第十三章 二
傅朱蓮は飛び上がり、音も無く老人に迫った。手にした長剣を振りかざして言う。
「最高の切れ味を味わいなさい。堪能してから殺してあげるわ」
長剣が鋭すぎるのか風を切る音も無い。傅朱蓮がにやりと笑う。だが次の瞬間、その笑みがそのまま凍りついた。
時が、減速する。老人に向けて振り下ろす長剣も、それを手にする傅朱蓮の身体も、次第に速度を緩めていく。
そしてまた例の如く、時が止まった。傅朱蓮の身体は老人に向けて長剣を振り下ろす姿勢のまま宙に浮いて固まっている。奇妙な現象は此処では珍しくはない。傅朱蓮は思案する。止まったあの矢は――何故そうなるのか考えてすらいないが――再び解き放つ事が出来た。では今度は? 今度は身体が動かせない。どうすればこの老人の腕をすっぱり落とす事が出来るのか?
目の前の老人は相変わらず指をこちらに向けている。傅朱蓮はハッとなった。老人は顔を正面に向けている。つまり、飛んで襲い掛かる前の傅朱蓮の居た場所に向いており、頭上に迫っている傅朱蓮は見ていない。だが、老人の指は上を向き、真っ直ぐ傅朱蓮の顔を指しているのだ。不意に嫌な気分に襲われる。こちらは動けない。老人の方も同じであるのか、確証が無い。最初から殆ど動かないこの老人にも同じ現象が起きているのだろうか?
顔も動かせない傅朱蓮は今見えている視界の中をくまなく意識を巡らせて観察する。動いているものは何も無い――。そう思った矢先、小さな光が真下に現れたのを感じ取った。それは、老人の前で傾いて今にも倒れそうでいて倒れない、赤い袍を黒く血で染めた男の背中にあった。
不意にブツリと何かが布を突き通した様な音がする。
「アッ」
視界の中で唯一動きを見せていたのは先程現れた一つの光のみ。少しずつ光が大きくなっている様に見えるのは、光を放つ何かが男の背を突き破って出てきたからだった。それは男の血で濡れ、キラキラと赤味がかった眩い光を放ちながら上に向かって徐々に伸びていく。
傅朱蓮は叫ぶようにその名を呼んだ。
「倚天!」
何故それが、その名であることに気付いたのかは分からない。見ればそれがよく磨かれた剣身であることは確かであったが、傅朱蓮は何かを感じ取ったのだろう。
「これの切れ味も知っておろう?」
初めて耳にする声が聞こえる。細く、しわがれた声。老人のものであることに間違いない。
「お前の剣に勝るとも劣らぬ、雌雄一対の片割れ――」
突如現れた宝剣、倚天。その切っ先は少しずつ、そして確実に傅朱蓮の眉間へと近付いていく。
「さて、この宝剣を防ぐにはそなたのその『青釭』が必要だが……、その様に振り上げてしまっていてはもはやなす術が無いのう」
老人に斬りつけるべく大きく頭上に振りかざした剣は傅朱蓮がどう力を込めようともぴくりとも動かない。剣だけではない。ゆっくりと下から迫ってくる宝剣を足で払う事も叶わない。傅朱蓮の顔面からは血の気が引き、いつの間にか噴出していた大量の汗が頬を伝った。
「待って! 待ってよ! 私の、私の負けよ!」
「果たして耳もどこへ飛んだか分からぬこの者に、その言葉が届くと思うか?」
淡々と告げる老人の顔を、傅朱蓮は凝視した。今、倚天を操っているのは誰なのか。まさか頭を失い動かなくなったこの男ではあるまい。この老人が、死んだこの男に代わって自分を殺そうとしているのだと、傅朱蓮は思っていた。
「こっ、こんなの卑怯だわ! 人の……人の技じゃない!」
「そうかな? この男の首を奪ったそなたが次にその首を落としたところで誰が口を出す? 手段など――。少なくとも、この儂には関係の無い事。この倚天には触れてもおらぬ。儂の物でもないしのう」
「待って! ごめんなさい私、こんな、つもりじゃ――」
「儂に言うておるのか? それともこの男にか? もうじき、もうじきじゃ。倚天がそなたの、額に触れる。諦めよ」
老人の言葉通り、倚天剣の眩い光がもう間も無く傅朱蓮の眉間に触れる。
(どうして! こんな!)
