第十三章 六
傅朱蓮は溜息を一つ洩らして言う。
「親しくても、みなを知っているとは限りません。今、名を挙げられた人達に比べれば私はまだ――。私の人生より長い時間を、この江湖で過ごしてきたのですから、私などには及びもつかない過去があるのでしょう。……話したくなる様なものばかりではないと理解しています。私が知るのは、皆、優しく、私を育ててくれた父たちなのです。父であり、兄であり……。誰も昔の話をあまり積極的に話そうとはしませんし、私にもあまりそれは必要ではなかった」
「兄というのは、それは殷汪どのの事かな?」
「変ですか? 実際に間近で接していない人には当然でしょうけど、私には違います」
傅朱蓮は、歳の事など何の問題にもならない、といった風に平然とそう言った。容姿も、その言葉も若々しいままの彼自身が己の年齢に言及しない限り、問題など起こり得ないのだ。
「いや、それは理解出来る。……傅朱蓮どの、我々が訊きたいのはその辺の……そう煩わしい話ではない。そなたの記憶の中に、ある武芸について聞いた事がないだろうか、というものなのだ」
「ある……武芸?」
白千雲は頷き、隣の丁常源は傅朱蓮の反応を窺うように傅朱蓮をじっと見据えていた。
そこへ狗不死が小走りで戻って来る。
「儂を待たんと話進めたらあかんで」
白千雲は笑って狗不死を迎え入れる。
「ハハ。いや、今から本題に入るところです。といってもそう大した話でもないのですが」
「で、なんや?」
白千雲は小さく咳払いをしてから、傅朱蓮の方へ顔を戻した。
「その昔、東涼の地に興った黄龍門をご存知かな? 元は安県黄龍門の弟子であった女侠、洪淑華が開いた武芸門派だが」
話は全く思いがけない処から始まり傅朱蓮は少し驚いたが、
「もちろん、洪淑華の名は知っています。ましてや女性でありながら武林に名を馳せた方ですから、同じ女として……その、恐れ多いとは思いますが、憧れを抱かずにはいられません」
「そうであろうな。いや、男女の別など、彼女ほどになればもはや関係無い。武林全てが認める偉大な先達だ。我が師も長い武林の中で最も優れた武芸者の一人であると度々その名を挙げられる」
「ほう。あの陸がか? 儂は聞いた事ないなぁ」
狗不死が口を挟むが白千雲は僅かな笑みを浮かべて見せただけでまた傅朱蓮に向かう。
「師は様々な武芸の成り立ち、その時代背景についても探求しておられる。洪淑華の使った武芸そのものについてもかなり熟知されている様だ。残念ながら、我らは東涼黄龍門の弟子ではなく真武剣派なのだから教えては頂けぬが……。その師が言われるには、そなたのよく知る殷汪どの――彼の武芸は洪淑華の武芸の影響を多大に受けている、らしい」
「えっ?」
傅朱蓮はこの突拍子も無い白千雲の話に驚き、なかば口を開いたまま白千雲を見つめ返した。
(殷兄さんの武芸に、元となるものが存在する?)
白千雲は考える暇を与えてはくれなかった。
「そなたは、武芸を殷汪どのから教わった事はあるかな?」
「ありません」
傅朱蓮は即答する。武芸に関する事を教えてくれたのは全て洪破天であり、殷汪はそれに何か口を挟む事すら無かったのだ。むしろ完全に無関心であるかのようであったと記憶している。
「なにかしらの助言など一つも?」
「はい。ありません」
「ふむ」
白千雲は目を閉じ、何か思案している様だ。ここで丁常源が初めて口を開いた。
「殷汪どのの武芸は、武林において無敵、不敗の剣であるとして広まっているが、当然それはあなたも聞き及んでいたのでは?」
「それは……噂ではそう聞いていましたけど」
「あなたは武芸を洪破天どのから習っている間、殷汪どのにも何か教わりたいとは思わなかったと?」
まるで尋問でも受けているような気分になった傅朱蓮はむっとして眉間を寄せる。
「そんな事、あなた方と何の関係があるんですか? 訊いたとしても殷兄さんは……きっと何も教えてはくれなかったでしょう」
「何故?」
「何故って……」
傅朱蓮は質問ばかりの丁常源が鬱陶しく、腹立たしく思えてきた。そこへ、
「はぁ、あれやな?」
狗不死が菓子を放り込んだ口を動かしながら言う。
「あんたらが盗まれた秘伝書、洪淑華のやつやったなぁ? それには殷が絡んどるかも知れん。朱蓮は殷と繋がりがあるわなぁ。ええと、ほんなら犯人と――」
「そんな!」
狗不死の言葉が終わらぬ内に傅朱蓮は思わず声を張り上げ、それに反応して白千雲が慌てたように両腕を持ち上げた。
「いや、待て待て。そうではない。そうではないのだ」
「何が『そうではない』のですか!」
白千雲は首を振った。
(まったく余計な事を言ってくれる。やはり真面目な話は狗不死様には遠慮してもらうべきだな)
「まさか、私も疑われているのですか」
傅朱蓮の声は僅かに震えている。そうさせているのは間違いなく怒りであろう。
「とんでもない。今、話したその繋がりだけでそう考えるなどあまりにも……荒唐無稽だ。我らは微塵もそなたを疑ってなどおらぬ。先の事件とは全くの無関係。洪淑華の秘伝そのものへの興味から、そなたに尋ねておるのだ。内容がどのようなものなのか、何か聞いた事は無いかと」
「そんな事は……、陸総帥に訊けば良いのでは? 既に良くご存知なのでしょう?」
傅朱蓮はそっぽを向いて鼻息を荒くしている。
「総帥は……知識の全てを弟子にお教え下さる気は無いようでな」
白千雲の低く沈んだ意外な言葉が傅朱蓮の興味を少し引いたが、傅朱蓮はそれに抗う様に語気を強めた。
「ほ、本当に盗まれたのか確かめたらどうですか? 弟子に隠し事する人が本当は持ってたりして。しかも秘伝書なんてこれほど貴重な資料は無いでしょう? ……人まで死んで、一体どんな裏があることやら」
これを聞いた丁常源が勢い良く立ち上がり、
「なんだと! 何を言ってるのか分かっているのか! 口を慎め!」
「何故?」
傅朱蓮にはもう遠慮する気など一切無い。丁常源の言葉を聞いて怒りは一気に高まる。
「江湖の大抵の人間はそう思ってます。だってその方がありそうな話でしょう? そうでなければこんな処で無駄話してないでさっさと下手人を捕まえて、そうじゃない事を証明するべきでは?」
「黙れ!」
「真武剣派の人って噂通り、偉そうにしてるんですね。私は真武剣派と何の関係も無いのに。そんな命令なんて聞きませんから! 気に入らなければさっさと帰って弟子達に怒鳴り散らして鬱憤を晴らせば良いわ! いいですか。あなたのその偉そうな態度に黙っているのは真武剣の弟子だけですからね! 勘違いしないで!」
傅朱蓮も立ち上がり、丁常源に負けじと睨み返す。言いながら怒りが限界に達したのか、もはや元の話など頭に無い。あるのは丁常源に対する嫌悪のみであった。