表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
流浪一天  作者: Lotus
第二章
2/256

第二章 一



 

 一


 林の中を疾駆する二人の男。二人とも剣を抜いて並んで走っている。二人の足音と時折聞こえる獣の声、風の音以外は聞こえない。

「見失ったな」

「もう戻った方がいいな。奴ももう諦めただろう」

 二人は声を掛け合うと足を止める。二人とも肌の色がやや浅黒く、南方の生まれのようだ。一人は背が高く体格もがっしりして、眉が濃く無精髭を生やしている。もう一人はやや細身で、整った顔立ち。どこかの御曹司と言っても違和感の無い瀟洒しょうしゃな身形である。二人ともまだ若い。まだ二十には届かないだろう。

「本隊は無事だろうなあ?」

さん達がもう一方を追って行ったけど、残りは皆残っていた筈だ。問題ないよ」

「もう少しで長道観に到着だ。ああ腹減った。さっさと行って飯だ、飯」

 二人は剣を腰におさめると、今度は反対の方向へと同時に駆け出した。

 

「お前達、何処まで行っておった。追い払えればそれでよいと言っただろうが。皆待っておったのだぞ。行くぞ!」

 二人が街道まで戻ってくると、十数頭の馬が連なった荷駄隊が待機していた。二人を見つけたこの一行の責任者らしき男が号令をかけると荷駄の列が進みだした。二人はその後ろについて歩き出す。

 この二人、大きい方は范撞はんどう、細い方は楊迅ようじんといい今はこの荷駄隊の用心棒をしているが、まだ雇われたばかりの新米であった。先程怪しげな数人組がこちらの様子を窺っているのを、この荷駄隊の護衛の責任者である朱不尽しゅふじんが気付いて人を遣ると、案の定その者達が逃げ出したため、数人がそれを追う事になった。しかしいつまでも追って賊を仕留めるのが仕事ではない。あくまでも安全に速くこの荷駄を目的地に運ぶ事が優先である。長い道のりになれば金品を狙う盗賊が現れる事は当然で、さして珍しい事でもない。稀に大規模な集団に襲われる事もあり、その時は総力を挙げて命を張らねばならないが、殆どは金に困って荷駄の一部をくすねようとする小物だ。少し脅かせば戻っては来ない。今通っている街道は比較的大きく、似たような荷駄が多く行きかう。賊の方も一つ逃せばまた一つ新たに狙えば良い。楊迅らの主な仕事は、荷駄隊の頭数に加わる事だ。それを仕事と呼べるのかは怪しいが、ちゃんと効果はある。先程のように不審者を追うのは初めてで、つい夢中になって追いかけてしまい、必要以上に荷駄隊の足を止めてしまった。新米二人とはいえ、このような事があるたびにばらばらになっていては、長旅を無事に終えることが難しくなってくる。護衛の頭、朱不尽は荷駄の多い少ないに拘わらず徹底して統制を乱す事を嫌った。そしてその名声は広く知れ渡って、新たな仕事を呼ぶのだ。

「充分日が暮れるまでに着くな。でもまた歩きか。あーまた誰か来ねえかな」

「何言ってるんだ。腹が減ってるんだろ? 大人しくしてるに限るさ」

 范撞は少し前で馬に乗っている男に声をかける。

「なあ魯さん。どれくらい経ったら俺達も馬に乗れるんだ?」

 魯と呼ばれた男は振り返るとニヤリと笑う。

「そうだな、まあ十年もやれば乗れるんじゃないか?」

「十年だって? 何だよそれ。十年先にまだこの仕事してるなんて……考えるだけで恐ろしいぜ」

 大袈裟に身を震わせるような仕草をして、楊迅の方を見る。

「お前も十年先までやらないよなあ?」

「……そうだな、多分」

 その後は二人とも黙々と足を前に運び続けた。徐々に陽が傾き、自然に荷駄隊の足も僅かながら速くなってきた。

「もう少しだ。荷の引渡しまで気を抜いてはならん。よいな!」

「応!」

 朱不尽の声に一同が力強く応じる。もう目指す街が視界に入っていた。

 

 

 二

 

 雨季が迫り、徐々に黒い雲が空を覆う日が増えてきた。都より東南の方角に白珪山はくけいさんというこの国でも一、二を争う、美しさで知られる山がある。古来より人々の信仰を集め、今でも国中からこの山を見る為に多くの人が訪れる。しかし、この山を登ることは出来ない。昔から様々な説があり、噂話まで生んでいる。「山をすっぽりと包む妖気が人を惑わせて一度入れば二度と出られない」「遥か古代より神仙の住処であり、入る事を許さない」といったものだ。ただ、「登ってやる」と言って出て行ったものが誰も帰ってこないのは確かだった。

 都から南に向かう街道は、途中で白珪山の東南、つまり都から見て白珪山を越えた先にある緑恒りょくこうという街に向かい、更に東に延びている。実際には都と白珪山は遠くその頂も望む事はできない。白珪山は南側の裾野が長く延びていて、街道は更に南に大きく迂回して緑恒に入る。裾野の低い辺りを越える事ができれば都から緑恒への道はかなり短縮される筈だが、先の理由により大きく迂回した街道以外に道が作られていなかった。雨季に入ると白珪山の妖気は更に高まるとされており、この時期は近い街道を行く者も若干減るという。

 この妖しくも人を惹きつける山の南の街道沿いに、江湖にその名を馳せる幇会ほうかい緑恒千河幇りょくこうせんがほうがある。緑恒の街を本拠とし、その東南一帯で様々な商いを取りまとめる、元締めのようなものではあるが、傘下の細かな組織を強力に支配するようなものではなかった。偏に長くこの幇会を束ねる幇主、范凱はんがいの求心力が緑恒千河幇を一大勢力へと押し上げた。

 まだ正午を過ぎたばかりだが空には暗雲が垂れ込め、緑恒の街は薄暗い。街の中心部の一角に緑恒千河幇の本拠である屋敷があり、頻繁に人が出入りしている。その中に鏢局ひょうきょくの頭である朱不尽の姿があった。

「朱鏢頭が参られました」

「入ってくれ」

 朱不尽は部屋に入ったところで一礼してから奥へ進む。奥で幇主の范凱が待っていた。

「やあ朱さん。仕事の方は一段落かな?」

「おかげさまで全て順調でございます」

「今年に入って以降、かなり増えていると聞いたが、人手は足りておるかな?」

「依頼は増えておりますが、人を分けてやる程でもありませんし、規模もそれほど……。御子息にもお手伝いいただいておりますゆえ」

「朱さん、あれに遠慮はいらん。この儂にも遠慮はいらんのだ。どうせまだ何も出来まい。また生意気言うようなら張り倒してもいい。儂に似ておるのは頑丈な体だけだ」

「ハハ……」

朱不尽の荷駄隊に加わっていた范撞は、この范幇主の息子で、確かにその風貌はよく似ている。范幇主も色黒で大きく、両肩の筋肉が異様なまでに盛り上がっている。しかしその容姿からは想像もつかないほど冷静沈着で思慮深いとの評判だ。息子の方はといえば、放蕩息子と言うのがぴったりである。素直でもない。范幇主は息子を鍛え直す為に朱不尽に預けたのだった。育て直すと言った方がいいかもしれない。范撞には母親が居なかった。

 

「実は少々気に掛かることがございまして」

「ほう、何かな」

「それほど気にも留めていなかったのですが、どうも最近、我が鏢局への依頼に真武剣派しんぶけんはからのものが増えてきておるのです。まあ昔からある程度は請け負っておりましたが、ここのところ立て続けに依頼がありまして」

「ふむ、どのようなものかな?」

「それが、中にはわざわざ我等に依頼せずとも……と思うような物も結構あるのです。で、実は新たな依頼がきておるのですが、たった今その目録を寄越してきました。ご覧下さい」

「どれ」

 朱不尽は懐から真武剣派からの依頼の品々を記した目録を取り出し范凱に手渡した。范凱は黙って一通り目を通したが、視線を目録に落としたまま考え込んでいる。

「どうやら何か祝い事でもあるようだな。これはどこへ?」

「それが……景北港けいほくこうでございます」

 范凱は顔を上げて眉間に皺を寄せながら朱不尽と視線を合わせた。

 

 

 三

 

「景北港? まさか……方崖ほうがいかね?」

「それが、そのまさかでして」

「……フフッ、真武剣派はよく働くな。朱さんに依頼したこの荷ひとつで、我が幇会と北辰ほくしんを揺さぶろうというところか。前から依頼が増えているというのは……フン、まあそうだろうな」

 范凱は殆ど独り言のように呟いていたが、その顔には不敵な笑みが浮かんでいた。真武剣派の思惑に思い当たるふしがあるようだ。

「どういうことでしょうか?」

「今はまだ具体的な狙いは読めんが……しかし、それよりまず……方崖に祝い事? 何も聞いておらんな……」

「私も知りませぬ。知り合いにも当たってみましたが、見当がつかぬと……」

「依頼してきた者は何も言ってませんでしたかな?」

「はい。ただ、方崖まで依頼したい荷がある、と言うだけで」

「ふむ。時期は?」

「七月上旬に着くようにとのことでございます」

「あまり間が無いな……こちらで調べさせよう。朱さんは通常通り、準備を進めてくれればいい」

「わかりました」

「それまでに遠出の予定はあるかね?」

「いえ、ありませぬ。方崖までの仕事が決まれば長旅となりますので、日程を調整せねばなりませぬゆえ今のところ近場の仕事しか受けておりません」

「わかった。こちらも取り急ぎ調べを進める」

「では、失礼いたします」

「朱さんはいつも方々に出掛けておるからな、近々酒席を設けよう」

「ありがとうございます。それでは」

 ずっと堅い表情だった朱不尽は最後だけ相好を崩して部屋を出て行った。

 

 朱不尽の鏢局もこの緑恒にある。范凱と朱不尽は古くからの付き合いであり、緑恒千河幇の中でも朱不尽とその鏢局は大きな存在であった。しかし数箇所に支店はあるがそれほど大所帯というわけではない。范凱の居る屋敷から西に少し行ったところにある古めかしい屋敷がその総号である。朱不尽は鏢局の主であるが、自ら「鏢頭」と名乗り、率先して現場に出ていた。

