第十三章 一
地図を書くことも出来るほどに熟知したつもりが、また以前と異なる処を見つけて驚く。 最後に訪れたのはついこの間の筈だというのに――。一瞬首を傾げはするが、だからこそ、いつも此処なのだと納得もする。此処は楽しい。そして飽きない。だからといって長居は出来ない事を、経験上知っている。
前を見れば、背丈の三倍はゆうにあるであろう巨岩が道を塞いでいた。こちらは見慣れた景色だ。
「さて、急がないと」
何気なく上を見たといった感じの傅朱蓮は次の瞬間、その巨岩の遥か上方を舞っていた。
山の斜面の雑木林を、駆けるというよりは木々を縫って飛ぶ様に登っていく。此処でしか感じる事の出来ない強い向かい風を全身に浴びるのだが、それは自らの速さの証明でもあった。此処を通る度に傅朱蓮はあの馬少風の事を頭に浮かべた。彼ならばどれほどの速さで此処を抜けるか? あの梢の、どれほど上まで跳躍するだろうか? そんな事を考えながら、傅朱蓮は一人笑う。
(馬さんでもこの速さじゃ追いついて来れないでしょ。どう考えたってこれほどの軽功、在り得ないもの。馬さんを負かすところを紫蘭が見たら何て言うかしら? これも無いけど。紫蘭自身が私を追って来れないんだもの、見れやしないわ)
突然、視界が一気に開け、先程までの鬱蒼とした林とはうって変わって陽の光が燦燦と降り注ぐ山の頂きへ、早々と辿り着いた。傅朱蓮は足を止めずにそのまま跳躍する。正面には再び巨岩が現れるが、それは最初に超えたのとは違い人の手によって丹念に形を整えられた巨大な台座の様な形をしていた。
これが此処にある事も傅朱蓮は最初から知っている。素早く近くまで駆け寄り、短く気合を発してこの台座の上へと飛び上がると同時に背負っていた長弓に手を掛けた。台座の上を見渡せる高さまで到達した時にはその弓が完全な形でもって最大に引き絞られていた。
傅朱蓮の視線が捉えているのは岩の上で向かい合うように座っている二人の人間。一人は真っ白な袍に真っ白な頭髪、真っ白な髭を蓄えた痩せた老人で、こちら側を向いている。もう一人は真っ赤な袍を纏い、黒々とした長髪を背に垂らした若い男。ただしこの者はこちらに背を向けているので若い男かどうかを見て確かめる事は出来ない。だが傅朱蓮はこの二人を目にするのも初めてではなく、いつも此処に居りいつも同じ格好をしたその男の顔を確認するまでも無く老人でない方の赤い衣装の者は若い男である事を知っていた。
傅朱蓮の引き絞った弓には、黒い矢がしっかりとつがえてある。つまり、攻撃の意図があるという事だ。しかし、まず最初に傅朱蓮のその姿を眼にした筈の白の老人はなんの反応も示さず、じっとしたまま、ただ傅朱蓮を見ているだけである。そして赤の男は背を向けたままでぴくりとも動かない。傅朱蓮は赤の男の黒髪に狙いを定める。
そしてその黒々とした矢は何の躊躇いも無く放たれた。
人が、『夢を夢であると知りながらその世界を楽しんでいる』と言うのを聞いた事がある。だが傅朱蓮にはそんな経験は一度も覚えが無く、どうにも信じ難い。一たびその世界に潜り込めば、『いつもの風景』と認識するのはいつもの『夢』だからではなく、自分が本当にそこで暮らす住人であると思いこんでいるからだ。
何の躊躇いも見せずに次から次へと行動を起こす。愛用の長弓から凄まじい唸り声を上げて空を裂く矢が人の頭を粉々に粉砕する――その強烈な印象により自らの力を顕示するには絶好の『的』。
やりたい事を、特に深く考える事も無く平然とやる。やっている事の是非はともかく、爽快な気分になれる事は間違い無かった。後であれほど自己嫌悪に陥るというのに、此処に居る傅朱蓮は毎度の事ながらすっかり忘れている。いや、忘れているのではない。いつも後悔するのは別な場所の、別な傅朱蓮なのだ。知る筈も無い。
自分の手にある長弓と漆黒の矢は特別なものである。そう信じていた。貫けないものなど無い。この世のものであるならば――。故に尚更、傅朱蓮は執拗に狙う。目の前の、人の姿をした人では無い何か。何度試みてもその体を貫けない、信じ難い存在。
何故その男を射殺さねばならないのか? 『外』からみれば当然の疑問だが、『中』に居る傅朱蓮にとっては理由など無くても構わない。在っても良いのだが、つまりどうでも良い。だがあえて言うならば、倒せない存在が気に食わない、といったところか。
先程放った矢はまだ男の体に届いてはいないが傅朱蓮は既に二本目をつがえていた。息を殺して凝視しているその一本目は、狙い定めた男の頭部目がけて真っ直ぐ進んではいるものの、ひどく遅い。なのに音だけは相変わらず凄まじい唸りを辺りに響かせていた。本当ならばあり得ないその光景。しかし傅朱蓮はそのおかしな矢の挙動の事など気に止めずに、ただひたすらに念じる。
(行け! 当れ! あの頭を吹き飛ばすのよ!)
