第十三章 八
「はよう帰って確認した方がええな。弟子が無事かどうか。ほんま、難儀なこっちゃなぁ」
「しかし……」
白千雲は呟く。
「一年前という事ですが、あの洪破天どのがすぐに事を起こさなかったのは何故でしょう? 私の記憶にある洪破天どのならば即座に我らのもとまで来られた筈。それを一年も?」
「そやなぁ。すぐ暴れだしとるわなぁ。それをせんかったんは、殷が止めたからや。あの洪がそう言うんやからまぁそうなんやろ。……一体何言うたらあの洪を止められるんか知らんけど」
狗不死はしきりに頭を捻っている。洪破天が怒りを爆発させれば誰にも手が付けられないという事は彼を知る者なら誰もが知っていた。
(しかも幼子を奪われたいうやないか。あれの事や。これ以上のもんは無いで……)
おそらく殷汪は洪破天のその怒りをなだめる様な事を言ったのではないと、狗不死は考えていた。そもそもそんな事は無理な話なのだ。洪破天はいずれ必ず事を起こす。殷汪はもっと違う方向から、何かものを言った筈だ。狗不死は洪破天からそれを聞き出そうとしたのだが、洪破天はその内容を明かす事は無かった。
「狗不死様?」
白千雲の声で狗不死は我に返ってまたにこやかな表情を作る。
「ま、とにかくはよう帰り。弟子が無事ならそれでええがな。もしあれが都行ってもあんたらがおったらそう簡単には動かれへんやろ」
「狗さん! 一体どっちの味方なのよ!」
傅朱蓮の怒りの矛先が不意に狗不死にまで及び始める。狗不死は首を縮めて、
「どっちて……儂は別にどっちも……いや、言われへん」
「私は洪小父様に加勢するわ」
傅朱蓮は白千雲に改めて向き直り、大きく深呼吸すると先程までとはうって変わって落ち着いた、力強い声で話し始めた。
「殺されたその子は私の弟です。私は仇を討たねばなりません。お二人からみれば私はまだ剣を振り回すくらいしか出来ない小娘に見えるかも知れません。真武剣派の子弟を相手に何が出来るとお思いでしょう。でも洪小父様と一緒なら、必ず弟の為に戦えると信じています。もしその時が来たら、例え無謀と言われても洪小父様と共に剣を抜きます。真武剣派の高弟筆頭と呼ばれるあなたが私の前に立ち塞がったとしても私は絶対に退きません」
声にも、その眼にも、力が満ちている。白千雲はそれらを受け止めながらゆっくりと頷いた。
「私はまだ事実を把握していない。出来ればその様な時が来ぬ方が望ましいが、事実であればきっとその時は、そなたのその思いを私は理解することだろう」
事実なら受け入れるという事だが、その時、自身は傅朱蓮を前にして剣を抜くか否か――。そこまでは白千雲の言葉には無かった。
白千雲らはその後改めて挨拶を済ませるとすぐさま馬を走らせ去っていった。恐らく真っ直ぐ都へと駆け戻る事だろう。張撰修という弟子が素直に事実を認めるかどうか知らないが、結局は洪破天が再び都へ乗り込むまで事態の進展はあるまいと狗不死は踏んでいた。
「狗さん」
傅朱蓮の声に狗不死が振り返る。傅朱蓮は飛雪の身体を撫でながら呟くように話し始めた。
「あの人達は仇の仲間よね?」
「ん? ああ……まあそうなるんかなぁ」
「さっき切り掛かってたら、どうなったと思う?」
「そらぁあんた……別に何もならへん。あの二人相手にして何が出来んねん。向こうかて儂らなんか真面目に相手しても面倒なだけやろ」
「私なんかじゃきっとそうだろうけど……、狗さんだったら――」
「おんなじや」
「嘘」
傅朱蓮は顔を上げてじっと狗不死の顔を見据えていた。
「嘘ちゃうわ。朱蓮、真武剣を舐めたらあかんで。少なくとも陸とその弟子はなぁ。他は……まあええけど」
「……そう」
傅朱蓮は消え入る様な呟きの後、飛雪の背を軽く二度叩いてからその背にひらりと飛び乗った。
「私達も行きましょう」
「追いかけるんちゃうやろな?」
「まさか。私達は咸水でしょ」
「せやな」
二人はようやく再び進み始めた。ただ、しばらくは交わす言葉も少なく、それは咸水の村に近付き朱蓮の気がにわかに昂ってくるまで続いた。
「いつかきっと、お父様と一緒に咸水へ帰るのが私の望み」
咸水はもう間近だった。真っ直ぐその方向を見つめながら、傅朱蓮は言う。
「また咸水に住むんか?」
「それは無理ね。家は直せても、やっぱり人の居る処じゃないと暮らしていけないし。それに咸水と繋がりのあるのはお父様と私だけ……。お母様や紫蘭にしてみれば何を好き好んであんな辺鄙な場所にって思うでしょう」
「英は咸水の出とちゃうんか?」
狗不死の言う英とは傅千尽の妹である傅英の事だ。
「叔母様は違うわ。まだ子供の頃にお父様と別れて叔母様は東淵、お父様は咸水で、離れ離れになったそうだから」
「またえらい思い切った別れ方やな。その前は?」
「呂州に近い処らしいわ。今はもう無いみたい。咸水とは違って徐々に人が減っていって自然と廃れてしまったそうなの」
「……あんたの家族は皆、苦労人やなぁ」
「私の家族だけじゃないでしょう? 江湖には本当に辛い思いをした人で溢れかえってる。今もそこから抜け出せない人も大勢居るじゃない。だから私は多分、まだ恵まれてるんだわ」
そう言う傅朱蓮の表情はどこか物悲しそうで、言葉とは裏腹に納得しきれていない処があるのだろう。そんな思いを吹っ切るかの様に勢い良く顔を上げ、空を見上げる。
「……嫌な雲ね」
青々とした空が広がっていた筈が、いつの間にか厚い黒雲が何処からか姿を現していた。今まで眩い光が辺りを照らしていたのが、かえって陽が陰ると随分薄暗くなる様に感じられる。
「降るなぁ。風もなんかぬるうなってるわ。咸水ってもうすぐやろ?」
「ええ。この先から西に折れて暫く行けば着くわ」
「周り、何も無いんやろ?」
「無いけど」
「なぁ、ちょっと休んでいこうや。ほれあそこ、茶店があるで」
「休んでる間に降りだしたらどうするの?」
傅朱蓮が言いながら狗不死の指す方へ顔を向けると、古びた民家の様な建物がそこにあった。目を凝らすと随分控えめな『茶』の文字がある。よく見つけたものだと感心する。探していたのでなければきっと気付かないだろう。
「多分、『一応、茶店ですけどそんなに客は来て欲しくない』って意味よ。あれは」
「絶対あかん訳や無いんやな? ほないこか」
狗不死はさっさと馬を進めてその店に向かう。
「まだ降らへんて。夕方頃やろ」
空を見上げて顔を顰めた傅朱蓮に狗不死は振り返って言った。