 門を入ると魯鏢頭、かい鏢頭の二人が警護の番に就いていた。

「朱鏢頭、おかえりなさい。何か判りましたか?」

「いや、幇主もご存じなかった。幇会で調べてもらうことになったが、我等はいつも通り働くだけだ」

「しかし、何でしょうねぇ? 教主が御結婚とか? それならとっくに知れ渡るはず……アッ、妹君かな?」

 魯鏢頭がそう言うと解鏢頭はすかさず突っ込む。

「どういう事情なら妹君の御結婚が秘されることになるんだ? 人に言えん結婚をするのか?」

「わからんぞあの妹君は変わっておるらしいではないか」

 朱不尽は笑いながら、

「勝手な想像でいらんことを言い触らしてくれるなよ」

 と言って中に入っていった。

「へい」

 魯鏢頭と解鏢頭の二人は朱不尽を見送って、またおしゃべりを始める。今度は解鏢頭から口を開いた。

「……逆は無いか? 何か不幸が起きて、真武剣が嫌がらせにわざと祝いの品を送るとか」

「そのような事をすれば嫌がらせでは済まんだろうが。ただでさえ争いの火種が常に燻っておるというのに、それでは爆発してしまうわ」

「まあそうだな」

「とにかく真相が何にせよ、真武剣から北辰教への荷、絶対何か起こるぞ。そして我が幇も無関係では居られんということだ」

 にわかに雨が降り始めている。二人とも空を見上げると、何か災いでも落ちてきそうな黒雲を不安げに眺めた。

 

 

 四

 

 雨が降り出し暗くなってきている中を、楊迅は少し歩を早めて鏢局を出て行く。

「雨は強くなる一方だぞ。遅くならんようにな」

 門の所に居る魯鏢頭が声をかけると楊迅は頷いて出て行った。出て少し行った所で後ろから人が走ってくる音がする。

「おーい、あの爺さんの所に行くのか? 雨が降り出したってのに熱心だな」

 走ってきたのは范撞だ。追いつくと隣に並んで歩いた。

「お前も行くのか?」

「まあ暇だしな。付き合ってやるよ」

 楊迅はただ笑みを浮かべただけで黙って先を急いだ。緑恒の大通りからそれて民家も疎らな街外れまでやってくると、正面には白珪山がそびえているのが見えるが今は雨でかすんでいた。真っ直ぐ一軒の民家に向かう。そこは元は割と大きな屋敷であったようだが、今では家を囲む塀も所々崩れて中が見える状態になっていた。

「お、爺さんだ」

 范撞は楊迅に声をかける。楊迅はサッと范撞の前に腕を伸ばして、目はじっと塀の向こうに見える人物を見つめていた。

「雨ん中何やってんだろうな?」

「すまん。ちょっと黙っててくれないか」

 楊迅が真っ直ぐ前を向いたままそう言うと、范撞は首をすくめて黙って中を覗いた。崩れた塀の隙間から見えるのは一人の男。中背で特徴らしい特徴も無い、老人と言うにはまだ早いかもしれないといった年恰好の人物だ。そしてこの雨の中、濡れながらじっと立って動かない。ただ、僅かに腰を落とした感じで、身構えているようにも見える。楊迅と范撞は丁度真横から見ている。

 彼の視線の先には何も見当たらない。見えない何かを凝視し、腕は出すのか出さないのかはっきりしない位置で止まったままだ。まるで呼吸までもが止まっているかのように全く動かない。それを見ている楊迅らも次第に体に力が入り、徐々に前のめりになってゆく。暫くその状態が続いたが突然、中の人物は「フーッ」と大きく息を吐くと真っ直ぐ立って雨の落ちてくる天を仰いだ。

「おお……おいおい何だったんだよ!」

 范撞は前へ体を傾けすぎて倒れそうになったのを辛うじて堪えると思わず大きな声を出した。

「おぬしらそんな所で何をしておるのだ? 濡れておるではないか。さっさと入れ」

「……爺さんの方が濡れてんだろうが。おい、行こうぜ」

 范撞が小走りに塀の中に入って行き、楊迅もそれに続いた。

 少し大きな小屋のような建物の中は、人が住んでいるとは思えない程何も無く、広めの板の間以外は小さな竈のある土間がくっついているだけだ。老人は隅の方で濡れた衣服を着替えている。

「久しぶりだのう」

 老人が声をかけると楊迅は腰を折り、

「申し訳ありません。鏢局の仕事に出ておりましたので」

「働かねば食っていけんわな」

「爺さんは食えてるじゃねえか。働いているようには見えねえがな」

 范撞の物言いにはこの老人への敬意のかけらも見られない。だが老人の方も全く気にしていないようで、楊迅も諦めているのか咎めるような事は言わなかった。

「裏に畑がある。儂一人食うには何も困らん」

 老人は着替え終わると何も無い広間の丁度真ん中に腰を下ろした。

「どうじゃ? 鏢局の仕事は」

「まだ仕事らしい仕事は何も……」

「ただ延々と歩くだけさ。もう飽きそうだ」

「それで飯が食えるのだろう? 結構なことではないか」

「仕事には遣り甲斐が要るだろ?」

「フン、一丁前の口を利くのう。どの道を行くにしても、行って見ないことには何があるか判らんものだ。先に在るものは行ったものによってそれぞれ違うのだ」

「まあ取りあえず暫くはやるさ」

 老人は楊迅のほうへ視線を移す。楊迅は范撞が話している間に広間の壁際に移動し、その場に端座すると呼吸を整えて瞑想を始めていた。いつもここへ来るとまずはこの瞑想を始める。范撞もチラッとそちらを見てからまた老人に視線を戻した。楊迅が暫くそのままでいることをわかっているからだ。

 

 

 五

 

「さっきは何やってたんだ? 雨ん中……なんか修行か? 気失ってたんじゃないだろうなあ、ハハッ」

 范撞は自分で言った事が面白かったらしく、そう言って笑う。老人は何も言わずにニヤッとしただけだった。

「なあ爺さん、あんたは何で今も武芸の鍛錬やってんだ? あんた、もう相当強いだろ? 何で続けられるのか俺にはわからねえ」

「ふむ、何でだろうな」

「そうだ、爺さん。あんた今の武林ぶりんで自分の実力ってどれ位だと思う? もっと強い奴って居るか?」

「勿論居るに決まっておるわ。きっと数え切れんほど居る」

「嘘だな」

 范撞は急に真顔になって老人の言葉を即座に否定した。

「あんたより強い人間は……かなり少ない筈だ」

「ほう……お前の親父殿あたりは強そうだが」

「親父の武芸は知らん。殆ど見たことも無い。ただの筋肉の塊だろ?」

「全く……お前は勿体無い事をしておるわ。范幇主の武芸がどれほど凄まじいかわかっておらんとは。近すぎてよう見えなんだか」

「馬鹿力なのは知ってる。俺をぶん殴る拳が異常に硬いのもな」

「ハハ、范幇主の拳に恐れをなして逃げ出す奴はとても多いな。これは確かな事だ。そうだのう……わしと親父殿が遣り合えば、わしが負けるとは思わんな。しかし、勝てるとも言えん」

「何だそれ。多分爺さんの方が強いな」

「親父殿の武芸を知らんくせにいい加減な事を言うな」

「で、他はどうだ? もっと強そうな奴は誰だ?」

「……何故そのような事を聞く?」

「いや、何となくだけどな。爺さん、いつかぶっ倒したい奴でも居るんじゃないかってな。それなら、今でもずぶ濡れになってまで夢中になるのがわかる気がしたんだ」

「フフッ、お前も何か夢中になるものを見つけたくなったか?」

「ハッ、そんなんじゃねえ。俺はそんな事考えねえよ」

 范撞は少しムキになって否定した。老人は少し考えるように間を空けてから、口を開いた。

「……いつかまた遣り合ってみたい人間が三人居る」

「え、三人?」

「三人だ。しかしその内の一人とやることは適わぬ……故人だ」

「死んだ奴まで数えて何になるんだ?そんな凄い奴だったのか?誰だよ。そんな強いんなら俺達も知ってんだろ?」

「亡くなったのはお前達が生まれた頃だ。それに、その人は自らの武芸を江湖こうこに売り出す事は無かった。……今となっては知る者はほんの僅かだろうな」

「ふーん、で、生きてる奴は誰なんだ?」

 老人は范撞の顔を見ながら薄く笑い、何も言わなかった。楊迅の方へ再び目を遣る。

「気が散ってしまったようだな」

 楊迅は目を開けて立ち上がり、老人の前まで来ると再び腰を下ろす。

「済みません……お話が気になってしまって……」

「なあ、お前も聞きたいだろ?爺さんの的が誰なのか」

「……」

「ほんの少しだけ教えよう。三人とは、一人はわしにその武芸を授けて下さった師匠。一人は兄弟子で、一人は弟弟子だ」

「何だよ、身内争いかよ」

「范撞!」

 楊迅は堪りかねて声を荒げた。老人は「構わない」といったように手を振って続ける。

「確かにそう聞こえるわな。まあ、我等の関係は世間で言う師弟兄弟とは少し違って変わっておるがのう」

「で? 見通しはどうなんだ? 死んじまったのは師匠か? 兄弟弟子の方はぶっ倒せそうなのか?」

 范撞のその言葉を聞くと老人は、先程外でやっていたような大きな溜息をついて首を僅かに左右に振った。

 

 

 六

 

 老人はそれ以上は話そうとはしなかった。

「この雨だ。あまり遅くなってはいかん。楊迅、やってみるか?」

「はい。お願いいたします」

 楊迅は立ち上がると後ろを向き、少し背筋を伸ばすと腰に差していた長剣を抜く。しばらくそのままで目を閉じている。その間に范撞は広間の端に寄って壁にもたれかかり、老人は僅かな荷物と一緒に置いてあった長剣を持って戻って来た。楊迅は老人の方へ向き直り一礼するとすぐに剣を構えた。

