第十三章 十
「その歌――物語は全て、その白蛇が心情を吐露するその言葉なの」
狗不死はじっと考え込むように黙り、暫くしてから口を開いた。
「作者は洪淑華本人っちゅう訳か」
「必ずしもそうとは言えないとは思うけど。でも、そうね。人に自ら聞かせたとは思えないような、そんな箇所もあるから」
「ほんでも残ってるっちゅう事は書いて遺した部分があるとか、そういう事やろなぁ。で? 天棲蛇剣て何や?」
「解らないわよそんな事。ただ、関係ありそうだって思っただけよ。いえ、絶対にあるわ」
傅朱蓮はそう言ってから茶の入った器を手にとって、香りを確かめてから少し口に含んだ。
狗不死は禿げ上がった額を撫でつつ目を細め、宙を眺めている。
「黄龍門なぁ……。安県の方はまだかろうじて弟子が残ってるし失われてへん。全部はな。言うてもその弟子も皆方々に散ってしもてるけど。東涼の方は……あかん。何も無い筈や。せやから陸も躍起になっとんや」
「ねぇ、狗さん。狗さんは本当に歌の事、知らなかったのよね?」
「そうや。初めてやそんなん聞いたんは」
「じゃあまだ他に東涼黄龍門に関わる何かが何処かにひっそりと残ってる事も有り得るんじゃない? 武林の誰もが気付いてない、何かが」
「……まぁ、そらぁ無いとも言えへんなぁ。ほんでもな、そんなんがあったとしても、多分真っ先に見つけるのはあの陸やで。あれはちょっと変わっとんねん。自分の編み出した真武剣を仰山人集めて教えとる。もう、あー、四十年か? せやのに、まだ納得してへんねん。あの総帥様は。もっとすごいモンがあるんとちゃうか? どこぞに落ちてたりせえへんかなぁ? ってなぁ」
狗不死が顎を突き出して辺りを見回す仕草を見せるが、もしあの白千雲がまだ居たなら流石にこれには腹を立てるのではないかと思えるほど滑稽な動きだった。
「せやから秘伝書や。そんなんあるなんて聞いたらもう、我慢でけへん。で、ちょっと借りたらあんな事になってしもた。いや、陸は殺されたあの何とかちゅう爺さんなんかどうでもええ、とにかく秘伝書、何が何でも秘伝書――とか考えてんのんとちゃうか。うん。多分そうやで」
狗不死の言う陸皓という人物は随分と節操が無い様に聞こえる。しかもそれを隠す事無く貪欲に求めているという。武林に生きる一人の武芸者としてみるならば何もおかしな事では無いが、彼の場合、既に特別な場所に居るのである。人を集め、自らの持つ最高を伝授してきた筈であった。本心がいかようであろうとも、そんな胸の内は秘しておくべきであろう。
尤も、白千雲の言葉から想像するとあからさまに他所の武芸を漁る姿を見せている訳ではなく、ただ、真武剣派総帥という姿以外にも長年、武学の泰斗と呼ばれた探求者の一面があり、本人は双方を区別しているという事のようだ。それを教え伝えるべき人間は、何も真武剣派の弟子とは限らない。何もおかしくは無い。それが『真武剣』とは違うのならば――。
「でも、意外だわ」
「ん? 何がや」
「あの陸総帥が東涼黄龍門の事を認めていたなんて。有名だけど……、創始者は女性だし」
「んん? あれは少なくとも男や女やいうて分けて考えたりはせえへんで。そやなぁ、陸は黄龍門っちゅうより洪淑華個人を評価しとんやろな。その後にはなぁんも残らへんかった。指導者としては評判はあんまりようないけどな」
「どうやって当時の事を知るの? その剣術がどんなだったか、陸総帥はどうやって調べてるのかしら?」
「さあ、東涼で昔話が無いか訊きまくる、とかか? ……それはそうと白の話、なんかおもろい事言うてたな」
「え?」
「白千雲が言うてた、殷の剣はその洪淑華のなんたらいうのんに影響受けとってどうたらこうたらいうやつや」
「本当かどうかは怪しいわ」
「変やなぁ」
そう言って天井を見上げた狗不死は、何か面白い想像でもしているらしく口許が笑っている。
「陸の奴、いつ、それ考えたんやろ?」
「え? 考えた?」
「儂らにとってはな、洪淑華に関係のあるらしい書なんちゅうのは、それこそ初めて聞く話なんや。この武林の人間、殆どがそうや思うで」
狗不死は大きく両の腕を広げ、宙に円を描くようにしながら、武林の、とその大きさを強調した。
「陸だけはどうなんか解らへん。初めてやないかも知れん。この間出てきた秘伝書見て、『あ、これ殷のやつや! あいつのんは洪淑華の武芸やったんか!』とか思ったとでも言うんかいな? そんな、うまい具合に秘伝書の中身と殷の剣術がぴったり合うもんやろか? 陸の利口な頭にだけ、そんな短い間にそれが解るんか? 多分、陸は秘伝書がどうのいう前から洪淑華の剣がどういうもんか知っとったんや。『優れた人物の一人』いうて常々口にするいう常々っちゅうのは、秘伝書が出てきたついこの間からこっちだけの話か? んな訳ないやろ? そうすると、何も陸は洪淑華の武芸について、今回初めて知った訳や無い。他にも何か、陸にまで伝わるに足る状態の何かがあんねやで」
「陸総帥と――」
じっと聞いていた傅朱蓮は真剣な眼差しで狗不死を見返している。
「殷兄さんは、直接剣を交えた事があるの?」
「んー、いや」
狗不死は一度首を捻ってからそう答えた。
「少なくとも一、二回――北辰と真武剣が本気で喧嘩しとった時に会うてる筈やけど、互いに剣を向け合う場面があったとは聞いてへんな。せやから、無い」
あれば武林はその話題で騒然となった筈だ。その頃既に洪破天に剣を教わっていた傅朱蓮の耳にも当然入る筈であり、傅朱蓮はそれもそうだと狗不死の断言するその答えに納得した。
話は尽きない。傅朱蓮が興味を持つ事柄は皆、良く解らない、謎である、そんなものばかりだった。だがとりあえず今は時に限りがあるのでいつまでも話し込んでは居られない。
「そない急がんでも」
「狗さん。この店で寝るなんて選択肢は今のところ無いのよ?。そしてほら、あの雲、絶対にあたし達を困らせるつもりでいる。ようやく辿り着いた此処は咸水と目と鼻の先。私達が村に着くのが先か、あの黒雲があたし達に襲い掛かるのが先か、どちらが勝つか今が勝負どころよ」
「勝負て……朱蓮、あんたはやっぱりまだ子供やな」
そう言って笑った狗不死だったが、傅朱蓮はそれに構うことなく続ける。
「どうかしらねぇ。私達が負けたらどうなるかしら? 見てよあの黒さ。相当一気に降らすわよ? ちょっと濡れていくってだけじゃ済まない。随分とみっともない負けになるわ」
「雨に濡れるんがそんなみっともないんか? 儂なんか全然平気や。狗で乞食で――」
「ハァ……狗さん。子供みたいな『若い娘』の私にも、もうちょっと気を使って頂戴」
傅朱蓮が背を向けている窓からは確かに厚い黒雲が東の空から押し寄せてくる光景がはっきりと見えていた。