第十二章 二十八
方崖、紫微宮のある一室に通されたリンに出来るのはとにかく待つ事だけだった。林玉賦と鐘文維はどこかに行ってしまい、リン一人だけが残される。ただ、中は一人だがそのまま放置される筈も無く、部屋の入り口には数人の見張りらしき者が立っていた。
恐らく命じたのはあの林玉賦だろう。九宝寨屋敷で暴れ、居合わせた者を一人残らず殴り倒した事を知った上で人を用意したという事は、今居る見張りはかなり腕が立つという事になる、とリンは考えた。どの程度の者なのかという事にとても興味が湧いたが、此処へ来てちょっかいを出してまた騒動を起こす訳にもいかず、ひたすら暇に耐え続けた。
この方崖が一日どの様に動くのかリンには分からないが、とにかく辺りが静まり返っているのはまだこの方崖は目覚めていないという事なのだろう。
(もう陽は昇ったってのにいつまで寝てやがる。惰眠を貪りやがって。働けよ)
前に会った張新のあの偉そうな態度と表情を思い出し、リンは口を曲げてしかめっ面をする。誰も見ていないのだから何の遠慮も要らなかった。しかし他にする事もないリンは徐々に眠気を感じ始め、そのままそっと眼を閉じる。昨晩はまともに寝ていない。程無くリンは座り心地の宜しくない硬い椅子の上で寝息をたて始めた。
昨日の九宝寨屋敷での喧嘩はリンにとって拍子抜けする程の生ぬるいものだったが、全く疲れていない訳では無い。それに加えて睡眠不足でずっと体のだるさを感じる。しかし此処での仮眠も全てを回復させてくれる程は取ることが出来なかった。幾らかは眠れた筈だが不意に部屋の外から聞こえた人の声がリンを起こした。
両腕を伸ばつつ大きな欠伸をしながら見遣った部屋の扉がいきなり大きな音を立て、弾け飛ぶのではないかと思われる程、激しく開く。
「ふあっ!」
リンは間の抜けたおかしな声を洩らしながら慌てて椅子から立ち上がり身構える。入り口には仁王立ちでリンを睨みつける男――。リンは大層驚いた様子で眼を大きく見開いた。
「あっ! えー……、劉……さん?」
「昨日は失礼した。所用で出掛けていたのでな。わざわざうちへ寄ってもらったというのに申し訳ない」
険しいままの表情を全く変えず、そう言って冷やかな眼差しを向けてくるその男は、九宝寨寨主劉毅である。
「あー! くそっ! 騙されたぁ! あの女ぁ……」
リンは大声でそんな事を言いながら跳ね上がった胸の鼓動を抑えるつもりなのか知らないが部屋の中を歩き回り始める。科白も変にわざとらしい。そんなリンを劉毅は黙って眼で追っている。
「あの林を簡単に信用するとは、愚かとしか言いようが無いな」
劉毅が前へ一歩踏み出し部屋の中へと進もうとすると同時に、リンは慌てて腰を折って両手を劉毅に向かって突き出した。だがそれは攻撃の一手などではない。
「ちょっと待ってくれ! 昨日あんたの屋敷に行ったのは、その、勘違い、勘違いだったんだよ!」
「ほう? 何をどう違えたと言うんだ? 違う屋敷を襲撃するつもりだったとでも言うのか?」
「襲撃って……大袈裟な」
「うちには昨日五十一名、俺の部下が居た。この辺りでそれだけの人数が一所に集まっている場所はそう多くは無いな。違いに気付かずうちの者全てを相手にしたお前は、うちと似た様な場所へ行く事が目的だったという事になるな。何れにせよ、この街の何処かを襲うという事は、北辰教に仇名す事に他ならない」
劉毅は意外にも冷静に喋っているが、それがまたリンには不気味に感じられる。九宝寨屋敷で見たその配下のあまりの弱さに劉毅の腕をも疑いかかっていたリンだったが、実際にその姿を間近で見るとその気配の尋常ではない様が感じ取れる。その鋭い眼光に捉えられると何処までも強気であった筈のリンもさすがに焦りと不安を覚えずにはいられなくなっていた。
「襲うって俺一人なんだぜ? 幾ら、何でも――」
「お前……」
急に劉毅の発する声が僅かだが変化した。
「え?」
「お前は……何処かで会ったな?」
「は?」
「俺を一目見て劉だと分かったようだが、俺を知っていた訳か」
「いや、あんたは有名じゃないか。名前くらいは俺も――」
「しらばくれるな。顔を見て分かったのだろう? お前は俺を見た事が以前にもあった筈だ。そして俺もお前を……何処かで……」
劉毅は眉間に皺を寄せリンの顔を一層凝視する。会った記憶の無いリンは困惑するばかりである。
「いや本当に無いって」
暫くの沈黙。そしてその後、
「――なるほど。フ、思い出した。はっきりとな」
(何をだよ。そっちこそ思い切り勘違いしてんじゃねーか。あんたなんか知らねえよ)
劉毅は目の前の椅子を引くとリンの方に向け、そこに腰を下ろす。リンはというと部屋の隅で壁に背中をつけたままじっとしていた。
「九宝寨を片付けて来いとでも言われたか?」
「誰にだよ……」
「フン、で? 次は張新に会うのか。何を言うつもりだ?」
「もう何日も前に会った。今日はあの林って女に連れて来られただけだ」
「ほう、……張新に会い、そしてうちを襲ったと言うのか」
劉毅の顔が益々険しくなっていく。全身に殺気をみなぎらせ、今にも椅子から飛び上がらんばかりである。
「話を聞けよ! 何勝手に妄想して興奮してんだよおっさん!」
もはやこれ以上無いという程の火に油を注ぐ煽り文句である。リンは劉毅が襲い掛かってくるのを警戒して一層体を硬くしたが、劉毅は動かない。すると程無くして部屋の入り口に林玉賦が姿を現した。
「邪魔したかい?」
林玉賦は劉毅の背に向かって話し掛けている。
「続きが見たい気もするけど、総監がそいつを呼んでてねぇ」
「お前は、こいつを知ってるのか?」
劉毅はリンを見たまま、後ろの林玉賦に言う。
「いや、知らないよ」
「おいあんた嵌めやがったな! このおっさん呼んだのあんただろう! なんか怪しいとは思ってたんだよ、……本当はな!」
リンが林玉賦に向かって捲くし立てるが、林玉賦は笑って、
「フフ、お前が見つかって劉と遣り合うのも面白そうだけどねぇ、もっと面白い役があるんだよ。まあ無事に舞台に上がれるか怪しくなってきたけどね」
「林、何の話だ?」
ここで劉毅はリンから視線を外すと振り返って林玉賦を見る。林玉賦は腕を組み近くの壁に背をもたせ掛けた。
「こいつが例の、北辰七星になりたいって奴さ」
「何?」
林玉賦は口を曲げて笑いを堪える様な顔をしている。劉毅は驚いた様だがどこか困惑した表情で、改めてリンを見遣った。
「お前が……七星、だと?」