「忘れてはおらんか? もう一度見るか?」

「いえ、結構です」

「そうか。では始めよう」

 老人は言い終わると同時にスッと剣の先を楊迅に向ける。だが構えているという感じではない。不意に真っ直ぐに楊迅に向かい刺突を送ると、楊迅は受けずに半身になり同時に剣を体の後方から切っ先を老人へ向けた。そこから双方、全く止まる事無く瞬く間に十数合余り剣を交える。楊迅は真剣そのものだが、老人は余裕綽々、平然と決まった型を繰り出している。そこまでぼんやりと眺めていた范撞は壁から離れ、組んでいた腕を膝につけて二人の剣を凝視している。老人は僅かにニヤリと笑うと三手一気に繰り出した。楊迅はそこで「ハッ」と初めて気を吐くと、ある一点めがけて大きく剣を突き出す。すると老人は自らの剣を楊迅の剣に重ねるように前に出し、剣をらせん状に回転させてそのまま楊迅の手首を狙った。楊迅は予想していなかったのか、急に焦って思わず大きく後方に飛び退いてしまった。

「おいおい待てよ爺さん!」

 范撞が大声を上げて二人の間に割って入ったところで老人は剣を下ろし、楊迅もまた一礼して剣を腰に戻した。

「今のは卑怯だろうが」

「卑怯?」

「最後のくねくねしたやつだよ。あんなの今まで一回も見せなかったじゃねえか! 爺さんの方はいくらでも手があるんだからいつまで経っても先に進めねえだろうが」

 今まで老人は楊迅に一通りの型を何度も見せて、破る一手を考えるようにと言っていた。楊迅が先程見せたぎこちない突きはずっと考え続けてようやく辿り着いた答えであったが、それを老人は今まで見せなかった手でそれを退けたのだ。

「今先に進んだではないか」

「へ?」

「楊迅は先に進んだから、わしの手も先に進んだのだ。一手だけだがな」

「……何だよそれ……でも結局さっきの楊迅の突きは役に立たねえって事だろ?防がれたんだから」

「防がれても良い。反撃されても良い。わしは最強の剣を見せろと言ってはおらん。ただ考えろと言っておる」

「……でもなあ……これ死ぬまでに習得できるのか? 爺さんの剣が。一手って……」

 老人は長剣を元あった場所に持って行き、無造作に置いた。

「もっと色々考えて試すがいい。ここでな。他所で試せば、ハハ、自分が危ういからのう。さっきのは屁っ放り腰だったが、次は大丈夫だな。さて、もう行け。もう随分暗くなった。雨も当分止むまい」

「先生、ありがとうございました」

 楊迅が一礼してから范撞の方を向いて頷くと、范撞も「また来るわ」と老人に声をかけ、二人とも老人の家を出た。

「おい、あれで納得できるのか? なんかひっかかるなあ」

「武芸の修練はそういうものだろう? だから皆何十年と修行するんじゃないか」

「……だから嫌いなんだよ。何と言うかこう……気が遠くならねえか?」

「ならないね。もうさっきの先生の最後の手の次を考えるのに頭が一杯さ」

「フン、武林は変人ばかりだな」

 范撞も幇会の者に武芸の手解きは一通り受けてきた。しかしある程度はそつなくこなし、大部分は遊んでいる。興味はあるのだがやはりやる気が続かない。雨の中わざわざここまでやってくる楊迅も、変人の一人に数えられていた。

 来た時よりも更に雨が強まっている。二人は顔を見合わせてから意を決して雨の中に飛び出していった。

 

 

 七

 

 范凱は朱不尽の話を聞いてすぐに早馬を景北港へと向かわせたが、やはり方崖の祝い事について何も掴めていなかった。緑恒千河幇は太乙北辰教たいいつほくしんきょうとは長年付き合いがあり、世間的には北辰の一派と思われている。范凱は完全な独立した幇会としてその運営には気を使っているが、関係が良好であるに越したことは無い。調べに走らせた者を間者の如く方崖に潜り込ませる訳にもいかず、結局何も得られないままだった。

「どうやら、何も無いか、或いは北辰の中枢のみに秘されておるか、そのどちらかの様ですな」

 范凱は再び朱不尽を呼んで、真武剣派の荷について話していた。

「そうなると、この荷の意味が益々謎ですな」

「朱さん。この仕事、儂も同行しようと考えておるんだが……」

「えっ? 幇主がですか? 方崖まで?」

「おそらく朱さんの鏢局がこの真武剣の荷を持って行っただけでは、向こうの連中は色々と勘ぐるのではないか。儂も行って、どういうことなのか、我等の方から方崖で聞くという形にしたい。真武剣派には儂も同行することは秘しておく。まあ神経質になる必要も無いが、こちらから言う事はないな。どうだろう?」

「なるほど。確かに方崖で我等が真武剣の使いであると思われることはあまり良くありませんな。幇主のお考えなら我々、口を挟むことなど何もありません」

「では、そうしよう。朱さん、この旅は儂も用心棒として働かせてもらうよ。朱さんの指示通り何でもするから言って下さい」

「ハハ……そんな」

「いや、実は昔を思い出して今から楽しみなんだよ。まあ昔の様に派手に立ち回るような事があってはならんのだがね」

そう笑いながら続ける。

「荷はこちらが取りに行くんでしたな」

「はい。武慶ぶけい芙蓉荘ふようそうに参る事になっております」

「それもまたわからんところだ……近くまで来いというのではなくて家の中に入れるとは……。我が幇を真武剣に引き寄せる、ということか……」

「儂は緑恒に戻って来た後に合流しよう」

「わかりました」

 武慶は都から南へ下り、緑恒方面と南へとの街道の分岐点から数百里南下した所にある「真武剣派の街」である。この武慶は役人よりも真武剣派の門弟の方が偉いと言われ、普段なら他の門派、幇会の人間は近づきたがらない位である。芙蓉荘は武慶の街に多くある真武剣派の屋敷の一つだ。

 

「おい二人とも、もたもたするな」

「へいへいわかってますよ。今行くって……」

「なんだ? その口の利き方は」

 魯鏢頭は馬の上から軽く鞭を振るう。

「うわっ危ねえな。ほれ、もう準備は出来たぜ。さっさと行こう、真武剣のねぐらによ」

 范撞は武慶の街に行くのは初めてだった。緑恒からはそれほど遠いということも無いが、武慶に近づく事を范凱が許さなかった。行けば必ず何か問題を起こすに違いないからだ。朱不尽の部下として大人しく従っているようにとしつこく范凱に念を押されていた。

「お前は行った事あるんだったな?」

 魯鏢頭が楊迅に訊く。

「はい。留まった訳ではありませんが、武慶を通らねばここまで来られませんので」

「では、出るぞ!」

 鏢局の門の方から朱不尽の号令が聞こえてきた。まだ何も無い空の荷駄隊は一路、武慶に向かい出発した。

 

 武慶までは十日程の行程だが、その間晴れた日は一日も無かった。例年なら雨季もそろそろ終わるはずだが今年はまだまだ愚図ついている。武慶に着くまでの間、范撞を除いて皆一様に口数が減っていた。

 

 

 八

 

 いよいよ武慶に入るという日、空はようやく久しぶりに青く晴れ渡った。武慶の北門までやって来た一行はそこで小休止し、朱不尽は五人居る鏢頭を集めて何やら打ち合わせをしている。この武慶辺りから南は少し気候も変わり、南国の植物もちらほら見受けられる。しかしこの街は大きな街道が真っ直ぐ金陽きんようの都まで繋がっており多くの人間が行き来する為に、街を行き交う人々の顔つきも衣装も都で見るそれと殆ど違いは無かった。向かう場所は芙蓉荘だが芙蓉の花を愛でるにはまだ時期が早い。やはり目に付くのは南国を思わせる真っ赤な仏桑花だ。おそらくこの武慶辺りが自生する北限と思われる。街の造りや建物の様式等は殆ど都の物で、鮮やかな赤のその花との組み合わせは、初めて目にする者にはどこか新鮮に映った。

 

「はーでかい街だなあ、少なくとも緑恒よりは退屈しねえだろうな」

 范撞は街に入って辺りをサッと見回すと、そう言いながら歩き出す。

「おい、一人で行くなよ、隊から離れるなって言われただろう」

「子供じゃあるまいし、一々細かいんだよな」

「遊びじゃなくて仕事なんだから、色々段取りがあるだろう? ここは言わば敵地みたいなもんじゃないか」

「俺等は「来て下さい」って言われて来たんだぜ? 出迎え寄越したっていいくらいだ」

 そう言いながらも范撞は門まで戻って来ると、空の荷車にもたれかかった。

「よし、それでは街に入るぞ。皆持ち場を離れるなよ」

 朱不尽が言うと集まっていた鏢頭達がそれぞれ定位置に戻り、程なくして隊は前進を始めた。

 武慶の中央を貫く大通りは賑やかで都と比べても遜色は無い。朱不尽の一隊が通っても特に人目を集める事は無かった。暫く行くと先頭の方で朱不尽が馬を降り、人と話をしている。どうやらそこが芙蓉荘らしい。先頭が屋敷に入り始め、朱不尽は再び馬に乗って最後尾の范撞と楊迅の後ろに回った。

「朱さん、あそこがそうなのか? でかい屋敷だな」

「そうだ。大人しくしてるんだぞ」

「全く……わかってるって」

 門には警備の者だろうか、両脇に一人ずつ立っている。真武剣派の門弟であろう。范撞は遠慮せずに二人の姿と腰の得物を眺めてから門をくぐった。

 朱不尽は庭の中ほどまで入ってからここで待機するように一同に指示し、この屋敷の者に案内されて奥へ入って行く。結構な広さで部屋が多く、何度も来なければどこがどうなっているのか覚えられそうも無い。

「こちらでございます」

 部屋の前でそう言われて、朱不尽は中に向かって一礼して入った。

「朱不尽殿、この度は我等の願いをお聞き届けいただき、真武剣派を代表してお礼申し上げる」

 いきなりの大仰な挨拶に朱不尽は少々面食らった。

「いえ、我が鏢局をお引き立て下さり、こちらこそ恐縮致しております」

 出迎えた男は白千風はくせんふうと名乗った。細身で細長い口髭が綺麗に整えられている。纏うほうは上質の絹。真武剣派の高弟らしい風貌だ。

(白千風……確か総帥の五番目の弟子だな……)

「少しお早いお着きでしたな。六月に入ってからお越しになるかと思っておりました。お預けする品の準備はできておりますが」

「景北港まで長旅となりますので万全を期したいと考えております」

「我等は素人ですからな。全て朱不尽殿にお任せ致しますが……」

 その時、部屋の外がにわかに騒がしくなった。部屋の入り口に先程朱不尽を案内してきた者が慌てたようにやって来て白千風に伝える。

「失礼致します。総帥が参られました」

「何? 師父が?」

 白千風が勢いよく立ち上がる。朱不尽も急いで立ち上がると部屋の隅に寄り、入り口の方へ体を向ける。

(総帥だと? たまたま来たのか……まさか荷の引渡しの立会いにわざわざ来たとでもいうのか……?)

