第十三章 十二
大手を振って先を進む狗不死だったが、暫く行くと不意に足を止め、傅朱蓮を振り返った。
「どっち向いてもおんなじやないか。何処に向かったらええんや?」
村の痕跡である朽ちた民家はどれも同じに見え、まるで侵入者が方角を見失うのを狙って配置されたかの様に思えてしまう。まだ人が住んでいた、傅朱蓮が生まれる以前ならばそれらはきっとそれぞれ違う形をし、違う色であったろうし、商いをしていた処ならば客を呼び込む旗指物くらいはあったに違いない。傅朱蓮の生家であればきっと商材である薬の文字を掲げていた事だろう。傅朱蓮はその生家がどれなのかも知らなかった。それを知るには傅千尽か洪破天を此処へ連れて来て教えて貰うしかないが、二人ともこの村を離れて以降一度も、此処へ戻った事があるとは聞いていない。
「とりあえず一回りしましょう。誰か居るならすぐ気付く筈よ」
傅朱蓮はそう言って自ら先に立ち、進み始めた。
全てが同じに見えようとも、往年の姿を一切記憶していなくとも、この村は特別な場所である。懐かしいというのではない。村を奪われ悲しいわけでもなく村の息の根を止めた邪悪な者達への怒りでもない、しかし確かにある、他の場所では生じなかった湧き出でる感情。それが何なのか傅朱蓮には良く解らなかったが、崩れた廃墟に送る眼差しにはその何かが多分に表れていた。
だがその視線はすぐに変な違和感へと引き付けられる事になる。視界の端に、動きを捉えたのだ。すぐさま狗不死が低く抑えた声で傅朱蓮の名を呼んだ。
「誰か居る」
傅朱蓮も声を落として言ったが、二人とも身を隠そうとはしない。隠れる必要が無い。それに、当の『誰か』はこちらに気付いておらず、二人の向かっている先で何やら作業をしている様だ。草むらの中なので何をしているのかはっきりとは見えないが、その姿から危険な気配は感じ取れない。この村の民――この村が生きていた二十年以上前ならば当然そう思ったろう。
暫く様子を窺う傅朱蓮と狗不死であったがその者は一向にこちらに気付かないままで、どうやら何かを引き摺ってこちらへ来ようとしているらしいのだが思う様に動かせずいらついている、そんな挙動を見せていた。黒い服を身に付けた男で、伸び放題の髪を振り乱し、引き摺っているその何かに向かって時折悪態をついている。声は聞こえないが遠目に見てもその様子が良く分かる。
「此処のモンなんやろなぁ」
どう考えても傅朱蓮たちの様に村に立ち寄った旅人ではない。やはり暮らしているのだろうか。この咸水の村で――。
「話を聞いて見ましょう」
そう言って傅朱蓮が馬の腹に足を当てたその時だった。先の男が飛び上がるように体を仰け反らせ、こちらに顔を向けた。余程驚いたのだろう、急に走り出したその男は体勢を崩して地面に転げそうになるのをかろうじて堪えながら、朽ちた民家の陰へと飛び込んで姿を消した。
「あっ、待って!」
「逃がさへんで」
二人は同時に馬を駆って後を追い始める。
(聞こえてたら益々必死に逃げるじゃないの!)
