第十二章 三十二
「この庭を畑に、ねぇ……」
確かに全く見る影も無い。だが、陶峯亡き後のこの方崖で、殷汪がする事など殆ど何も無かった筈だ。この奥まった場所で土を弄ってはみたもののこの狭さでは大した事も出来ず、その内あの夏天佑という替え玉が用意出来たので徐々に方崖を離れる事が増え、そしてついに、そのまま去った――。これは林玉賦にも容易に想像が出来た。
「望んで得た平穏……。でも、どこか物足りない……。ちょっと違うかしら? 漠然とした不安かしら。方崖はこれで良いと思いつつ、そして本来自分の居るような場所でもない」
「でもそれで出て行ったんなら、もう戻る事なんてあり得ないじゃないか。あんたは、待つつもりなんだろう?」
「さぁ……どうかしら」
「何だいそりゃ」
「とにかく、今あなたが胸の内に感じている心のつかえも同じ様なものだわ。私も戻って来てまた此処での生活を始めたけれど、やはりこの先の不安感は拭えていない。方崖自体を見ても何かが起きようとしているのか、それとも何も無いのか――」
「方崖、というより北辰教の今の変な空気はさ、一気に変わる可能性も無いわけじゃないだろう?」
「それは何によって、かしら?」
「そりゃ勿論、教主様さ」
太乙北辰教を司る者は誰か――。それは当然、教主陶光であるべきだが今はそうはなっていない。後見として現総監の張新があり、その立場は正当であるとは言えども近い将来、必ず教主自らが上首として立たねばならないのだ。そしてその時、再び太乙北辰教は正常な状態へと戻る事になるのである。
林玉賦は『絶対に裏切れない』と言うほどである。忠誠を誓う教主が名実共にこの方崖に君臨する日を強く望んでいるに違いない。その教主が何を始めるかは今はどうでも良い事で、まずは張新の上に立つ事が先決である。そしてそれは可能な時期に来ている筈だ。教主陶光はもはや幼子ではない。
「どんな感じだい? 教主様と……話せたんだろう?」
林玉賦は周婉漣に訊ねてみた。周婉漣はそっと俯いて、
「教主様はとてもお若いわ」
「まだ見込みが薄いってのかい?」
「そうじゃない。ほんの少しの間離れただけなのに、もう随分と変わられた。今は力を、蓄える時。若いからこそ大きく伸びていける。教主様は先の事をしっかり考えておられるわ」
「へえ、そいつは……喜ばしいねえ。北辰にとっても、あんたにとっても」
「……そうね」
「でも、その教主様のこれからってのを万全にする為には、少なくとも張総監にこれ以上力を持たせちゃいけないわけだねぇ」
二人の視線の先、その少しばかり奥に今も張新が居る。これほど近くでこの様な話をする者など他には居ないだろう。無論、辺りの気配を窺う事は常時怠りはしない。この紫微宮の奥まった場所はたとえ昼間だろうと人気は少なく、誰かが近付けばすぐに察知出来る。
「それと――」
周婉漣は林玉賦に改まって向き直るとその顔をじっと見つめ、
「ん? なにさ」
「殷汪様が戻られる事は、今後あり得ると思うの」
「……まさか教主様との話の中で出て来たってのかい? その――殷汪様の話が?」
林玉賦は怪訝な顔をする。教主の話からいきなりその名に飛ぶのだからそういう事である筈だが、まさか、一切表に出て来ない教主と何処へ行ったか知れない殷汪に今も繋がりがあるなど想像だにしていなかった。
本当なら林玉賦の大好物と言える面白い話に間違いない。方崖に教主が立ち、それを殷汪が補助するならば、今の張新ならどうとでも出来る筈である。九長老とて全てが張新側に立つ訳ではない。少なくとも、今の状況なら――。
「約束事の様なものは何も無いわ。ただ、私達が知る以上に教主様と殷汪様は頻繁に会って話されていたのね。それも多分、あの夏という者が入れ替わった後にも」
「じゃあやっぱり、教主様は殷汪様が此処を出る事を容認していたんだね?」
「それは言われなかったわ。でもお話を聞いてると、恐らく殷汪様は教主様だけは放って置く事は無いように思えるの。教主様の今後について、お二人で話される事がよくあったそうよ」
「ということはつまり、殷汪様が此処を出たのにはちゃんと理由があった、と? ただ嫌になったとかじゃなくてさ」
「そのどちらもあるんじゃないかしら。この先、教主様を助ける事はあっても、やっぱりこの方崖はあの方の居場所にはならないのかも知れない……」
不意に人の気配がする。侍女の一人が近くを通ったがすぐに通り過ぎ、消えた。
「こんな所で立ち話する事じゃないわね」
周婉漣はそれだけ言うと何の前触れも無くそのまま立ち去ろうとする。その白い袖を林玉賦が捕まえた。