 朱不尽は真武剣派総帥に会ったことは一度も無い。思わぬ状況に胸の鼓動が高鳴った。

 

 

 九

 

 杖を持ち、少し古びた黒の衣装を纏った小柄な老人と、その後に続いて一人の若い男が部屋に入ってくる。朱不尽は今までに経験した事の無い様な緊張感をその身に感じていた。白千風が老人の前に進み出て一礼してから脇へ身を寄せる。朱不尽が抱拳ほうけんし口を開くより先に老人が声をかけた。

「真武剣派の陸皓りくこうと申す。緑恒千河幇、朱不尽殿じゃな? ようやくお会いする事が出来たのう。朱不尽殿の名は永く江湖に轟いておると言うに、わしがこの武慶に引き篭もっておる故、お目にかかる事ができなんだ。至極光栄じゃ」

「わ、私こそ思いがけず総帥にお目通りが叶い、恐悦至極にございます」

 范撞がこの朱不尽の様子を見ていたならきっと笑い出すに違いない。普段から冷静で少々の事で動じたりしない朱不尽だが、やはり思いがけぬ総帥の登場は少々の事どころでは無く、声がうわずった。白千風が用意した椅子に陸皓が腰を下ろす。持っている杖は、歩くのに必要な訳では無さそうだ。足取りもしっかりしている。しかしまだ武芸ができるのかどうかは判らなかった。一緒に入ってきた若い男はすぐ後ろに立っている。

「范凱幇主はお変わり無いかな?」

「はい」

「幇主の手腕、見事なものじゃのう。范凱殿は緑恒から東南一帯に磐石な勢力を築かれた。しかも力に頼まず、信と義に拠ってじゃ。朱不尽殿のような好漢が陸続と集うのも頷けるのう。羨ましいかぎりじゃ」

「は……」

「朱不尽殿。これまで我が派と千河幇は地理的にも近く在りながらあまり交流も無かったが、これからは是非懇意にしたいのう。協力し合える事もきっと少なくないと思うのじゃ」

「……必ずや范幇主にお伝え致します」

 朱不尽はそう言うしかなかった。これは他愛の無い世間話では無く、自分如きが軽々に答えられるものではない。非常に機嫌の良さそうな笑みを浮かべているこの老総帥の言葉にどういう意味があるのか、裏はあるのか、或いは何も無いのか……頭の中に様々な考えが巡るが、どうしてもその眼を真っ直ぐに捉える事ができなかった。

「荷の用意は出来ておるのじゃな?」

 陸皓は話を変え、白千風に訊ねた。

「はい。いつでも車に積み込めます」

「明日発たれるのかな?」

「その予定でございます」

「千風、今夜休んでいただく部屋は準備してあろうな?」

「全て用意させてあります。明日の朝までは荷はこちらで保管し、早朝に積み込みます」

「そうじゃな」

「あの……我等鏢局の者はどこでも寝られます。寝所までお世話になる訳には……」

「景北港まで、長い旅じゃ。ゆっくり休みなされ。荷の積み方も指示してもらえれば、早朝ここの者にやらせる。よいな」

 陸皓は言葉の最後で後ろを振り返り、立っていた若い男を見ると、

「かしこまりました」

 と、男が初めて声を発した。

「朱不尽殿にお任せしておけば安心じゃ。鏢局はこの国に多くあるが、朱不尽殿に勝る名は聞いた事が無いからのう」

 陸皓がそう言うと、若い男は薄ら笑いを浮かべる。

「左様でございます。しかし太師父たいしふ様、それ以上申されてはかえって朱不尽殿に負担になりましょう」

 太師父と呼ぶ割にはやけに気安い物言いだ。

「お預けする荷はどれも高価な物ばかり。慎重に行って貰わねば……」

 若い男がそう言うと陸皓は立ち上がり、持っていた杖で男の胸を二度こつこつと叩く。

「お前は、何様だ?」

「え……?」

ひざまづけ!」

「は?」

 突然、陸皓は持っていた杖で男の腹を突き、男は「ウッ」と短く呻き床に膝を突いた。

「朱不尽殿に向かってその態度は何じゃ! お前は何も知らぬ小僧の癖に江湖の御先輩を愚弄するか!」

「は……も、申し訳ございません!」

 男は床にひれ伏して詫びているが、朱不尽は呆気にとられていた。

 

 

 十

 

(……何だこれは……芝居か?)

 何か変だ。男が自分に向かって生意気な口を聞き、陸皓がそれを叱った。ごく普通の事なのだが、なぜか朱不尽は不安を覚えた。陸皓は床に平伏している男を冷やかに見下ろしている。すると男は床を這って朱不尽の前までやって来ると、

「朱不尽様! どうかお許しを!」

 そう叫んで頭を床に擦り付けている。

「いや……あの、お立ち下され」

(何だこの小僧は……下手な芝居をしおって。真武剣、何をする気だ?)

 朱不尽は益々不安に駆られていく。顔に出さないようにするのが精一杯だ。

庭閑ていかん! 出てゆくのじゃ!」

 陸皓は杖を突き出し、男に命じる。

「も、申し訳ございませんでした……」

 男は、今度は弱々しくそう言うと立ち上がり部屋を出て行こうとする。

「待て!」

 今しがた出て行けと言っておきながら今度は呼び止める陸皓。朱不尽は内心苛立った。

(何でもいいから早くこの小芝居を止めてくれ。俺を解放しろ!)

「朱不尽殿」

 陸皓に急に名を呼ばれた朱不尽は僅かに体を強張らせてしまった。

「これは田庭閑でんていかんと申す。全く恥ずかしい限りじゃが、我が派の不肖の弟子でのう。御無礼お許し願いたい」

「いや、田殿の仰る通り貴派の大切な品々、命に代えても無事にお届け致します」

「庭閑、お前は明日より武慶を離れ、暫く戻ってはならん」

「え?」

「お前は朱不尽殿の供をせよ」

「……は」

 朱不尽は焦った。

(勝手に決めるな!)

「そ、総帥、それは……」

「朱不尽殿、これはこの武慶で遊んでばかりで江湖を生きる厳しさなど全く判っておらん。朱不尽殿の稼業がいかに大変なものかを知っておらぬ故、あのような生意気な口を利くのじゃ。今回は我が派の荷をお預けする訳じゃが、こやつに荷を担がせてやってくれぬかのう?好きなように使って貰えば良い。ただの人夫じゃ。庭閑、異存はあるまいな?荷を届けるまで武慶に戻る事は許さぬ」

「……」

「よいな!」

「……はい」

 朱不尽は考え込んでしまった。

(最初から目付けを同行させる腹か。しかし何故だ? 我等が荷を盗むとでも……いや、そんな事では無いな。我が幇の何かを調べる……我等に同行して何がわかると言うのだ? 景北港に着いてから何かする……わからん。全くわからんではないか!)

「朱不尽殿?」

「あ、いえ、……承知致しました」

「それではそろそろ儂は失礼せねばならぬ。朱不尽殿、戻られたら是非一献差し上げたいのう。今から楽しみじゃ。お待ちしておりますぞ」

 陸皓は再び上機嫌そうな笑顔を見せ、

「それでは任せたぞ。失礼の無いようにのう」

そう白千風に言うと一人で部屋を出て行った。

 

「急に、申し訳ありませんでしたな。我が師父は気さくなお人なのだが、かえって我等目下の者は気を使って仕方が無い」

 白千風が笑いながら言う。

「ハハ……」

「それでは外でお待ちの方々にも休んでいただきましょう。部屋へご案内致す。庭閑、お前はすぐ戻って支度をするのだ。太師父様のご命令だからな」

「あのう……本当に私も景北港に?」

「そうだ。さっさと行け」

「……はい」

 田庭閑はうなだれて部屋を出て行こうとしたが、朱不尽が居る事を思い出したのか振り返って形だけの礼をすると、肩を落としたまま出て行った。

「では、こちらへ」

 朱不尽は白千風の後に続く。

(田とやらも気の毒だが、一体、どうしたものか……)

 この場からとりあえず開放されたが、益々頭が痛むばかりであった。

 

 

 十一

 

 早朝、陽が登り始める頃、朱不尽と鏢局の者は全て出立の準備を済ませ、ずっと待機している。予定ではもう武慶を発っているのだが、まだ人が揃わなかった。

「もう行ったらいいんじゃねえか?俺等は荷を運べばいいんだろ?人まで運べなんて依頼じゃなかったよな」

 范撞は時折、欠伸をしながら辺りをぶらついている。

「朱殿、申し訳ございませぬ。先程人を遣りましたのでもう来るはず……」

 白千風が言った丁度その時、表から田庭閑が駆け込んできた。

「遅れて申し訳ございません! これほど早い出立とは……」

「馬鹿者! 皆様もう随分前からお前が来るのを待っておられたのだぞ!」

「申し訳ありません!」

 田庭閑はそう繰り返すしかない。

「あの、私の荷物は何処へ積めば……?」

「お前の荷物など、お前が運べ! 太師父様は荷を担げと言っておられただろう。お前はこれを担げ。まだ手が開いておろう。お前のその物見遊山に行くかのような大袈裟な行李、その手でしっかり持って行くのだな」

