第十三章 十三
「そう! そうよ! 田さんどうして此処に?」
傅朱蓮が一層力を込めて男の肩を揺さぶった。男は一年前、朱不尽の鏢局と共に武慶からやって来た真武剣派の門弟、田庭閑だったのである。当時は真武剣派の門弟らしくそれなりの身形をしていたが、今は殆ど浮浪者と言って良い。衣服に見覚えがある。この一年の間に襤褸布へと変化してしまう程、酷い生活を続けてきたに違いない。
「……どうしてかな」
田庭閑はそう言って首を捻った。
「こんな処に居て、大丈夫なの? 真武剣派は今、方々をうろついているのよ? 知らないの?」
「知ってる。何度か来てるしな。此処にも」
「じゃあどうして? 都だって近くはないけど、此処では……」
「見つからないよ。心配ないさ」
「私達には見つかってるじゃないの」
「ついさっき変なのが来たんだ。そいつらがもう行ったから油断したのさ。こんな入れ替わりで更に人が来るなんて今まで無かったんだ。でももうしない。今、学んだから」
田庭閑は言いながら若干ふらつきつつ立ち上がった。
朱不尽の鏢局が得体の知れない賊の襲撃を受けた時この田庭閑も同行していたが、多くの者が殺され田庭閑も自らの真武剣でもって抵抗したが賊の数とその力の前になす術が無く己の無力さを痛感した。鏢局は仕事を断念して引き返す事にしたが、田庭閑は再び武慶に戻る気にはなれなかった。自分は通常の弟子ではなく思う様に修行も出来ない。それまではそんな境遇に甘んじて遊んでばかりだったが、鏢局の事件でこれでは駄目だという事をまさにその命に力ずくで刻み込まれてしまっていた。そしてそのまま鏢局と東淵で別れ、一人、江湖を彷徨い始めたのだった。気ままで甘い人生に浸かってきた田庭閑は、いきなり過酷な世界に飛び込んだのである。一日を無事生きる事さえ容易くは無かった。それが今、一年の時を経て傅朱蓮と再会出来たのは運が良かったと言えるだろう。だがまだ終わりではない。この廃墟である咸水は人が生活するのに適した場所などでは到底無いのだ。
「来る時、すれ違った人たちが居たわ。何者だったの?」
「さぁ、真武剣派じゃない。知らない奴らだったよ」
「何をしていたの?」
「特に何もしないで帰って行ったよ。ちょっと見に来ただけだった」
「でも……その度にこうやって隠れるの? やっぱり此処は……」
「此処に居るのは、……俺だけじゃないんだ」
「あっ! そう、お婆さんが居るって聞いたわ。今、何処に?」
傅朱蓮は興奮気味で再び田庭閑の肩に掴みかかろうとする。田庭閑は身体を退いてそれを避けた。
「あ、ごめんなさい」
「いや……」
互いに沈黙して見合っていた。
「その……、元気……だよな。そんな、感じだし」
「ええ。あなたも一応、元気そうね。随分汚れてるけど」
そんな会話の後、互いににやりと笑い合う。それを狗不死が横から覗き込んだ。
「なぁ、住める家がどっかあるんやろ? とりあえずそこ行ってから話したらどないや? 雨、もう降ってきよるで」
見上げれば木々の隙間に見える空は煤の様な黒さだった。田庭閑が言う。
「とりあえずうちに……うちって言っても家の様には見えないだろうけど。あ、でも……」
田庭閑は何かを思い出して顔を顰めている。
「その、お婆さんってのがちょっと普通じゃなくて、追い返そうとするかも知れない。いや、多分する」
「私達は別に何もしやしないわ。ただ立ち寄っただけで――」
「いや、あの人はとにかく誰でもすぐに出て行かせようとするんだ。此処に入って来た者には」
「なんでや。この村はその婆さんのモンなんか? んなあほな」
「一応、昔、この村の住人だったらしくて。俺には本当かどうか確かめようが無いけど」
「そんなんこの朱蓮かておんなじや。れっきとした元住人やがな。此処に住み着いたって文句言われる道理が無いで」
「まぁ、それを話せば、なんとかなる……かも知れない」
「相手が真武剣でも?」
傅朱蓮がそう訊ねると田庭閑は改めて二人に向き直り真剣な眼差しで、
「本当に普通じゃないよ。充分に警戒した方が良い。此処から先は。今だって……何処かで見てるかも知れない」
「えっ」
思わず傅朱蓮と狗不死は辺りを見回す。
「そんな危険なんか?」
「いきなり襲ったりはしないけど、その気になれば出来ると思う。恐らく」
「つまり、そのお婆さんは武芸が出来る……って事?」
田庭閑は傅朱蓮に頷いて答えた。
「ま、とにかく行ってみよか。会ってみんと何もわからへん」
「そうね。最初に話が出来るなら何とかなるでしょう」
それから三人は田庭閑を先頭に山を下り始めた。登ってきた時には何とも思わなかったが、意外にも随分と高い処まで登っていた事に、傅朱蓮は今になって気付く。それほど田庭閑を追うのに夢中だったのだろう。その間、周りが一切見えていないのだ。
(これでは、駄目ね……)
山を下りながら傅朱蓮は一人反省していた。
「あー、ちょっと待って。これを……」
山を降りて民家の傍までやって来た時、田庭閑がそう言って草むらに向かう。その先には黒々とした塊が草に埋まるようにして在る。田庭閑が引き摺っていた物だった。傅朱蓮が近寄って見てみると、それはかなり大きな猪で全身が血で黒く染まっていた。
「これ、田さんが捕まえたの?」
「いや、罠だよ。俺にはまだそんな芸当は……。き、君ならその背中の矢で容易く捕まえられるんだろうけど」
田庭閑が言うと、傅朱蓮は急に笑い出した。
「田さん、変。変よ」
田庭閑は怪訝に思い、傅朱蓮を見つめる。
「……何が?」
「だって、私の事、『君』とか。あー可笑しい」
「そっ、それは、いや前もそう言ってた筈だ! 他に、何て呼ぶんだよ! 前から、『君』だったろ!」
「嘘。ちゃんと名を呼んでたわ。『朱蓮』ってね」
「……それは、あの范だろ」
「え? ……そうだったかしら?」
「そうだよ。俺の名前も忘れてんのに、そんな事まで覚えてる筈がないさ」
「そう、だったかなぁ」
「范はいつも君を『朱蓮』て呼んでた。ちょっと馴れ馴れしい感じでさ。楊は『朱蓮さん』。真面目だしな。俺は……、『君』……」
「良く……覚えてるのね」
「たかだか一年前じゃないか。……あいつらの事は、忘れないさ。きっと、……一生」