第十三章 三
傅朱蓮が部屋を出た時にはすでに狗不死は出立の準備を済ませ、茶を飲みながら待っていた。傅朱蓮の方もそのまますぐに発てるようにと自分の荷を抱えている。だが常に背負っている長弓はまだその手にあった。
「ま、急がんでもええわな。今日もええ日和や。のんびりしていこ」
狗不死が振り返り、そう言って笑う。傅朱蓮は少し曖昧に、小さく頷いて狗不死の隣で荷物を降ろした。
外を見遣れば確かに燦燦と陽が差して気持ち良さそうな風が草木を撫でている。山間の小さな村で寂れてはいるが、とても穏やかな場所だった。
「ごめんなさい。寝過ごしちゃって」
「そんなんも若い内やで。儂なんか寝たぁてもすぐ目が覚めてまうんや」
「私、うなされてた?」
傅朱蓮が狗不死を横目で見ながら訊ねると、
「そらぁあんた! こんな狭い宿や。何事かおもたで」
「そ、そう……」
「ええ夢なわけ無いわなぁ……」
狗不死がそう言いながら顔色を窺う様に見るので傅朱蓮は肩を竦めた。
「疲れてるのかもね……。疲れる事なんて何もしてないのにね」
傅朱蓮の今回の旅は、見事に何も起こらない、平穏無事な旅だった。途中、武慶に立ち寄り真武剣派の催す英雄大会に狗不死に連れられて行った以外は、陽が登れば進み、暮れれば眠るの繰り返し。そして西へ行けば行くほど北辰絡みの話など殆ど出て来ないのである。ましてや今は真武剣派と例の徐という男に係る噂話で持ち切りであり、少々うんざりする程であった。
額を押さえながら卓上に伏した傅朱蓮に狗不死が訊く。
「調子、悪いんか?」
「……大丈夫」
傅朱蓮は小さくそう答えて、額を撫でている。
(倚天剣……、今、何処にあるのかしら?)
「なぁ、朱蓮?」
「なに?」
「いっぺん、東淵に戻ろか?」
「えっ?」
傅朱蓮は驚いた顔を狗不死に向けたが、体勢は変わらず伏せたままだ。
「まだ何も見つけてへんけど、あんまり長いこと家出たままやったら親父さん心配するがな」
「大丈夫よ。今までも……もっと長い間戻らなかった事があるわ」
傅朱蓮は身体を起こして背筋を伸ばし、短く息を吐いてみせる。狗不死は自分の調子を気遣って言っているのだ。少しばかり悪い夢を見ただけで何の問題も無い、そう言いたくて気合を入れる。
「ほんでも、儂らだけで殷の手掛かりなんて難し過ぎるわ。あれの昔の事もよう知らんし、何処の何を目指せばええんか分からへんやろ。それよりあそこ、千河幇やで。幇主は『難しい』みたいな事言うとったけど、少しは何か掴んどるかも知れへん。人も仰山おるんやし」
「千河幇……緑恒か……。遠いじゃない」
「何言うてんねん。帰り道やないか」
「随分遠回りの、ね」
「なぁ? 何で避けるんや? 緑恒」
「別に避けてなんかないわ」
「范幇主の倅、何ちゅうたかいな、アレ。嫌いなんか?」
狗不死は真顔で訊いてくる。傅朱蓮は眉根を寄せた。
「は? どうしてそこで撞さんが出てくるわけ?」
「ああ、そんな名やったなぁ。いや、仲良さそうやったのに何で近くまで行ってんのに会いに行かへんねやろなぁおもてな。名で呼ぶ程の仲やのに?」
「別に、呼んでないわ。……『范さん』って言ったら幇主も同じ姓なんだから狗さんが混乱すると……思って」
何故、名の方が口をついて出たのか、と傅朱蓮は焦る。勿論、本人にそう呼び掛けた事など一度も無かった筈だが、随分と自然に出てしまった事に面食らってしまった。
「ま、まぁ、帰りに寄って話を聞くのも良いわ。鏢局……そう、鏢局の皆さんにもお会いしたいし。そうしましょう。でも、まだ行っておかないといけない処が残ってるわ。そこに行ってからよ」
「ん? 何処やそれ」
「都よ。都に行って、殷兄さんが何の為に行ったのか探れないかしら? 何人か、殷兄さんを総監って呼んでた人が居たって媛が言ってたでしょ? 何か、分かるかも知れないと思って」
「媛? ……ああ、あのお嬢ちゃんやな? 都か。緑恒とは反対やな」
「……それと、咸水にも」
「咸水かぁ。人、おるんかいな?」
「前に行った時は、誰も居なかったわ。相変わらず、ただの廃墟だった……」
「殷が行ってへんか――ってか?」
「望みは薄いけど全くあり得ないって事も無いでしょう? それに、やっぱり……私の生まれた処だから……」
傅朱蓮はそう言って薄く笑う。人が居なくても、かつて人の住処があったという痕跡が全て消え失せたとしても、やはり咸水は自分の『帰る』場所の一つなのだと傅朱蓮は考えている。
幼い頃は咸水の話を聞かされてもそれはどこか遠い処で縁などというものを感じる事は無かったが、東淵を出て自分の足で咸水の荒れた地を踏んだ時の、初めて覚えたあの感覚は――。全く記憶に無い風景と匂い。だが確かに感じたそれは、『母』であった。この地の上に、自分を生んだ母が生きていたのだ。
東淵には王梨という綺麗で、優しい母が居る。これからもずっと彼女は自分の母であり続ける筈である。ただ、自分にはもう一人の特別な母が居る事を、咸水で改めて感じた。こちらの『彼女』は姿を持たない。記憶の何処を探しても見当たらないからだ。だが姿を探す必要も無い。咸水の地に立った時、そこかしこに母を感じたのである。草木を奔放に育てているその大地も母の様であったし、吹く風もまた、母の吐息に思えた。
人には解るまい。だが誰が何と言おうと、かの咸水の地は特別で、大切な『存在』――。
「そうか。実は儂、咸水行った事あらへんねん。なんせ人おらへんやろ? 用事がでけへんがな。見てみたいなぁ」
狗不死は明るい声で言い、笑う。全く屈託の無い、子供の様なその笑みに傅朱蓮はつられてしまう。
「フフ、本当に何も無いけどね。だから、咸水にまず寄りましょ? それから北上して、都へ」
「それから緑恒に向かうとなるとまた此処通る事になるなぁ。ま、しゃあないか。あ、武慶もまた通る事になるなぁ。今度は素通りでええか。陸の奴はこないだ会ったし、しばらくは見んでもええわ。よし! ほんなら行こか! こっから咸水いうたら……ええわ。そのうち着くわ!」
狗不死は勢い良く立ち上がると荷の包みを掴んでそのまま歩き出す。あまりに急だったので傅朱蓮は呆気に取られてその背中を眺めていたが、狗不死が足を止める気配も無くそのまま行ってしまいそうなので慌てて立ち上がった。
椅子に立て掛けていた長弓を手に取ると勢い良く一振りしてから背に担いで紐で結わえ、長剣と荷を掴み取り、颯爽と歩き出す。この時にはもはや嫌な夢の事など傅朱蓮の頭から何処かへと消え去っていた。