 田庭閑は確かに大きな行李を持っている。鏢局の者も勿論、日用品など用意しているが、最小限の物を風呂敷に包み背負っている。田庭閑の行李には何が入っているのか知らないが、手に持って景北港まで旅をするのはおそらく普段の修行よりもきついだろう。白千風は別の荷を差し出して田庭閑に担がせる。こちらが本来運ぶべき品だ。中身は知らないがずっしりと重い。

「帰ってくる頃には強靭な足腰を手に入れる事ができるぞ」

 白千風は真顔で言って、朱不尽の方へ向き直った。

「お待たせ致した。これは本当に好きなように使って下され」

「ハハ……助かります。それではそろそろ……」

「旅の無事をお祈りいたします」

 田庭閑が慌てた様子で、

師叔ししゅく、急いで出てきたもので、剣を忘れてしまいました」

 そう言った後、首を縮めて上目使いで白千風を見る。

「剣などいらん。お前はただ黙々と荷を運べば良いのだ」

「……はあ」

「出るぞ!」

 朱不尽の号令でようやく荷駄隊が前へと進みだした。田庭閑はとぼとぼと最後尾に付く。不安か絶望か、泣き出しそうな表情になっていた。

(何か計画的なものでもあるのかと思ったが……気のせいかもしれんな。何かやらせるならもっとましな人間を付ける筈だ)

 朱不尽は田庭閑の様子を窺いながらそう考えた。

 

「あんた、災難だな」

 早速、范撞が田庭閑に声をかけるが、反応は無い。

「俺は范撞。こいつは楊迅。俺達の仕事は……殿しんがりだな」

 ただ単に最後尾に引っ付いているだけだが、范撞は後駆のつもりらしい。

「あんた幾つだ?」

「……」

「今はまだいいが、この先一月ばかり、黙って過ごすつもりか? それは無謀な試みだな」

 范撞は鼻で笑って田庭閑の様子を窺った。

「……俺は田庭閑だ」

「それはもう聞いてる」

「こっ、今年十九になる! あんたも似たようなもんだろう!」

「ああそうだ。似たようなもんだな。宜しく頼むぜ」

「……」

 武慶の北門を出る頃には眩しい朝日が一行を照らす。まだ歩き始めたばかりだが、田庭閑は自分で持ってきた行李を時々持ち方を変えながら恨めしそうに眺めていた。

 

 

 十二

 

 朱不尽と一行は、後は景北港を目指せば良いだけだが、再び緑恒を通るので一旦鏢局の屋敷に戻る事になった。今回は范撞、楊迅の若い二人が役に立っている。真武剣派の人間、田庭閑の相手役だ。范撞が何だかんだと話しかけるので、当初は黙ったままだった田庭閑も少しずつ慣れてきた様だ。尤も、体の方はかなり辛そうにしているが。歳の近い若者が居なければ、朱不尽や各鏢頭だけでは田庭閑をどのように扱うか苦しむところだった。朱不尽はとりあえず范撞らに任せておくことにした。

「今夜はまともな寝台に寝られる訳だ。あんたも十日ぶりにぐっすり眠れるぞ」

 范撞、楊迅の後に続いて部屋に入ってきた田庭閑は半ば放り出すように自分の行李を床に下ろし、床に座り込んだ。

「おいおい、ここには寝台もあるし荷を置ける卓もあるんだぜ? 何もそんなところに座らんでもいいだろう?」

「……もういい。もういいんだ。もう、どうでも良くなってきた。汚れようが何だろうが構うもんか」

 楊迅は田庭閑のその様子を見て微笑む。

「俺もそう思った時があったよ。都のど真ん中を歩くなら格好も気にしなければならないけど、こんな田舎の街道でそんな事に気を取られていては、自分で窮屈にしてるだけ。……江湖が厳しい世界であることは間違いないけれど、思っているよりも本来的な自由が、同時に多くあることを知って、とてもわくわくしたものさ……ちょっとうまく言えないけど」

「お前は坊ちゃん育ちだからな」

 范撞が楊迅に言う。

「お前だってそうじゃないか」

「うん? ちょっと違うな」

 田庭閑は床に寝転んで目を瞑っている。

「頼むから寝台に上がってくれよ。そこは邪魔になるんでな」

「ああ」

 よろよろと立ち上がり寝台に倒れこむ田庭閑。部屋の真ん中に放り出した行李はそのままで、楊迅がそれを寝台の傍に置いてやった。

 

 朱不尽は荷の管理を五人の鏢頭に指示するとすぐに范凱の許へ向かった。

「なるほど。向こうも人を出してきたと……」

 范凱は考え込んでいる。

「その田という男を見る限り、何かあるとは思えませぬが……。陸総帥と共に居りましたが、血縁者かも知れませんな。一介の門弟という感じではありませんでしたが」

「その男は儂を知っておるだろうか?」

「判りませぬ。幇主、やはり景北港へは私共だけで参った方が宜しいかと思います」

「なんとも煩わしい仕事だねぇ。では朱さん、景北港へ入ったらまずさい長老を訪ねてくれ。蔡元峰さいげんほう殿だ。書簡を用意する。それから、蔡長老から殷総監いんそうかんに取り次いで貰おう」

「はっ」

「明日早朝に出立ですな。発つ前に寄って下され」

「承知致しました」

 

 夜になり鏢局では景北港へ向かう者たちは休み、それ以外の人間が荷の見張りに立った。

「少し飲もう」

 范撞がどこからか酒を持ってきて楊迅に見せる。

「本当に少しか? 心配だな」

「寝酒だよ寝酒。ぐっすり眠るにはこれが一番だろう? 例外は居るけどな」

 田庭閑はここに着いてからすぐに寝てしまっている。見るとまるで寝台に沈んでいる様にも見える。朝には一体化しているかもしれない。

「景北港か。久しぶりだな。遥か昔に親父に連れられて行った事がある」

「俺は初めてだ。緑恒より北へは何処にも行った事が無いよ」

「景北港は東北だけどな。これからの時期は気候もいいぞ」

「楽しみだよ」

「楽しめればいいがな」

 

 

 十三

 

 朝、范撞が表に出ると朱不尽と五人の鏢頭が集まっている。

「朱さん、田の奴がもう荷が担げねえってよ」

「何だと? 真武剣派はそんな柔な奴ばかりなのか?」

 魯鏢頭が呆れたように言う。

「どうしたんだ?」

「さあ? ぐっすり寝てたよ。で、起きたら腕が痛くて上がらねえんだと」

「フッ、担いでいた荷だけでもかなりの重さだったからな。そろそろ時間だ。ここに集まるように言ってくれ。俺は范幇主の所へ行って来る。戻ったら出発だ」

 朱不尽は馬に乗り、鏢局を出て行った。

 

 朱不尽が范凱が用意した書簡を持って戻って来た時には全員集まって出立の準備は整っていた。

「よし、揃ったな。皆準備はいいな?」

「応!」

 そこで朱不尽は一番後ろに居る田庭閑の所に行き、声をかける。

「田殿、前の荷車にその荷が積める。積んでくれ」

「えっ? いいんですか?」

「ハハ、そなたの事は好きに使ってよいと言われているからな。その行李も乗せて括っておいてくれ」

 田庭閑は先程まで暗い顔をしていたが、一転して安堵の表情を浮かべた。

「助かります。いや本当に」

 早速、背負ったばかりの荷を目の前の荷車に乗せ、その上に自分の行李を載せて括りつけるのに夢中だ。

「命拾いしたな」

 范撞がニヤニヤしながら声をかけると、田庭閑は同じようにニヤッと笑い、目の前の縄に取り組んでいる。余程嬉しいようだ。

「よし、大丈夫だろう。変わりにこれを持ってくれ」

「え……?」

「重いもんじゃない。安心してくれ」

 朱不尽が差し出したのは一本の長剣だ。

「この先、田殿には用心棒として同行してもらう。真武剣派の門弟に荷担ぎ人夫をしてもらうのは勿体無い。旅は長いからな。すんなりいけば良いが、それなりの覚悟を持って進まねばならん」

「荷を狙う輩など、私にお任せください! 私は剣が本分ですから」

「宜しく頼む」

 武慶の芙蓉荘での態度とは正反対で、自分が荷を守ると言っている。恐らく今なら荷を運ぶ以外の事ならなんでもやってくれそうだ。

「よし! 出るぞ!」

 こうして、ようやく一行は目的地である景北港へ向けて進み始めた。雨季が過ぎ、野山に鮮やかな緑が映える。ここ緑恒の街はこれから暑くなっていくが、景北港は真夏でも爽やかな気候で、暑さを避けるには丁度良い。朱不尽は緑恒から景北港まで一月の行程を計画していた。

 

 緑恒から景勝、東淵湖とうえんこで名高い東淵とうえんの街まではこのまま街道沿いに進めばいい。遅くとも二十日以内に東淵に入らねばならない。これだけ長くなれば道中予期せぬ事で足止めを喰らう事も考えられる。朱不尽らは慎重になりながらも計画通りに進んでいった。

「今夜は良安寺に泊まるからな。少しばかり急ぐぞ」

 魯鏢頭が振り返り、范撞、楊迅、田庭閑の三人に言う。

「良安寺だって? 無理だろ。まだまだ先じゃねえか」

「じゃあ野宿するか? お前が野宿するのは一向に構わんが、荷の警備が優先だ。どうしても辿り着けなければ仕方の無いことだが、できる限り安全を確保する事を考えねばならん。どんなに凄腕を揃えてもこの長旅、数十日後も凄腕でいられるかどうかわからんぞ。剣も持てぬようになるやもしれん。のう、田殿」

「ハハ……まあそうですね。気を張り詰めたままではいつか参ってしまうでしょうね」

 魯鏢頭は田庭閑が荷物が持てなくなった事を皮肉ったが当人は良く判っておらず、適当に合わせている。

「馬に乗っけてくれりゃあ足手まといにはならないぜ?」

「若いうちはその二本の足で馬のように走るんだよ。お前、軽功は?」

「さっぱりだ。楊迅、お前は?」

「んん、あまり自身は無いなあ」

「情けないな」

「魯さんはできるのか?」

「儂はこうして馬に乗っておる。ただ早く進む分には充分だろうが」

「そうだ、田、お前は?」

「フフン、俺は真武剣派の人間だぞ?それくらいできなくてどうする?」

「ふーん、頼もしいねぇ」

「ほれ、間が空いてしまったぞ。急げ」

 走るほどではないが、荷駄隊は俄かに進む速度を上げた。

 

 

 十四

 

 緑恒を離れて八日、何事も無く順調に進んでいた朱不尽の荷駄隊に、馬蹄の響きが後方から近づいてくる。魯鏢頭が振り返ると馬が一頭真っ直ぐ走って来ていた。向こうに気取られない様にしながらも馬上の人間の様子を窺う。もうすぐ追いつくが通り過ぎれば問題は無い。その者が真横に並んだ時、魯鏢頭は思わずハッと息を呑んだ。真っ直ぐ前を向いてこちらは全く視界に入っていない様だが、その横顔は白く、細長く整えられた眉に切れ長で長い睫を湛えた目、微かに微笑んでいる様がはっきりと見て取れた。淡い浅葱あさぎの袍を纏い、小粒の耳飾が見える。

(女?)

