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流浪一天  作者: Lotus
第十三章
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第十三章 十四

 田庭閑は猪の足を両手で掴んで体重をかけながら引き摺っていこうとするが、あまりの大きさに遅々として進まない。滅多にお目にかかる事はない大物に違いないが、既に異臭を放っており血みどろのその姿は傅朱蓮の目を背けさせるのに充分だった。

「急がないと。狗さん、手伝ってあげてよ」

「儂かいな! 老人に何さすねん」

「私なの? 私がこれを引っ張るの? この格好の私が?」

 傅朱蓮は旅装束とはいえ薄緑の上等な衫を纏っている。狗不死はといえば常に同じ、古い襤褸の野良着だ。どちらがこんな作業に向いているかは比ぶべくもない。

「……この肉食わせてくれるんやったらまぁ手伝わん事もないけど?」

 狗不死がちらと田庭閑を見るが、

「これはあのお婆さんの獲物だから……何とも」

「婆さんの獲物て、これ食うんやろ? あんたも食えるんちゃうんか?」

「さぁ? 俺は何もしてないから。罠を仕掛けたのは俺だけどお婆さんの指示というか命令で……、罠そのものもお婆さんが作った物だし」

「どんな罠やねん。朱蓮、見てみいな。腹のど真ん中にでっかい穴空いてんで」

 狗不死の言うとおり猪の腹は無残に破れ、飛び出した臓物を引き摺っている。よく見れば前足が一本、今にも千切れそうな程その付け根が大きく裂けていた。狗不死が指差すが傅朱蓮は一層顰めた顔を背けた。

「狗さん! もう雨が来るわ。早く家に入りたいんでしょ?」

「雨に濡れる方がよっぽどましや! なぁ、これ置いていったらあかんのか? 何にもかかってませんでした言うたらええがな」

 田庭閑は力なく頭を振る。

「今までかからなかった事は無いんですよ。一度も」

「それがどないしてん? 『おかしいなぁ』とかなんとか言うて首捻ってたらええやないか」

「今晩は良くても明日、殺されます。俺が」

 そう言う田庭閑の表情からして冗談では無いらしい。そしてまた少しずつ、一人で引き摺りながら進んでいく。

「お婆さん、村を毎日見廻るから。それも一度だけじゃない」

「そらご苦労なこっちゃ。儂の村に変なんが入ってへんかいうて見てんのかいな」

「まぁ、そんな感じかな」

 

『お前も一緒に出て行くが良い。明日、死なずに済む』

 

「……なんや?」

「聞こえてない訳が無いか……」

 田庭閑はそう呟くと、掴んでいた猪の足を放り出した。

「聞いてくれ! この人たちは、この、お嬢さんはこの村の生まれなんだよ! 俺が言っただろう? 東淵の、傅さんの娘なんだ!」

 急に叫びだした田庭閑を、傅朱蓮と狗不死は呆気に取られて見つめていた。だがすぐさま辺りに視線を配りながら気配を探る。不意に聞こえた自分達とは別の声を、聞き逃してはいなかったからである。田庭閑も声の主が何処に居るのか判っていないようで、首を盛んに回していた。

 田庭閑はすでに東淵の傅家の話を老婆に聞かせていた。そうでなければこの村に居付く事は叶わなかったのだ。この村の出である傅千尽に世話になった事、同じく洪破天の事も知っているという部分を強調して老婆に嘆願したのである。行き場の無い自分をどうか此処に置いて欲しいと。

 傅朱蓮が声を上げる。

「父はこの咸水で薬の商いをしていました! 傅千尽を覚えておられますか? 私は娘の傅朱蓮と申します! 姿をお見せ下さいませんか! どうかお話を!」

 

『あと一人の名も、聞いておこうか』

 

 少しの間はあったものの、返って来たのは感情が読み取れない低く抑えられたしわがれた声。どこに居るか判らないというのに耳元で発せられているかの如く明瞭な声は、益々こちらの不安を煽ってくる。

「儂か? 儂の事やな? 儂はこの傅朱蓮の連れや。丐幇……いうても知らんか――」

 狗不死はというと、特別警戒している様子も見られない。普段通りである。

 

『丐幇の……狗幇主』

 

「知っとるんかい! 『前』幇主やけどな。あんた、武林のお人やな? こっちも分かってんで? あんたとよう似た事しよる奴、知ってるしな」

 狗不死も声を張るが、相手が何処なのか分からずに会話するというのは非常にやり辛い。

(これで真後ろから出てこられたらめっちゃ格好悪いなぁ……)

 そこへ傅朱蓮が近付いてきて顔を寄せた。

「ねぇ、狗さん本当に分かるの? お婆さんが誰なのか?」

「そんなん知るかいな。でもこの息針(そくしん)の功夫は珍しいで。使うもんは限られるわな」

「……北辰の林玉賦(りんぎょくふ)?」

「当りや」

「まさか。こんな処に――」

「いや、ちゃうがな。林がおる訳無いやろ。ほんでも、無関係とは思えへん。そんだけ貴重なんや、この技はな」

 田庭閑が驚きの表情で二人の会話に聞き入っていた。

「お婆さんが北辰七星の縁者? そんな、馬鹿な……」

 

『もしそうだったらどうするね? お前を傷付けた北辰教の仲間だ。復讐に挑んでみるか――』

 

「まだ北辰かどうかは判って無い! ……だろ?」

 田庭閑が言葉の最後に傅朱蓮に同意を求める。傅朱蓮はそれに頷いて答えた。鏢局を襲った下手人は未だ不明のままである。

 その時、ついに空から雨粒が落ち始めた。

「あー! もうあかん! 一先ず逃げや、逃げ」

 狗不死が急に走り出した。といっても向かったのはすぐ傍の崩れた民家の軒先、かつては屋根の一部であったであろう部分のその下へと身を屈めて入って行ってしまった。

 傅朱蓮と田庭閑は戸惑って顔を見合わせる。今話している老婆を無視して移動して良いものか? しかし何処にいるのかも判っていない。老婆は雨に濡れない場所に居るだろうか?

「二人とも早う! そいつはそこに置いといたら雨が綺麗に洗ってくれるて」

 狗不死が指差すのは寝そべった大猪。確かにいつ止むか知れないこの雨に打たれれば全身の血は洗い流されるだろう。その雨は急激に激しさを増していく。傅朱蓮と田庭閑は仕方なく狗不死のいる民家へと揃って駆け出した。

 

「これ、数日止めへんかも知れんで? どないすんねん。朱蓮、あの婆さんと仲直りせえ」

「喧嘩とかしてませんから」

「いや、あんたが来た事でこの村の主の座が危うい事になってもうてるんや。そらぁ婆さんにしてみたら生きるか死ぬかやで。まさか村の生き残りが他に現れるなんてなぁ。これから何処で生きてけばええんや?」

「私は村の主になんかならないし、仮に住んだとしても追い出す必要なんて無いでしょう? そんな事より、お婆さんどうしたかしら?」

 老婆の声は聞こえて来ず、辺りは激しい雨音が響くだけだった。

「どうかな。君が傅朱蓮だっていうのが少なからず効いたとは思うけど……」

 田庭閑はそう言って外を覗く。

「そんならもっと懐かしがってもええやないか。何であんな険のある物言いなんや?」

「何十年も経てば、誰だって……戸惑うわ」

 傅朱蓮がそう呟いた後も、やはり雨音以外何も聞こえなかった。

 


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