつも悪くは無い。香りでしか判断出来なんだんじゃが、黄酒、おそらく老酒の類じゃな。似た様なものは都でならすぐ見つかるが、あれは中々のものじゃ。儂等が飲むには高価じゃな」
「じゃあ赤い封のやつは?」
「それじゃ。儂は赤い方を頂く事にした」
「事にしたって……もっと良い酒って事だな?」
「あれはすこぶる良いのう。白酒じゃが……うむ、あれは……」
老人は顔をやや上方に向け目を閉じ、香りを思い出している様だ。
「何とも濃い……んん……汾酒の類では無いのう。あんた、五粮液は知っておるか?」
「ああ、西方の最高級の白酒とかいうやつだろう? まさかそれだと? 俺は飲むどころか匂いを嗅いだ事も無いぞ。大抵は偽物らしいではないか」
「ハハ、本物が無ければ偽物も無かろう? 儂が思うにあの赤の封はその辺じゃな。しかもかなり長く熟成されておる」
「赤の封二つ共か? あんな甕二つ一体幾ら掛かるんだ? 相当金が掛かってるな」
「だろうのう。今回は幸運であったわい」
「しかし、そううまくそいつが飲めるのか? 今此処に居る人間が皆押し寄せれば選んでなど居れまい?」
「此処じゃ」
「ん?」
「この位置に居ればあの赤い封の甕に当たる。儂の計算ではのう」
「……そううまくいくもんかな」
「あんたは初めてかもしれんが儂は違うんじゃ。まぁその時になったら儂に着いて来なされ。ご馳走して進ぜよう」
「ハハ、まるで爺さんの振舞い酒みたいだな」
武大と隣の老人が話していると突如、再び辺りは歓声に包まれた。武大は辺りを見回してから正面に目を遣ると、陸皓が両手を上げて応えている。
「お? 何だ終わったのか」
常施慧は呆れて、
「本当に何も聞いてなかったのね? しょうがない人ね」
「儂が聞いておっても解らん。おい、この後良い酒が飲めるらしいぞ?」
武大は後ろの弟達の方を振り返って言う。
「本当か? ま、そんな事でもなけりゃこんな所に来た意味が無いしな」
武小大が言い、武中大が頷いて賛同する。
「口を慎みなさい。あなた達がそんな事ばかり言って、道長様に恥をかかせるつもり?」
「爺さんは気になどせんわ」
「馬鹿な事言わないで――」
「おい、どうした? 何だ?」
急に武大が常施慧の言葉を遮った。武大は首を伸ばして前方に目を凝らしている。
「どうしたの?」
常施慧は武大の腕を取って思い切り背伸びをするが前に居る者達が皆同様に背伸びをしているので全く見えない。
陸皓が話を終えて大きな歓声に応えながら群衆を見回していると、急に新たなどよめきが起こり人が動くのが見えた。一人や二人ではなく、ある点を中心にして人の波が放射状に広がって穴が開いた様になっておりただでさえ人でごった返していたその周囲は押し潰されそうになって悲鳴に近い叫びまで聞こえてくる。陸皓の両脇に並んでいる木傀風や各派の代表者達もそちらに顔を向けて何事か窺う。控えていた白千雲以下真武剣派の高弟達が警戒の表情で飛び出した。
群衆の中にぽっかりと開いた輪の中心には真紅の衣装を纏った女性、その周囲を見張る様に黒装束の男達六人が女性を背に囲んでいた。
「景北港方崖臣子林、真武剣派陸皓総帥様に御目文字致します」
そこに居た女は赤い唇を小さく動かして言った。その声は、陸皓の位置まで三十間近くはあったが周囲のどよめきを物ともせずに通り抜けた。
「何だあの女? 誰だって?」
「おい押すな! お前知らんのか? 今も言っただろうが北辰七星の林、押すなって!」
「俺じゃねぇよ! 林だって? 林汪迦……あの女が?」
「でも何だってこんな所に……やばいぞ」
「やばい? 何がやばいんだ? こっちにはこれだけの人数が居るんだぞ? 事が起きれば向こうの方が不利だろう?」
「お前は何も知らんのだな! あの女が袖を一振りすれば取り囲んでる俺達は皆仲良くあれの毒針を頂戴する羽目になるんだぞ! こっちは幾ら人間が居てもこんな状況では皆同時にかかれる訳も無い! おい下がれ!」
女が周りの黒装束の男達に視線を向けるとその内の二人が先頭に立ち進み始める。人々は少しでも遠く離れようと後退していき、女の居る場所から陸皓らの居る方へ道が出来ていった。
赤の裙を身に着けてその裾を少し引き摺り、同じく真紅の袖の大きな襦を纏って首には柔らかな純白の毛を巻いている。随分と暖かそうではあるが、胸元の丸い襟が大胆に開いていた。雪の様に白い胸と顔。微笑む豊かな唇に伏せた長い睫が人々の視線を釘付けにする。
女、林汪迦を見知っている者達は皆一様に怪訝な表情を浮かべていた。間近でその姿をじっくり眺めた事のある者は居ないが、今此処に居る林汪迦は全く印象が違っている。それだけに余計警戒心を強めた。
「林……玉賦」
女を警戒し白千雲ら兄弟子達と共に前へ出た郭斐林が呟く。隣に居る白千風は視線は女に向けたまま口を開く。
「今は汪迦と名乗っている様だな……師妹、油断するな」
「ええ」
郭斐林はゆっくりと進んで来る林汪迦を凝視しながら、ふと環龍客桟の女主人、紅玉麗の姿を思い起こした。しかし二人が似ている訳ではない。年齢はこちらの林汪迦が若いだろう。派手な衣装も紅玉麗は普段から好んで身に着けている様だが、林汪迦の方はこの場に居る人間の記憶の中には着飾っている姿は無い。北辰教教主直属の配下、七星と呼ばれるその内の一人。対峙した敵を怪しげな暗器でもって笑みを浮かべて弄ぶ使い手である。戦いに邪魔になりそうな長い裙など好む様には思えない。その女が今、煌びやかな衣装を纏い、美しいその素肌は紅玉麗などとは比べ物にはならなかった。
林汪迦が連れた者達は黒装束の六人だけではなかった。最初は分からなかったが林汪迦がこちらに向かって歩み始めると同時にその後方に居た群衆の中の数人が林汪迦の後に従って進み出てきた。周りの者達と変わらない平服姿の男達で、三人がそれぞれその手に黒い箱を掲げ持っていた。
(おっ、何やおもろなってきたわ)
狗不死は急に姿を現した林汪迦とそれに対する陸皓や来賓達の反応を暢気に眺めながら眼を輝かせている。狗不死と林汪迦は親しいという程ではないが北辰の本拠、方崖で何度も会った事がある。
(いくら何でも喧嘩売りに来た訳や無いな。ほんでもあいつ、ええ度胸しとる。まぁ「行け」言われて来たんやろけど)
「久しぶりに見るが、歳を経て益々腕に磨きがかかっておるな。あの気の充実ぶりは見事だのう」
木傀風が呟くように言ったがすぐ隣に居る狗不死にははっきり聞こえる。
「ええ女やろ?」
「うん、儂等の様な老いぼれが言う言葉ではないが、否定はせんよ」
木傀風は林汪迦から視線をはずし、狗不死を振り返って真顔で言った。