 横を駆け抜けていったその背中を見れば、長弓を背負っている。一般的な長弓よりも更に大きく、背負っているその女に扱えるのか疑問だ。腰には宝剣ほうけんが光っていたし、その装いと得物の物々しさの組み合わせがどうも奇妙だ。

「あの弓、凄いな」

 魯鏢頭のすぐ後ろにいた楊迅が隣の范撞に話しかける。

「飾りじゃねえの? あれ女だろ? 芝居でもするんじゃねえか」

 会話を聞いていた魯鏢頭が范撞に、

「ほう、ちゃんと見てるな。顔は見たか?」

 と尋ねると、

「あまり見えなかったな。結構いい女みたいだったけど、あの弓背負ってる時点でお近付きになるのは慎重にしたほうがいいな」

 冗談なのか本気なのか、真顔で答えた。

「あんなでかい弓見たこと無いよ。俺でも引けないかもしれないな」

 楊迅は感心したように女の背中を眺めている。

「真武剣派は弓は扱わないのか?」

 范撞が田庭閑に話を振る。

「ああ、まあ、俺は……まあそれなりだ。だが我が派の剣は矢など物ともしないさ」

「放つほうの事を言ってるんだがな」

「ん?」

 楊迅が前方を向いて目を凝らしている。

「何だ?」

「あの人、朱鏢頭と知り合いみたいだ」

 范撞が目を遣ると、先程通り過ぎた女は朱鏢頭の横に馬を並べ何やら笑顔で話している。朱不尽の方もどうやら懐かしい人に出会ったかのように破顔して話しかけていた。

「あの女も俺達と大して変わらない年恰好だな。どういう関係だろうな。魯さんは知らないのかい?」

「知らんな。名を聞けば判るかも知れんが」

「怪しいな」

 范撞はニヤつきながら様子を窺った。

 

「朱さん、御機嫌よう」

 急に気取った様な声がかかる。朱不尽は荷駄の行列に並んで走ってきた馬には早くから気付き、注意を払っていたが、馬上の人物が突然話しかけてきたので少し慌てた。

「お久しぶりです。今日はどちらまで?今日終わらないお仕事かしら?」

 朱不尽は隣に並んだ女の顔を見つめたまま、暫く誰なのか思い出せなかった。少ししてから「アッ」と声を上げる。

殿ではないか」

「いやねぇ、傅殿なんて。今まで一度もその様に呼んだこと無いのに」

 女はそう言って笑いながら朱不尽を軽く睨む。

「ああ、いや、少し気が動転してしまってな。朱蓮しゅれん、懐かしいな。元気そうだな」

 傅朱蓮というのが女の名前だった。

「小父様も。何処まで行くの?」

「うん? まあ、そなたの家よりももっと先だな」

「へえ、じゃあ……方崖かしら?」

 朱不尽は少し驚いて傅朱蓮の顔を見る。

「当たりって訳ね」

 そう言って笑って続ける。

「じゃあ、私も鏢局の皆さんに同行します。きっと役に立つわ」

 

 

 十五

 

 傅朱蓮の突然の申し出に朱不尽は当惑した。

「同行? それは困る」

「あらどうして? 私の剣は役に立たないかしら?」

「いや、そなたには俺でも敵うまい。我等はこれだけの男所帯だ。だからこそ、この長旅もどうにかなるというものだ」

「フフッ、私はずっと一人旅よ? 寝る所くらい自分で何とかするわ。移動の時には付いて行くって事にすればいいじゃない」

「東淵に帰るのか? 我等はゆっくり行く訳にはいかんが」

「そっちの方が好都合だわ。私も遊びながら行く訳にはいかないの。あっ、そうだ。小父様、姐さんの事聞いてないかしら?」

「ん? 紅葵こうきの事か? どうかしたのか?」

「知らないのね。姐さん、東淵を出るのよ」

「何? 何処へ行くのだ?」

「……何処だと思う?」

 傅朱蓮の表情が僅かに翳った様に感じる。

「全く想像もつかんな……何処だ?」

「後宮」

 それを聞いた朱不尽は言葉を失い、信じられないといった表情で傅朱蓮の顔を覗き込む。

「丁度、大暑の日に東淵を発つと聞いてるの。小父様、その頃には東淵に入るでしょ?」

「ああ、まあその予定だが……」

「じゃあ、いいわね。決まり」

傅朱蓮の顔が再び輝きを取り戻し、明るい口調で朱不尽に言ったが、朱不尽の方は眉間に皺を寄せている。

「つまり、皇帝に召されたと?」

「らしいわ。まあ当然よね。皇帝って人種は国中の美女を欲しがるもんでしょ」

 常に一人しか居ない者を人種というのも変だが、美女を欲しがる男は皇帝に限らずそこら中に居る。

「ねえ小父様。一番後ろの何人か、凄く若いのね」

 傅朱蓮は話を変えた。

「凄くと言うほどでもなかろう。そなたよりほんの少し年下かな」

「一番大きい人、范凱幇主と関係が?」

「ハハ、そんなに似ているか? 幇主の御子息だ。今は俺の部下だがな」

「へえ、じゃあご挨拶しとかなきゃ」

 そう言ってまるで何かいたずらを思いついた子供のように微かに笑うと馬首を翻し、朱不尽の傍を離れた。

 

「あ、戻って来た」

 范撞ら三人は横に並んで歩いているが、端に居てずっと前の様子を見ていた楊迅があとの二人に言う。傅朱蓮は今度は最後尾の三人の横に来て再び馬首を前方へ向けた。范撞に声をかける。

「あなたが次の緑恒千河幇幇主?」

 范撞は少し考えてから、少々勿体を付けてから答えた。

「知らん」

「あらそう?」

「朱さんが言ったのか?」

「いいえ。あなた、范幇主にそっくりだもの」

「で、何の用だ?」

「別に用って事も無いけど、幇主になるかも知れない人とはよしみを結んでおく事がこの江湖で生きるには必要でなくて?」

「誼みを結びたいなら」

 范撞が言う。

「馬を降りるくらいのことはした方が良いと思うけどな。江湖の常識としてだ」

 傅朱蓮は真っ直ぐ范撞の目を捉えていた。

「……いいわ」

 そう言うとヒラリと馬を降りる。そのちょっとした動作がなんとも様になっている。

「東淵までお仲間に入れてもらう事になったから。宜しくね」

 楊迅の横を馬を引きながら歩いている。

「で、あんたは誰だい?」

「私は傅。傅朱蓮よ」

 前で聞き耳を立てていた魯鏢頭が振り返った。

「あんた、紅門こうもんの傅大人の娘御か?」

「ええ、そうよ。紅門にお出でになった事が?」

「朱鏢頭に連れて行って頂いた事がある。そうか、あそこの……」

 やっと合点がいったという風に魯鏢頭は頷きながら再び前を向いた。

 

 

 十六

 

 傅朱蓮と范撞が楊迅を挟んで話すので、楊迅少し下がって歩いていた。年頃の女性がこれほど近くに居る事など今までに無く、どうすればいいのかわからない。もっとよく顔を見たいとも思うが、もし視線を投げればすぐに気付かれてしまいそうだった。田庭閑の方はしっかりこちらに顔を向けている。隙あらば話に混ざろうとでも思っているのだろうか。

「あんた、戦にでも行くのか?」

「この先に戦なんて無い筈だけど、あったら混ざってもいいかもね」

 傅朱蓮は少しおどけた風に笑いながら答える。

「あの、その弓、大きいですね」

 楊迅が思い切って傅朱蓮に話しかけた。

「この弓? 私の旗印みたいなものね。目立つでしょ」

「そんなもんで目立ってどうすんだよ。災いが寄って来そうだな」

「寄って来たら串刺しにすればいいわ。私の矢なら三人位は貫けるもの」

「弓は誰かに師事されたのかな?」

 ようやく田庭閑も話しかけることが出来た。

「まあね。少しだけど。范さん、この弓、引くことができるかしら?」

「フン、知らね」

 傅朱蓮は背から弓を下ろすと楊迅の前に差し出す。

「あなたはどう?」

「え、俺? 俺はどんな弓も触った事ないけど」

「やってみて」

 楊迅は恐る恐る手を伸ばして受け取る。想像していたよりも重かった。本当に弓を触った事が無かった楊迅は、取りあえず弦の中ほどに指を掛けて力を込めてみる。

「結構きついな」

 そう前もって言ってから徐々に引き絞っていく。が、ある程度までは開くのだがそれ以上はいくら引いても動かない。すぐに腕が疲れてしまい、物凄い勢いで腕の方が戻されてしまった。