矢は益々遅くなっていく。しかしその軌道は全く変化せず、文字通り一直線に進んでいる事は確かであった。そしてついに矢は止まってしまう。男の頭部に触れるか触れないかの距離で、見えない何かに遮られた状態のまま眼前の獲物を捕らえられず怒り狂った猛獣の唸り声を上げて、矢は激しく震えていた。
傅朱蓮は構えていた長弓を外して急いで背に戻すと、気合一閃、両の腕を袖を巻き上げながら勢い良く突き出した。すると次の瞬間、大きな破裂音を伴って止まっていた矢が再び前方へ飛び出す。的は既に鼻の先――、矢の先端は、男の頭蓋に到達する。念じ続けたそのままに、男の頭部が傅朱蓮の矢によって弾けた。
真っ赤な鮮血が男の首から天に向かって柱を作り、粉砕された頭骨と脳髄が傅朱蓮の上にも雨の様に降り注ぐ。傅朱蓮は顔を上げ頬を血で染めながら恍惚の表情を浮かべていた。
(ハ……ついに、やった!)
顔を拭うと粘り気のある真っ赤な肉塊が指に絡まる。手を持ち上げると唇をそっと開き、真っ赤な舌の上にぽとりと血の雫を落とす。
(フ……フフッ……)
後は傅朱蓮の甲高い狂気じみた笑い声がしばらく辺りに響き続けた。
やがて男の首から噴き出ていた血は勢いを失い、時折沸々と真っ赤な色を首からのぞかせる。男の正面に座っている老人はその様子をじっと眺め続けているのだが、感情というものを持ち合わせていないのではないかと思うほど、全く表情が無い。
「逃げなくても良いのかしら?」
傅朱蓮が老人に声を掛けた。すると老人は再び視線を傅朱蓮に戻しはしたが、やはり何も言わず、顔の筋肉を微塵も動かさない。
「フン、面白く無いわね。ま、あなたの方は放っておいても近いうちに死にそうね」
傅朱蓮が言い終わると同時、男の胴がゆらりと傾いた。当然死んでいる筈で、そのまま倒れるのだろうと思われたが、大きく傾いたその後はこれもまた非常にゆっくりとした動きで、徐々に減速していく。通常ならば逆で最後には勢い良く地面に突っ伏してしまう筈だが、男の胴体はそうはならない。傅朱蓮は怪訝そうな表情でその様子を観察した。男は既に無くなってしまった頭を正面の老人に向かって下げ、礼をしている様な格好になったところでその傾きを止めた。
ふと老人を見ると、老人は先程から全く視線を動かしておらず傅朱蓮を見続けており、互いの視線が重なった。
「何? 言いたい事があるなら言いなさいよ」
すると老人は左腕をゆっくりと持ち上げ、小枝の様な人差し指を傅朱蓮に向ける。だがやはりそれだけで言葉が無い。
「何? 何よ! やめて!」
傅朱蓮は叫ぶが、老人に反応は無かった。
「目障りだわ。腕ごと切り落としてやるから!」
傅朱蓮は怒りの形相で老人を睨み、腰の長剣を勢い良く抜くと甲高い金属音が辺りに響く。
剣には名があった。古代の王が造ったという。それは隠しておかねばいらぬ災いを招く事は必定であるが、傅朱蓮は自分の腰にそれがあるというのが自慢であった。大闘争の末に勝ち取ったという訳ではなく単に人から譲り受けただけなのだがそんな事はどうでも良い。今、この『青釭』は他の誰でもない、我が佩剣である。間違いなく武林のみならずこの江湖において最高の名剣の一つを手にしているのだ。誰がこれに勝てるだろうか? 誰が、これを手にした自分に勝てるだろうか? 傅朱蓮はそれを考え出すと笑いが止まらない程だった。