傅朱蓮は狗不死を横目に見ながら文句を呟いたが、狗不死の方は眼を輝かせながら一目散に駆けていく。
男が逃げていった先には村を囲む山の斜面が近くまで迫っており、そのまま山の中へと逃げ込んでしまうかも知れない。男が身を隠した民家まではすぐに来れたがその陰を覗くとやはり男は更に逃げた様でその姿は無かった。
「いくで」
狗不死は馬を降りると地面に足を付けた次の瞬間、身を躍らせて民家の屋根へと飛び上がる。
「崩れるかも知れないわ! 気を付けて!」
「あ、そや」
狗不死は飛び上がってしまった後で傅朱蓮に言われて気が付いたらしかったが、好運にも屋根は狗不死の小柄な身体を受け止めるくらいは頑丈さを保っていた様だ。狗不死が屋根に着地した時、音は全く無かった。
(そういえば、狗さんの軽功、初めて見たわ……)
民家の屋根に飛び上がるというのは軽功と呼ばれる武功に属するものだが、武林で功夫を学ぶ者にはまず必須の技と言って良いだろう。何も屋根に上がる為に学ぶわけではないが、そのくらいの身体能力を身に付けなければ武林に数多ある武術を有効に用いる事は難しい。当然、武林の重鎮の一人である狗不死にその程度の事が出来ぬ筈は無く、まさに字の如く児戯に等しいわけだが、何故か傅朱蓮がそれを目にする事は今まで叶わなかった。狗不死が武功を披露する場面に出くわす事が皆無だったのである。着地に全く気配を感じなかった傅朱蓮は感心しきりであったが、それを口に出せばかえって武林の大先輩に対して失礼にあたると思い、口を噤んだ。
「あっ! 登っていきよるで」
狗不死は屋根の上で山を指差している。傅朱蓮はそれを見て再び駆け出した。
斜面を駆け上がっていく男の姿がはっきりと見て取れる。傅朱蓮はその動きに注目した。男は意外にも機敏に木々の合間を縫って駆け上がっていく。
(あの人……心得があるのね)
逃げて行く男は間違いなく軽功を用いている――そう思った途端、傅朱蓮は無意識の内に自らの体内の気に意識を集中させた。無理に追う必要など何処にも無い。しかし傅朱蓮は追わずにはいられなくなってしまったのである。そして気合一閃、衣服の裾が風を切る音と共に山の斜面に飛びつかんとばかりに跳躍した。
(追いつける)
すぐに傅朱蓮は確信する。男の軽功は自分のそれほどではない。それに男は早くも息が乱れているらしく時折体勢が不安定になっている。先程まで何やら重い物を引き摺っていたのだから当然だろう。傅朱蓮が男のすぐ背後に迫るまで、時はそれほど必要ではなかった。再び傅朱蓮は短く鋭い気合を発して跳躍し、軽々と男の頭上を飛び越えてそのまま男の前に舞い降りた。
男は驚いて地面に崩れるようにして止まったが、声は出さなかった。傅朱蓮はその様子を見てついニヤリと不敵な笑みを男に向けてしまう。何も勝負をしていたわけでは無かった筈だが相手に心得があると思っただけで妙な闘争心に駆られてしまったのである。
傅朱蓮の脳裏には、前に見た夢の場面が蘇っていた。山の斜面を飛ぶ様に駆け上がるあの爽快感。男が自分より僅かに劣っていた事でより強く自分の技に酔う事が出来たのかも知れない。地面に這いつくばる男を見下ろす。
「あっ!」
男の第一声は心底驚いているといった感じのうわずった叫び声だった。男の目は真っ直ぐ傅朱蓮の顔へと向いている。その声で傅朱蓮は我に返った。
「ごめんなさい。驚かすつもりは無くて――」
初めて男の顔を近くで見た傅朱蓮は、目を丸めて、あっ、と小さく驚きの声を返す。
「あ……あ……、ほら……あの……、ほら」
傅朱蓮は男の顔を指差しながらしきりに口を動かすが言葉が続かない。
「会って早々、ほらって何だよ……」
男がそう言ってがっくりと項垂れた。とりあえず驚きは収まったらしくそんな事を言う。傅朱蓮は慌てたように男に駆け寄った。傅朱蓮は男に見覚えがあったのだ。
「だっ……て、ほら、私、知ってるでしょ! ほら! あなたは……」
「つまり……名は忘れたわけだ。そうだよな。忘れられる為にこんな処に居るんだから」
そこへ狗不死も追いついて来た。笑みを浮かべながら、
「速いなぁ、二人とも」
「狗さん! ほら! この人……」
傅朱蓮は狗不死に向かって言いながら、男の肩を掴んで揺すっている。男の方は揺さぶられながらも後ろの狗不死を振り返って、また驚きの表情を固めていた。狗不死も身を屈めてまじまじと男の顔に見入る。
「おお! 真武剣の。あんた、田いうたか? こんなとこで何しとん? 逃げたんちゃうんかいな」
狗不死の方が若い傅朱蓮よりも覚えが良かった様である。