「やっぱり駄目だな」

 照れながら傅朱蓮を見ると、何も言わずに笑みを浮かべて楊迅を見つめてくる。思わず視線を逸らしながら弓を返そうとすると、

「次、どうぞ」

 と傅朱蓮は言った。

「俺に貸してみろ」

 田庭閑が手を伸ばす。楊迅が手渡すと早速弓を引き絞った。

「ハハッ何だよその震えは。狙いが定まらねえぞ」

 范撞が田庭閑を見て笑い出した。

「まだ……引けただけ……ましだろう……」

 呼吸困難にでも陥ったかの様に声を振り絞りながら、腕は小刻みに震えている。急に「バシッ」と音が響き、同時に田庭閑が叫んだ。

「ぐあっ!」

 どうやら弦に掛けた指が外れてしまった様だ。范撞は腹を抱えて笑っている。

「おいお前ら! 何やってるんだ! 離れるな!」

 前を行く魯鏢頭とかなり間が開いてしまっている。四人とも小走りで追いつき、再び歩きながら范撞が田庭閑の手から弓を取る。田庭閑は赤くなった親指の付け根を触りながら時折息を吹きかけているが、皮膚の下の細かな血管が破れてしまった様で、赤い斑が出来ている。

「こういう強い弓はゆっくり引くと駄目なんじゃねえか? 知らねえけど」

 そう言うと范撞は勢いよく弓を引く。独特の曲線を持っていた弓の胴が綺麗に半円を描いている。まだまだ余力がありそうだ。前方を何箇所か狙う仕草をして見せる。弦をゆっくり戻してもう一度全体を眺めてから傅朱蓮に返す。

「流石ね。この弓は特別なのよ。この国では作られてないの」

「へえ、何処のなんですか?」

 楊迅が尋ねる。

「詳しくは知らないけど、海の向こうから来たのよ」

「本当かよ。まあ確かに見ない形だな」

「貴重品なんだから。まぁこの弓を引いて壊せる人は居ないと思うけど」

 そう言いながら傅朱蓮は弓を背に戻す。

「何だよ、あんたは引いて見せてくれないのか?」

「機会があればその時見れば?」

「きっと俺より太い腕してるに違いないぜ」

 范撞が楊迅に言う。だが声を潜めてはいなかった。

「なあに? 私のこの腕が見たいの?」

 そう言って傅朱蓮はほうの腕の袖口を掴む。

「お嬢さんやめろ。お前等もちゃんと周りを見ろ」

 黙って前を行っていた魯鏢頭が振り返って言う。

「じゃ、そういうことで、宜しくね」

 傅朱蓮は引いていた馬に乗り、朱不尽のいる前方へ駆けて行った。

 

 

 十七

 

 傅朱蓮が荷駄隊に加わってから五日、特に変わった事も無く毎日黙々と進むだけだった。勿論それは仕事が順調に進んでいるということである。夜になって休む時には傅朱蓮はどこかへ消える。そこが街ならば宿にでも泊まるのだろうが、荷駄隊は時に廃墟と化した古い屋敷の址などに泊まったり、或いは全く何も無い荒れた大地の上で寝る事もある。そんな時にも傅朱蓮は居なくなるが、夜が明けて再び進みだす頃には馬に乗って姿を現した。

 大抵は范撞ら三人と一緒に、喋りながら歩いている。しかし話す量は圧倒的に傅朱蓮が多かった。国中を一人で旅しているらしく、過去に見た風景から各地の人物、街の文化など、話題は尽きない。男三人は殆ど聞き役だった。范撞は傅朱蓮を「面白い奴だ」と思い、楊迅は彼女の話す自分の知らない物事に大いに興味を持って質問し、田庭閑は人から聞いた話で対抗しながら、赤みの消えない親指を気にしていた。そして時折、魯鏢頭が振り返って四人を急がせるのだ。

 夜、陽が沈んでかなり経っていたが、一行はまだ休むことなく進んでいる。ここは小さな村で、この先に古い寺がある。誰も居なくなって久しい寺だが、朱不尽は東へ向かう時には大抵そこに泊まった。朱不尽は先に数人、人を遣って寺の周辺を探らせていた。

「朱鏢頭、村の者に話しておきました。何も問題は無さそうですね」

 先触れの一人が戻り、朱不尽に報告する。

「判った。」

 朱不尽はそう言うと後方に下がる。

「もうすぐ着くぞ。この辺りは山が近いからな。警戒を怠るな!」

 范撞が前方に目を凝らす。

「何にも見えねえけど。しかしこの辺は何もねえな。この村の連中は何を楽しみに生活してんだろうな」

 辺りは真っ暗で、周りは畑らしきものが広がっている。民家が点在しているが、明かりも殆ど見えなかった。

「流石に腹が減ったよ」

 楊迅が言うと范撞がすぐさま反応する。

「言うなよ。折角忘れようとしてたのに」

「へえ、空腹を忘れる技なんてあるの? 是非ご教示願いたいわ。私もお腹空いた」

 傅朱蓮がそう言いながら腹の辺りを擦っている。

「これから長旅する時はそんなでかくて邪魔な弓じゃなくて飯を背負う方が賢明だな」

「はいはい」

 流石に疲れているのか傅朱蓮は相手にせず前を向いた。

 そのまま暫く行くと古びた寺が見え、先に様子を見に来ていた者達数人が明かりを灯して待っていた。民家からも離れており、ひっそりと静まりかえっている。

「何か人じゃないものが居そうな寺だな」

 范撞が言うと、

「ちょっと、変な事言わないでよ」

 傅朱蓮が顔を顰める。

「何だ? それがあんたの弱点か?」

「知らないわ。見たこと無いんだから」

「見たこと無いから怖いんだろ?……ん? なんだ?今屋根に……」

「な、何よ?」

 傅朱蓮は自分の襟元を握り締めて体を強張らせる。

「ハハハ! 何もねえよ。よくそれで一人で旅が出来たもんだ」

 范撞の冗談に傅朱蓮は白かった顔を赤くして睨みつける。手が腰の宝剣に伸びている。それを見て范撞は首を竦めた。

「俺はあんたの腰の剣と背中の弓の方が余程恐ろしいよ」

 

「塀はぼろぼろだね」

 寺の崩れかけた門を入り、ようやく腰を下ろす事の出来た一行は前の街で調達しておいた食事を摂り始めた。荷駄は下ろさずに交代で寺に入って休む事になる。楊迅と范撞が辺りを見回っていた。

「緑恒の爺さんの家とあまり変わらねえな。ま、あっちの方が街に近くて便利だけどな」

「戻った時に行っておけば良かったな」

「そんな暇無かったじゃねえか。次の手、思いついたのか?」

「いや、まだだけど」

「こんな仕事してたら先に進めねえな」

「……でも、働かなきゃ、生きられないよ」

「……そうだな」

 今夜は風も殆ど無く、塀の向こうに迫っている山もひっそりとしている。それほど広いわけでもないこの寺の塀に沿って一周し、范撞達も腰を下ろして用意してあった握り飯を頬張った。

 

 

 十八

 

 傅朱蓮が近くにあった桑の木に馬を繋いでいる。半ば枯れて殆ど実が見られないが、かなり高く寺の屋根を優に越えている。

「今日は何処にも行かないのか?」

 范撞が声をかける。

「もうこんなに遅いのに、今から何処に行けって言うの?」

 振り返った傅朱蓮は片手を腰に当てて范撞を見た。

「まだ夜中は肌寒いな。火の近くで休めよ」

「そうするわ」

 寺に入って休む者も居るが、交代で入っても中は狭く、范撞らは表で焚いている火の傍で休む事にした。田庭閑はさっさと寝てしまったが范撞と楊迅、傅朱蓮は起きて話していた。

「お前達、ちゃんと休めよ。見張りの交代の時間が来れば叩き起こすからな」

 声をかけた解鏢頭は寺の周りを延々と回りながら辺りを見張っている。

 

「あんた、朱さんとはいつ知り合ったんだ?」

 范撞が尋ねる。

「さあ、いつだったかしら? 私が赤ん坊の頃じゃない?」

「へえ、朱さんその頃は東淵に居たのか」

「違うわ。朱小父様、この稼業始めてもうかなりなるでしょ。私の歳より長い筈だわ」

「魯鏢頭が言ってたじゃないか。紅門って所が傅さんの家なんだよね? お父上の知り合いとかじゃないの?」

「楊さんはすごく話し方が丁寧ね。誰かさんも見習った方がいいわよね」

 傅朱蓮は楊迅に顔を向けたままそう言う。

「ハハ、范撞の言葉は多分この先直らないよ」

「うるせえな」

「誰かさんって言っただけよ」

「紅門って、東淵一高級な店で有名なとこなんだろ? 金持ちか」

「お父様はお金を持ってるわ。私は持ってないけど。紅門飯店は別に普通の料理屋よ? 人に恵んでもらったお金でお酒を飲みに来る物乞いだって居る位だもの」

「あんたに付いて行けば飲み放題か?」

「それは有り得ないわ。しっかりお代は頂きますからね」

「紅門にはすげえ美人が居るんだってな」

「よく知ってるじゃないの。ほんとはそれが聞きたかったんでしょう?」

「美人がいて俺も入れるんなら一度行ってみないとな」

「朱小父様が許さないでしょうね。景北港まで行くんでしょ? 帰りに寄れば? 美人は見れないと思うけど」

「そろそろ休まないと寝られないよ?」

 楊迅が遠慮がちに口を挟む。

「そうだな」

 范撞が脇に積んであった荷駄に被せる襤褸ぼろ布を放る。

「ハア、仕方ないわね」

 傅朱蓮は一枚を摘まみ上げて眺めた。三人はそれぞれ布を肩に掛けてその場で横になる。先に寝た田庭閑が一番良さそうな場所を確保していた。

 

「火だ!」

「早く消すんだ!」

 突如響いた叫び声に真っ先に目を覚ましたのは田庭閑だった。

「な、ど、どうした……何だ!?」

 傍に置いていた剣を掴み、辺りを見回すと、荷の一部が燃えているではないか。

「火を消せ! おい起きろ! 皆配置に就け! 荷を守るんだ!」

 朱不尽の号令が辺りに響き渡り、眠りに落ちてまだ間もない范撞らも飛び起きた。

「どうした!?」

「范撞! 火だ!」

「くそっ!」

 范撞と楊迅は被っていた襤褸布を手に荷車の方へ駆け出す。近づいてみれば数本の火矢が荷に刺さっている。

「范撞! まだ狙ってるかも知れないぞ!」

「とにかく消さなきゃ荷が灰になっちまうだろ!」

 荷を覆っているのは厚手の布で、水や火に強く加工されている。幸いまだ完全に燃え移ってはいなかったので消す事は難しくは無かったが、矢はしっかりと荷の箱に刺さっており、傷ついてしまっている。