「本当に一度、じっくり話をしようじゃないか。あたしは頭が悪いからねぇ、断片だけかき集めたって良く解らなくてね」
「私にもはっきりと解る事なんてそうないわ」
林玉賦は真っ直ぐ周婉漣の瞳を捕らえていた。
「あたしは、知りたいんだ。殷汪様の事を――」
林玉賦は周婉漣と別れた後、街に戻るべく一人歩いていた。
(もうちょっと言い方があったろうに。まったく馬鹿だねあたしは……)
周婉漣はどう思っただろうか? 彼女は何も答えず微かに微笑んで、そのまま去っていった。リンの件を忘れるな、と最後に言っておいたので少しは先の言葉を濁せたか? と考えたが、殆どその効果は無かったようにも思える。
(まぁ、いいか。良いじゃないか。あたしだって……)
「林」
不意に背後から声が掛かって林玉賦は思わず肩を弾ませる。
「ハハ、珍しいな。お前がそれほど驚くとは。考え事か?」
声は鐘文維のものである。誤魔化そうとしたところで、きっと全てをつぶさに見られたことだろう。林玉賦は面倒そうに顔だけ振り返った。
「こう見えてあたしは全く何も考えない日なんて無いんだよ」
「ま、それはそうだろうな」
鐘文維は林玉賦の隣までやってきてそのまま一緒に歩き出す。
「帰るのか?」
「そりゃそうさ。する事無いしねぇ。それに今日は随分と早く起きたからね。帰って寝直さなきゃ」
「あの男、周が預かるそうだな」
「婉漣に訊いたのかい?」
「ああ。ほんの少しだけ話した」
「そういえばあんたさ、東淵の洪さんについてかないのかい?」
急に林玉賦は話題を変え、そう訊ねた。鐘文維は小さく首を振る。
「もう東淵を離れたそうじゃないか。またも劉が見逃したとか。あんたの役目は、もう終わりかい?」
「それとなく張総監に、洪破天どのをどうするかと訊ねてみたが……、放っておけと言うだけだった」
「やる気無いねぇ」
「どうも、変だ」
「ん?」
鐘文維は後ろ手を組み、まるで今歩いている小道の先に何か落ちていないかと探す様な目つきでじっと地面を見つめている。
「総監の態度だよ。北辰の外の事には関わるなと言わんばかりで、何にも興味を示さない様だ。しかも急にそうなったような気がする。真武剣がにわかに騒がしくなったあたりからと思うが」
「まあ、面倒なのは分かるけどねぇ」
「総監となって一気に力を増したとはいうものの、まだその体制は磐石とは言えない。九長老の懐柔も思ったより進んではいないようだが、当人自身あまり積極的に動いている気配は無いな。どこかおかしいとしか思えんのだ。北辰を大きく動かせるようになるまであと一息というのに手を緩めるのは何故だ? 殷汪殿を探すのも、洪破天どのの行き先を探れば糸口を掴める可能性は高い。実績を作る上で有効だと思うのだがな。結果云々というよりも、人を使うという前例だよ」
「へぇ、あんたって張新派かい?」
「まさか。ただ、今の時期なら張総監は権力に貪欲な方が自然で、分かり易いだろう?」
「確かにね。でもあれは絶対、方崖を意のままにする力が欲しくて仕方ないって顔さ。実は張総監はその辺がとんでもなく下手だったりしてねぇ。そのおかげで、今の方崖は何だかまとまりに欠けるっていうか……。ほんと、良いんだか悪いんだか」
「とにかくだ。放っておけと言うのだから、わたしもこの街に居るしかない」
この鐘文維も自分と同じだ、と林玉賦は思っている。色々と考えるところはあるものの、劉毅の様に思い切った行動を起こせる人間では無い。この太乙北辰教を生きる拠り所として随分の時が経った。江湖を自由に渡り歩いた、この街に来る以前と比べると弱くなってしまったのかも知れない。
「ハッ。……じゃ、寝てなよ。おやすみ」
林玉賦はそう言うと歩く速度を早め、後ろに置いた鐘文維に袖を振って見せた。
武林においての太乙北辰教はまるで息を潜めるように沈黙していた。武林にとってそれは歓迎すべき事だ。本来の、信仰の世界に帰って貰えればこれほど良い事は無い。しかしながらそれは単なる希望であって、すでに形を変えてしまった太乙北辰教が昔に返るなど絵空事でしかなく、今の沈黙は逆に不気味に映る。教主は隠れ、にわかに力を持つ事になった男が方崖の中心に座る。北辰七星に象徴される、太乙北辰教の武林における存在感の要である武の力の行方は今後どうなるのか。
黙っている者の事こそ、注意深く見つめなければならない。武林が安定するのか、再び混乱の時代が訪れるのか、もしかすると沈黙し微動だにしないその者の手にこそ、鍵が握られているかも知れない。
第十三章へ続く