第十二章 二十九
「ああそうだ。何か文句があるか? 俺を使うかどうか決めるのはあんたじゃないよな」
それだけ言うとリンは劉毅を無視するように部屋を出ようとして林玉賦の傍まで行き、
「もう良いんだろ? 総監とやらは。本当にちゃんと会えるんだろうな?」
「ああ。何故か――今日はすんなり会う気になったみたいだよ。こんな朝っぱらからってのに、ねぇ」
林玉賦はニヤリと笑って見せるとすぐに表の見張りにリンを張新の処へ連れて行くよう命じる。それから劉毅の様子を窺うが、劉毅は何故か黙ったまま動かず、リンの方を見ようともしない。
リンはそのまま部屋を出たのだが、数歩行ったところで後ろを振り返りまた戻ってきて劉毅に歩み寄った。
「どうせまだ勘違いしてるだろうから言っとく。俺はあんたの事なんか香主から一言も聞いた事――」
「後で聞かせて貰う。さっさと行け」
劉毅はリンの言葉を遮って手で追い払うような仕草を見せる。
「何か仕事くれって言ったら、急に北辰の七星は今一人足りないとかなんとか言い出したんだよ、あの人が。それはつまりその残りの一人に俺が――」
「黙れ!」
劉毅が声を荒げ、リンの首を鷲掴みにする。余りの速さに全く対応出来なかったリンは呻き声すら上げられずに劉毅の太い腕を掴んでもがく事しか出来ない。
「ほらほら、『後で』って言ってんだから、話は後にしな」
林玉賦が言うがその顔は実に楽しそうだ。腕を組んだまま薄笑いを浮かべて二人を眺めている。
不意に劉毅がリンの首を掴んだその腕を勢い良く伸ばすとリンはそのまま首に掌打を喰らって後方に転がり、首を押さえて喘いだ。
「ほら、立てるかい? さっさと行きな」
林玉賦が言うと見張りの者がリンに手を伸ばすがリンはそれを払い除け、ゆっくり立ち上がると劉毅をひと睨みしてから張新の許へと向かった。
「あんたの姿が見えたからもう終わったと思ったんだけどねえ。知ってる奴だったのかい?」
リンの姿が見えなくなり、林玉賦が壁にもたれていた体を起こして劉毅の前に立つと、劉毅は苛立ちを隠せないその顔を林玉賦から逸らし、黙ったままでいる。
「それで? 『香主』って誰なのさ」
「香主? 知らん。何処のだ」
「でもあんた――、分かったんだろ? あいつを遣した奴が居るって事をさ」
よりによってこいつに聞かれるとは、と劉毅は閉口する。何も無い床のただ一点だけを見つめながら何をどう言おうか、または言わずにおくかを思案していた。
(秘密にする程の事は無い……筈だ、今は。知っているだけで特に関係は無いと言えばそれまでの事――。だがあれがあの小僧を送り込んできたという事は必ずこの先更に北辰内部に食い込もうと企んでいるに違いない。張新では心許無いと判断したか? 面倒な事になるのは目に見えている。それにしてもあんな小僧一人に何をさせようというのだ? どうやら俺達と並ぶ程の腕は無さそうだが……。七星に入れさせて――いや、待て。本当にあの女の考えか? もしや……、殷汪と接触したのではあるまいな?)
