第十三章 十五
その後も老婆の声はしない。
「今すぐ追い出すのは考え直したんじゃないかな。普段は手を止めないから」
こわ、と言って狗不死が首を縮めて見せた。
傅朱蓮はもう一度表を覗いてから田庭閑に視線を戻す。
「田さん。此処へはどうして来たの? もう何も無い、誰も居ない場所なのは分かってたんでしょう?」
「何処でも良かったけど、思いつく場所といっても大して無かったんだ。でも、咸水の村には一度行っておきたいと考えてたから。君から聞いて記憶に新しかったしね。君の生まれた場所……、大きな事件のあった場所……、殷総監も此処で……」
田庭閑の声は小さく、激しい雨音が響く中でかろうじて傅朱蓮の耳に届いているといった程度であった。
「……私達、殷兄さんを探してるの。鏢局の件も何も解ってないし、あれをきっかけに北辰教と千河幇、それから真武剣派も……何て言えば良いのか分からないけど、動き始めたのよ。少しずつ。変わり始めた、っていうのかしら。何か知ってる?」
「殷総監の事かい? それとも、武林が今どうなっているかを?」
「殷はもう総監ちゃうで」
狗不死がそう口を挟む。だが田庭閑は殷汪の事を他に何と呼べばいいか分からず戸惑った。傅朱蓮は『兄さん』と呼ぶ。歳がどうであろうとそういう存在だと、東淵で聞いた筈だった。その傅朱蓮を前にして『殷汪』と呼び捨てるのも気が引ける。田庭閑は真武剣派に居た人間であり、そもそも殷汪は敵視すべき存在と認識してきた。今でこそそんな見方も薄らぎつつあった田庭閑だが、とにかく傅朱蓮の気分を害する様な事は避けたかった。
「君の……殷兄さんの話は何も聞かなかった。たまに此処に来る連中も、別の人間を探してる。俺は何も知らないよ。武林の事は何も。この村にずっと籠もっているだけだから」
「……そう」
「あの偽総監は、どうなったんだい?」
今度は田庭閑が傅朱蓮に訊いた。田庭閑が東淵を離れるより先に、朱不尽ら緑恒千河幇の鏢局が殷汪の替え玉となっていた夏天佑を連れて緑恒へと帰っていった。その後の事は何も知らない。
「緑恒までの道中で亡くなったそうよ」
「……そうか。やっぱり、殷……殷汪どのの功夫を他人が用いるのは無理があったんだろうな」
「北辰教の劉毅が追ってきて戦ったらしいの。劉毅って人は北辰七星の一人で相当腕が立つ筈だから、あの人もあんな状態ではとても相手にならなかったんじゃないかしら」
田庭閑は頷いたが、劉毅云々の話よりも自分が『殷汪どの』と言った事に対して傅朱蓮が何も変に思わなかったらしい事に安堵していた。
「田さんって、殷兄さんに興味があったのよね?」
傅朱蓮は田庭閑の顔を覗き込む様に見たが、淡い笑顔で、優しかった。田庭閑は思わず俯いて視線を逸らす。
「まぁ、人並みにね。殷汪どのが噂通りの強さを持っているなら、ほんの僅かでも近付きたい……。だから此処で何かの縁が得られないかと――」
そこまで言ったところで田庭閑は何かを閃いたかの様に勢い良く顔を上げた。
「確かに、縁はあったんだよ。あのお婆さんがそうだ。俺、本当に驚いたよ。まさか本当に此処へ来ただけで――」
田庭閑が急に一人興奮し始めたので傅朱蓮は驚いた。
「お婆さんがどうしたの? 殷兄さんと関係があるの?」
「おおありだよ! あの人、一緒に暮らしてたんだ。此処で、殷汪どのと!」
傅朱蓮はすぐさま怪訝な表情を作り、田庭閑を見返した。
「それ、本当なの? 此処での話はお父様にも洪小父様にも何度も訊いたわ。もちろん殷兄さんにも。でもお婆さんと一緒に住んでたなんて話は――」
絶対に聞いた事が無いとは言い切れないが、傅朱蓮はいくら頭を捻ってみても思い出す事が出来ない。
田庭閑が急に笑い出し、
「ハハ! 当時からお婆さんな訳無いじゃないか。今が何歳なのかよく判らないけど二十年以上前なんだから当時はきっと『お婆さん』じゃ無かった筈さ」