「何があったの!?」

 傅朱蓮はいつものように長弓を背負い宝剣を持って范撞の許へ駆け寄った。

「おい! こちら側に来い! 敵はまだ来てない! 矢だけだ!」

 荷車を挟んで范撞の反対側に居た田庭閑が叫んだ。既に剣を抜いている。范撞ら三人も身を伏せながら反対側にまわった。

 

 

 十九

 

「よいか、皆不用意に動いてはならぬ。それぞれ鏢頭の指示に従うのだ。敵は左手の山に潜んでいる筈だ。まだ荷駄の向こうへは出るなよ」

 朱不尽が表に出ている者達に冷静にそう言うと、剣を抜いて寺の壁に身を寄せながら山の暗闇を睨んでいる。荷駄は寺のすぐ前に着けてあり、全員が表には出られない。中に居る者も剣を手に表の様子を窺っていた。

「矢だ! 気を付けろ!」

 荷車のすぐ傍で身を屈めていた田庭閑が叫び、その下に潜り込んだ。今度は火矢ではない。かなりの本数が風を切る音を立てながら荷駄の上に降り注ぐ。

「何人だ? 敵は何人居る?」

「全く見えねえな。この矢の数だ。一人二人ではないだろう」

 范撞と楊迅も田庭閑と同じように荷駄の下に潜り込んだ。

「こんな所まで来てご苦労なことだな」

 范撞が二人に顔を向けて言う。

「こんな所だから襲いやすいんだろう」

 表に出ている者は皆物陰に隠れじっとしている。敵はまだ襲っては来ず、矢だけが上から降ってくるのだ。動きようが無かった。

 傅朱蓮は朱不尽の後ろに駆け寄った。

「お嬢さん、じっとしてるんだ!」

 魯鏢頭が言うと、

「私は用心棒なのよ? やっと仕事にありつけるというのに、隠れててどうするのよ」

 そう言って背の長弓を下ろす。

「朱蓮、敵はまだ見えぬ。このままじっとしていれば降りて来るしかない。そしたら存分に働いてもらうぞ」

 朱不尽は傅朱蓮の顔を見て口尻を僅かに持ち上げた。それを見た傅朱蓮もニヤリと不敵な笑みを浮かべる。

「あいつ、やる気満々だな」

「お、俺だってやってやるぞ。これは我が派の荷なんだからな。手出しを許すものか」

 田庭閑は地面に這いつくばったままだが、とりあえず気らしきものを吐いている。

「でも、こっちは三十近く居るんだよ? もし来るとしたら少なくとも同じくらいあの山の中に居る事になるけど……あんなとこに居られるのかな?」

「ここで襲うって事は、敵はたまたま通りかかった訳じゃないだろうな。こっちの数も判ってる筈だ。ちっ、災難だ」

「でも、それを払うのが俺達の仕事だ。……矢、打ってこないな」

 

「魯鏢頭、寺の裏を見てくれ。解鏢頭は右手を頼む」

「応」

 朱不尽の指示に魯と解の両鏢頭は同時に答え、部下を連れてそれぞれ寺の周りを探りに向かう。矢が止まった。賊が近づいているかも知れない。

「王鏢頭、弓だ。全部持たせるんだ。解鏢頭、見えるか?」

「こっちは畑が続くだけで隠れる所もありません。来てません」

「ならば裏に回ってくれ。見えたら数を」

「解りました」

「弓、左手の塀と正面」

 朱不尽が言うと即座に王鏢頭が射手を二手に分けて配置する。準備してきた弓は全て出して人員の半数以上が弓を手にすることになった。剣を持つものは殆ど寺の中から出られない。荷車の下から楊迅は朱不尽と鏢頭達の動きをじっと見ていた。敵が近くに居る事を忘れたかの様に、見つめていた。

「アッ、飛雪ひせつを、馬をこっちに連れて来ないと!」

 傅朱蓮が不意に両手に剣と弓を持ったまま、桑の木に繋いだ馬の許へ駆け出した。

「朱蓮、気を付けろ!」

「あいつ!」

 范撞が荷駄の下から勢いよく転がり出ると、腰の剣を抜いて傅朱蓮の方へ駆ける。咄嗟の事で何が何だか判らなかったが、楊迅と田庭閑の二人も范撞に続いて飛び出した。

「戻れ!」

 朱不尽が声を発すると同時に、再び上空から数多くの唸る様な音が傅朱蓮に襲い掛かった。

「ハッ!」

 傅朱蓮は地面を蹴って物凄い速さで馬の傍まで跳躍すると、右手の宝剣で馬を繋いでいる縄を断ち切り、流れる様な身のこなしで馬上に飛び上がる。空を見上げるとすぐ上まで黒い矢の束が迫っている。しかし、見上げたその顔は恐れている者のそれではなかった。

 

 

 二十

 

 馬で駆け出しながら傅朱蓮は右手の宝剣を振るって襲い掛かる矢を弾いてゆく。

「横だ!」

 突然范撞が叫んで跳躍し、真っ直ぐ傅朱蓮に向かい放たれた矢を切り落とす。今度は上からではない。左手の塀の上から放たれたものだ。人影は見えていない。

「戻るんだ!」

 朱不尽が再び叫ぶ。傅朱蓮が馬で荷駄まで戻り、続いて范撞が駆け出そうとしたその時、その背後へ黒い影が幾つも塀を飛び越えてきた。

「范撞後ろだ!」

「剣を取れ!」

 楊迅と朱不尽が同時に叫ぶ。次々と黒い影が飛び越えて来る。守りの弓は塀の上を狙って待機していたが、傅朱蓮達が前で立ち回っている隙に賊の侵入を許してしまう形となった。賊は全身黒く、覆面もしている。十数人ばかりがあっという間に塀を越えた。

「かかれ!」

 朱不尽の号令に寺の中に居た鏢局の者達も剣を手に一斉に飛び出す。それほど広い訳ではない寺の境内は一気に混戦状態となった。賊の方もまだ侵入してくる。鏢局の弓は王鏢頭の指示でまだ敵の見えない正面、右手を警戒している。一番前に居た范撞は何とか荷駄の近くまで戻り、大きく息を吐いた。

「馬、繋いどいて!」

 傅朱蓮が自分の馬の手綱を范撞に押し付けると、再び宝剣を手に敵味方が入り乱れる中に飛び込んでいった。

「大丈夫かよ……」

 范撞は手早く近くの荷車にその手綱を括ると辺りを見回した。ふと前を見ると荷駄の影に田庭閑が居り、目が合った。

「ひ、一息ついたら、行くぞ」

「……ゆっくり来い」

 范撞も剣を握り締めて再び飛び出していった。

 一気に始まったこの混戦状態が終わらせるには、賊が皆死ぬか撤退するか、こちらが全滅か、その三つしかない。何百、何千という大規模な戦闘と違って、比較的早くにそのどれかになる筈だ。しかし、予想とは違い、思わぬ長期戦となった。賊の動きは素早く手強い。その剣を振るう手筋もどこか似通っており、同じ剣を習得している様に見える。しかし、それがどの筋なのかは判らなかった。鏢局の用心棒達も剣の腕に関しては決して引けを取ってはいない。范撞、楊迅らはまだ駆け出しだが他の殆どの者は長くこの稼業で命を張ってきた。出身は色々で、得意とする武芸も様々であったが、朱不尽の選りすぐりであった。だからこそ今の名声がある。

「さあ、来なさい!」

 傅朱蓮の宝剣が中でも一際輝いている。賊は黒尽くめ、味方も皆地味な色の服装だが、派手とまではいかないが一人傅朱蓮のみが薄い緑の残像を作り出していた。范撞、楊迅も剣を振るい激しく応戦するが、敵も手強く疲れが見え始める。田庭閑も近くで戦っている。最初は慌てていたが段々と落ち着いたようで、意外にも颯々と剣を繰り出している。技量は兎も角、紛れも無く真武剣である。しかし皆、賊を仕留める事も引かせる事も出来ていなかった。

「かかれ!」

 魯鏢頭の声がどこからか聞こえた。どうやら賊は寺は囲まずに一箇所に集中している様だ。裏手に回っていた魯鏢頭らが戻ってきて参戦する。数では鏢局が僅かに優勢となった。魯鏢頭以下、新手が一気に前へ出ると同時に少しずつ入れ替わる。

(三十はおらんな二十程か……奴等、何故退かぬ……? 玉砕覚悟とでも言うのか?)

 荷駄の方まで下がって息をついた朱不尽は粘る賊を見ながら首を捻った。

「余り散らばってはならん! 荷駄の周りを固めろ! 王鏢頭、剣を!」」

 魯鏢頭達と入れ替わって下がってきた者達に朱不尽が指示をする。数人だけ残っていた弓の射手達も剣を取った。

「ふう、あんた大丈夫か?」

「勿論よ。それにしても、やけに粘るわね。このままではどっちも力尽きてしまうわ。普通もう引き上げるでしょ?」

「確かに変だな。荷が目的ではない……?」

「さあ?」

 范撞と傅朱蓮が荷駄の傍で呼吸を整えていた。

「怪我人は居るか?」

 朱不尽が辺りを見回す。

「何人か負傷しておりますが、大事には至っておりません」

 近くに居た者が報告する。

(退かぬということは、まだまだ山に潜んでいるのか?これ以上増えれば不味い……)

 

「山の方を見ちゃ駄目よ。范さん、山に誰か居る」

 傅朱蓮が真っ直ぐ前を向いたまま言う。

「誰が?」

 范撞が傅朱蓮に顔を寄せた。

「判らないけど、動かないわ」

 そう言うと長弓を取って、矢を番える。

「どうするんだ?」

 答えずに傅朱蓮は少し長く息を吐いた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