劉毅は顔を上げ林玉賦を見る。だが開きかけた口を再び閉ざしてしまう。
(こいつが知ったら……何をする? わからん。あっちも謎だが、こっちも不可解さにかけては全く引けをとらん。しかも殷汪の影がちらつきでもしたなら更に始末が悪い)
「何だい? 随分考え込んでるじゃないか。あんたは……退屈する事が無さそうで羨ましいねぇ」
林玉賦は呟く様に言うと部屋の外に眼を向ける。その声色がどこか物悲しげな感じがしたのは気のせいでは無い。あまり見る事の無い林玉賦の横顔だった。
ともあれ話が逸れるのは劉毅には大歓迎だ。改めて椅子に座り直した劉毅は落ち着いた低い声で林玉賦に話し掛けた。
「そろそろ、此処に居るのが辛くなってるんじゃないのか? 今の七星は殆ど存在価値が無い。教主の為に体を張る事など、この先もう無いかも知れんしな」
「フッ。もし仮に総監があの小僧を七星に入れたら、めでたく七人揃ったとか言って何かやらされるかも知れないね。どうせそれもくだらない事だろうけれどねぇ」
「それは無いだろう。七星をどうするか決められるのは教主だけだ。恐らく教主は今更もう一人加えるなど考えもすまい。万が一張新があれを入れるとか言い出したとしてもまだ今なら九長老で止められる。今は、な」
「鐘が言ってたけど、尭長老が総監に何か言いに行ったらしいねぇ。聞いてるかい?」
「いや? どういうことだ?」
劉毅は即座に聞き返した。方崖の事なら大抵の事はその日の内に耳に入れる事の出来る劉毅だったがこれは初耳だ。ごく最近の事であるのは間違いない筈である。
「恐らく婉漣の事さ。総監は足枷を嵌めたがってる。あの小僧を使うのも手だよねぇ。最初はすぐ追い返したのに婉漣が戻ったもんだから腕試しをさせて、婉漣が負けるような事があれば七星としての今の地位に難癖つける事も出来る。まぁあれが婉漣に勝つなんてあり得ないけどね。もし万が一にもそうなれば総監には儲けものだよ。逆ならあの小僧は今度こそこの街からつまみ出せば良い。とにかく使えそうなものは皆使って総監はどうにかして婉漣の立場を悪くさせたいだろうさ。だから尭長老が釘を刺した――。尭長老はああ見えて今でもこの方崖の事をちゃんと把握してるんだねぇ。あたしは婉漣が仕合うのを久しぶりに見たかったよ。だからわざわざ此処に案内してやったのさ」
「無くはないな。先代と違って教主は中々信心深い様だ。毎日必ず拝宮に参るらしいからな。尭長老と教主の関係は良好、つまり長老衆筆頭の地位は依然揺るいではおらん。そして周を我が子の様に思っている。ハ、お前も中々想像を楽しんでいる様だな。最初はお前があの小僧を始末したがっていると聞いていたが?」
「もうそんな気は失せたよ。志願するのは好きにすりゃあ良い。でもあんな腕じゃあねぇ」
「周にはいい迷惑だな。仕合うも何も、恐らく見るものは無いぞ。周とあれではな。お前と違って瀕死にまでは追い込まんとは思うが」
ハッ、と林玉賦は短い笑い声を上げた。
「さて、ちょっと様子を窺ってくる。あんたは話したくない事だらけの様だけど、あの小僧は言いたくてたまらないみたいだしねぇ。あっちから聞くさ」
林玉賦はそう言って明らかに劉毅の反応を窺っている。劉毅は立ち上がり、
「まあ、良いさ。お前も知れば、きっと楽しめるだろう」
「へぇ、何を?」
「この景北港はくそつまらんが、江湖はまだまだ愉快で、不可解な事が山ほどあるという事だ。特に武林はな。終わったと思っていたのが実は始まりだった、とかな」
「なるほど。その山ほどある話を聞かせるのは億劫だ、って訳だね?」
「……そういう事にしといてくれ。それから言っておくが俺が何かやっている訳じゃない。やましい事は皆無だ」
それを聞いて林玉賦がニヤリと笑う。
「あんたがリンを始末する動機は昨日ので充分だねぇ。口が封じられないか心配だよ」
「……七星云々はともかく、張新が小僧を使う事にしたなら手は出せん」
「九宝寨の寨主様は意外と気を使うんだねぇ」
「全く使えない手下ばかり抱えているのだからな。早々に代わりを探さねば。喬高の……代わりを」
「手を貸した方が良かったかい?」
劉毅は暫く無言で林玉賦を見つめてから、
「お前に借りを作るのも出来る事なら避けたいところだ」
そう言い残して先に部屋を出て行った。