第十三章 十一
咸水はもう目前だが、追ってくる黒雲もいつ激しい雨を落とし始めてもおかしくないところまできている。茶店を出た二人は少し進むと街道を逸れ、人の気配の全く無い細道へと入っていった。
川があり、その上流へと向かえばその先は咸水の村しか無く迷う事は無い。本当に他には何も無いのだ。そして少し進んだだけでもう道と呼べるような場所も消える。傅朱蓮の記憶にある道は背の高い草で覆われ、そこからは想像で進むしかなかった。ただ右手に流れる川だけは昔と変わらないままなので、それが唯一の案内となる。
馬が踏み分ける草の音を暫く黙って聞き続けていたが、不意に狗不死が声を出した。
「なんや、人おるがな」
傅朱蓮は視線を上げ先を窺うと、自分達と同様、馬でこちらに向かって来る数人の姿を認めた。こちらに来るという事はまず間違いなく咸水の村へ行ったに違いない。馬に乗って行動しているという事はこの付近の住人ではないだろう。咸水の名は有名である。通り掛かった旅人がちょっとした興味で立ち寄ってみたといったところだろうと傅朱蓮は思った。
向こうがほんの一瞬、進む速度を緩めたのを傅朱蓮たちは見逃さなかった。こちらを窺いつつ言葉を交わしたようにも見えた。
「なんや、警戒してんなぁ。こっちのほうが怖いっちゅうねん。なんかでっかいのおるで」
「『あの咸水』から出てくる者と向かう者、怪しさはお互い様よ」
傅朱蓮がそう言って気にも留めない様子で馬を進めていくのを狗不死は眺めながら笑みを浮かべた。
「失礼致します――」
意外にも傅朱蓮からその集団――といっても旅人風の男四人だけであったが――に声を掛けた。男達は注意深く傅朱蓮を観察するように視線を送って来たが、特に不審な挙動を見せるでもなく落ち着いて堂々としていた。聞けば咸水の村へ行った帰りだという。当然だ。この道で出会うという事はそれしか考えられないのだ。
誰かを探しているのか、と先頭に居た一人が訊いてきた。傅朱蓮は何故いきなりそんな事を訊くのだろうと疑問に思う。ただ意味も無く咸水の村に向かう事は有り得ないとでも思っているのだろうか。ではそっちは何の用があったというのか?
傅朱蓮は何かを訊きたかった訳では無く、ただ言葉を交わして何ら敵意など持ち合わせていない事を示し、何事も無くすれ違う事が出来ればそれで良かった。何か特殊な用事があったとしても、彼らに教える必要などない。
狗不死はというと、にこやかに笑いながら男達と言葉を交わしている。その姿を見ながら、こんな些細な事で余計ないざこざを招くような事があってはならないと思い直した傅朱蓮はとりあえず丁寧な言葉を返しておき、一人早々とこの場を離れようとした。
その時である。四人の内の一人が意外な事を口にした。『老婦人と若者を見た』というのだ。男は続けて訊いてくる。
「あなた方も真武剣派の?」
この男はまず最初に『誰かを探しているのか?』と訊いてきた。初めから傅朱蓮たちを真武剣派の者で武慶の殺人犯――真武剣派にとっては秘伝書の強奪者か――を追っていると踏んだのだろうか。真武剣派の話は知れ渡っている。男達がどこか遠い場所から旅して来た者達であったとしても、知っていてもおかしくは無い。ただ、傅朱蓮がその男の口調から想像するに、武林と全く無縁の者ではない様な気がした。
狗不死がその男の問いを否定すると男の方もそれ以上言う事は無いらしく話は終わり、そのまま何事も無く男達と離れた。男達は傅朱蓮と狗不死の後姿を暫く見送ってから去って行った。
傅朱蓮の頭の中はその老婦人と若者とやらで一杯になっている。最近住み着いたのだろうか? しかしあんな場所でどう生活するというのだろう? 何より、昔の事とはいえ、多くの人間が惨殺されたあの村に居るという事に抵抗は無いのだろうか?
とにかく行けば解る筈である。傅朱蓮は先に見える咸水の入り口となっている谷間をじっと見つめた。
「あいつら絶対この辺のモンやないなぁ」
狗不死の言う通り、確かに先程の男達は少し人目を引く風貌をしていた。先頭に居た男は肌が白く良い身形をした壮年であったが、あとの三人は中原ではあまり見かけないほど肌が焼けており南方から来ている事は明らかだった。その内の一人は体格が一回り大きく、傍に居るだけで息苦しさを覚えそうな迫力を持っていた。
「どこかしら?」
「言葉は普通やったし、こっから真南に行ったら城南あるけど、あの辺やったらあんなんなるかもな」
「城南? 相当、遠いんでしょ?」
「東淵から此処まで来るんとあんまり変わらへんのとちゃうか? どっちも遠いがな」
「城南か……」
「行かへんで」
「まだ何も言ってないけど」
「北国育ちがあんなとこ行ったらな、一日もたへんで。血ぃ沸いて死んでまうわ」
傅朱蓮は狗不死の軽口を適当に聞き流しながら、あまりにも広いこの江湖に思いを馳せる。父、傅千尽と、洪破天、殷汪の三人が赤子の自分を連れて江湖を渡り歩いた話は何度も聞いているが、咸水から流浪の旅に出て東淵に辿り着くまで、十年彷徨ったという。自分にも記憶に残っている出来事は幾つかあったが、その土地が何処でどのような処であったかまでは覚えていない。それに殆どが旅の後半である。傍にはいつも姉、紅葵の姿があった。彼女はもっと覚えているだろうか。
(こんなに広いのに、簡単に見つかる筈がないわよね……。ましてや人なんて……)
「朱蓮!」
不意に狗不死が語気を強めて名を呼んだ。
「えっ?」
「行かへんで!」
咸水の入り口、天然の門の様な谷に分け入ると、天候が崩れてきているのもあって辺りは更に薄暗かった。川のせせらぎや鳥のさえずりもどこか寂しげに聞こえてくる。
「なぁ、村で野宿とかなっても……出来るんか? せめて屋根無いと嫌やで」
「贅沢な丐幇幇主様ね」
「そら、『幇主様』やし。前のやけど」
「大丈夫よ。それに……人も居るそうじゃない」
「ほんまに人やったらええけどな。ちゃうもんやったらえらいこっちゃ」
「……今は人じゃなかったとしても、私と同郷なら仲良くなれたりして」
「頼むで。ちゃんと話つけてや」
二人が話している間に谷は徐々に開けていき、村は姿を現し始める。広く江湖に知れ渡った廃墟、咸水は勿体ぶる様子もなくその無残な姿をあっけなく二人の前に晒した。
「ここが……咸水の村」
呟くように言った傅朱蓮の隣で、狗不死は呆然と辺りを見回していた。
「なんや……古いんか新しいんか、ようわからんなぁ」
朽ちた家々の隙間を覆い尽くす新緑。確かにとうに枯れ果てた廃墟ではあるのだが、すぐ脇の若葉に目を遣ればその艶やかさが際立っている。その組み合わせが時の流れというものを強烈に感じさせた。
「やっぱり、何も変わってないわ。此処はもう変わりようが無い……、変わる必要もないのかもね」
「どんなもんでも人が変えるもんや。待っとってもしゃあない」
そう言って先を行き始めた狗不死の後に続いて、傅朱蓮も村へと入っていく。