傅朱蓮は迫る光から眼を逸らせない。首を痙攣させたように頭を小刻みに震わせてただ見つめるしか出来なかった。
老人は諦めろと言ったが、そんな気は更々無い。なれる訳が無いのだ。この奇妙な場所、不可解な出来事、男の首を落として興奮し笑い声を洩らすこの傅朱蓮は、本当の自分ではないのである。傅朱蓮はこの場所を何度も訪れているが、今初めて、本当の、己の意識を取り戻した。
(早く! 早く眼を覚ますのよ!)
声になったのかは分からない。とにかくそう強く自分に命じる。するとその傅朱蓮の叫びに応じる様に、また新たな低く小さな声が現れた。
『朱蓮。俺にお前の剣を避ける力など無い事は分かっていただろう? 朱蓮。俺に出来る事はただ報復のみ。これさえも出来なくなれば俺には何の価値もなくなってしまう。降りかかる災いを防ぐ事も出来ぬのにとお前は笑っているだろう。だがそんな事はもうどうでも良いのだ。さあ、いつもの、後手の番が回ってきた。粗末な手で悪いが、お前には絶対に避ける事の出来ぬこの剣でその命、貰い受ける。ただ憎しみのみでお前を殺し、理不尽にも奪われたこの魂を慰めるとしよう――』
若い男の声。そう認識すると同時に、傅朱蓮の身体に今まで経験した事の無い衝撃が走る。倚天が、傅朱蓮の額に触れた。
口から声が洩れ出るがそれは意識とは全く無関係の、身体が壊れる音だった。視界はいつの間にか失っている。先程までぴくりともしなかった傅朱蓮の全身が次第に痙攣を起こし始め、ありとあらゆる筋がこれ以上無いというほどに強張っていく。振りかぶっていた長剣『青釭』は傅朱蓮の手から外れると地に落ちてカラカラと音を立てた。
傅朱蓮にはもう意識は無かった。暫くして後、痙攣は徐々に治まっていき、ゆっくりと地面に向かって降りていく。そして完全に力の抜けたその身体はついに、男の背から現れた宝剣、倚天に貫かれたその頭部にぶら下がる様にして静止した。
「そなたの死が、こちらでは僅かではあるが安定をもたらす。今のそなたはそういう存在であったという事じゃ。さて、次はどうであろうか? それも楽しみではある――」
老人は目の前にある宙に浮いた倚天剣とそれからぶら下がった傅朱蓮の亡骸に向かって呟いてから、ゆっくりと立ち上がる。それと同時に、陽の光の降り注いでいたこの山頂は一瞬にして完全な暗闇と化した。
「朱蓮――」
自分の名を耳にして急速に意識が覚醒に向かう。
「朱蓮! 朱蓮!」
老人の声。老人は老人でもこちらは常に耳にしている聞き慣れた声。
「朱蓮! 呻いたり泣いたり忙しいな。どっか痛いんか? 朱蓮?」
傅朱蓮はゆっくりと瞼を上げてみる。するとすぐ目の前に人の顔が迫っている事に気付いて驚き、一気に目を見開いた。
「おお朱蓮、やっと起きたか。どないしたんや? まさか怖い夢見て泣いてしもたとか言うんちゃうやろな?」
「く、狗さん、近い」
「お? ああ」
眠っていた傅朱蓮を起こしたのは一緒に旅をしている狗不死である。隣にはこの宿で給仕をしている婦人が立っていた。当然の事ながら狗不死と傅朱蓮は別々に部屋を取っているので、その婦人が傅朱蓮の異常な状態に気付き、狗不死を呼んで様子を見に来たのだろうか。婦人はまだ心配そうな面持ちで傅朱蓮の様子を眺めていた。
「目ぇ赤なってるで。腫れてへんか?」
狗不死が言うので指先を当ててみる。すると思いの外、睫も、そして頬まで濡れており、少し驚いた。
(一体いつ、私は泣いたのだろう?)
傅朱蓮は両の手のひらで濡れた顔をそっと覆った。