傅朱蓮と狗不死はまだ老婆の容姿を見ておらず、二十年程前には『お婆さん』では無かったのかどうか知る由も無い。それ以前に、お婆さんでなかったとしてもそんな存在はやはり聞いた事が無い。
「信じられない。殷兄さんには奥様と子供が居て……でもどちらも殺されてしまったわ」
「堯家村って知ってるかな? 此処からは北に……結構あるけど、わりと大きな街だよ。此処から都へ向かうなら必ず通る事になる」
「行った事は無いけど知ってるわ。それが?」
「殷夫人は、その堯家村の名家のお嬢様だったそうだよ。お婆さんはその家で女中をしていたらしい」
傅朱蓮はその話に大層驚いた。全く他人の田庭閑がそこまで知っていて自分はそれを初めて聞く。そんな事があるだろうかと信じられない。何気なく狗不死の方に顔を向けると、同様の大きく見開いた目が傅朱蓮を見ている。
「女中やて? あの婆さんがか?」
先程まで珍しく話を聞くだけだった狗不死が田庭閑に訊いた。狗不死はあの老婆の用いた功夫から、ただの老婆ではあり得ないと踏んでいたのだ。
「多分、嘘では無いと思います。一度に全部話してくれたわけじゃなくて、ここ半年程で少しずつ聞いたお婆さんの話をまとめるとそうなる、というか……」
田庭閑と老婆は未だ全てが話せるほど打ち解けたわけでは無かった。老婆は田庭閑を下人の様に扱い、口を開けば命令するのが常であり、田庭閑も追い出されまいと大人しく言う事を聞くだけの毎日だった。そんな中で老婆はほんの少しずつだがこの村の昔話を田庭閑に聞かせる事があった。歳をとれば誰でも昔話を人に聞かせたくなるものだ。そして田庭閑はそれに多分な興味を持っている。最初はそれぞれの繋がりが見出せなかった老婆の話も、聞き貯めるにつれて辻褄が合い、理解出来るようになってきたのである。
「ほんなら殷の嫁が此処へ来る時、一緒について来たっちゅう事か」
「殷夫人は本当に裕福な家の出で、殷汪どのと一緒になる時にはかなり揉めたらしいですね。でも結局そうなったんですけど、お婆さんも一緒にこの村に来る事が殷夫人のお父上が出した条件の一つだったようです。お婆さんは武芸が出来たから。大事な娘を辺鄙な処に行かせるなんて相当不安だったというわけですよ」
「普通、やらんやろ。こんなトコに嫁に」
「……そうですよね。それにその当時は殷汪どのはただの無名の農民に過ぎないわけだし」
「娘が殺されてからその夫が英雄やったとか言われてもなぁ」
「そもそも殺されたから殷汪どのがその名を上げたわけだし……」
狗不死と田庭閑の遣り取りを聞いていた傅朱蓮が、拳を硬く握り締める。
「……何よ。殷兄さんが、悪いの?」
「え、いや」
田庭閑は傅朱蓮のただならぬ様子に驚き、視線を彷徨わせた。
「名家のお嬢様を奥様に迎えて、それが殺されたら英雄と呼ばれるようになって……殷兄さんが良い思いをしたとでも?」
傅朱蓮の声は震えている。田庭閑は俯き、少しの間を置いてから傅朱蓮が膝の上に置いている手の甲をじっと見つめ、低く、穏やかな声で言う。
「違うよ。そんな事、言ってないだろ? お婆さんは、昔起こった悲しい話を……一部だけ聞かせてくれたんだよ。でもそれだけで何が解る? 何があって、人の気持ちがどうなったとか……少し聞いただけの俺達に解る筈も無いさ」
傅朱蓮は何も言わず項垂れるだけだった。田庭閑は続けて、
「君から聞けば、余所者の俺より色んな事を聞かせて貰えると思う。君の親父さんの事を色々聞かれたけど、ほら、俺は鏢局にくっついて行ってそんなに長く東淵に居た訳じゃないから。お婆さんもきっと君と話したいと思ってるんじゃないかな」
「お婆さん……家に戻ったかしら?」
傅朱蓮は独り言の様にそう言ってゆっくりと腰を浮かせ、雨の飛沫が激しく舞って視界の悪くなった外の様子を窺った。