第十二章 二十七
リンは大人しく方崖への小道を歩いていた。まだ体の節々に痛みが残っていたが、先を行く林玉賦の足取りは早く、時折顔を顰めながらもついていく。
「なぁあんた、親切だな」
「何が?」
「何処の誰とも知らない俺を連れて行ってくれるんだから、あんたは優しいよ」
「じゃあ感謝しな」
「してるさ。あんたの名は何だい? 俺はリン」
「……イン?」
「リンだよリン。何で此処の奴らは皆、一度は聞き返すんだかなぁ」
「何処の出身だい? あまり聞き慣れない音だねぇ」
「んー……生まれた処なんて知らねえよ。育ったのは……色々だ。南方の街は大概行った事あるぜ。で、あんたは?」
「フフ、お前と同じ、リンさ」
「リン……七星でリンと言えば、林玉賦!」
「劉毅は知らなくて、あたしは知ってるのかい?」
本人を前に、しかも北辰七星林玉賦の名を声高に呼び捨てにするリンだったが、当の林玉賦の機嫌は悪くは無かった様で、ごく普通に会話が続いた。
「いや、劉毅って名前はよく知ってたさ。九宝寨の事は殆ど知らないってだけだ。あんたの事は……七星に女が居るって聞いて興味があったんでね。どんな奴だろうってね」
「……」
林玉賦は何も答えないままで暫く沈黙する。まだ夜が明けたばかりの小道には他に誰も居らず、ただ鳥の声が響き渡るだけだった。リンの前を行く林玉賦は足音一つ立てていない。リンはその後姿をじっくりと観察する。
昨日は遠目でしか見ておらずどんな姿かはっきりとは分からなかったが、すぐに女と分かる衣装を纏っていた筈だ。だが今は随分と落ち着いた雰囲気の着物でしかも明らかに男装であり、ただ歩くだけだがその動きのどれもが力強く感じられる。リンは久しぶりにいかにも武芸者らしき者に会った気がした。
「いいねえ。惚れそうだ」
林玉賦に聞こえるようにそう言って反応を窺ってみる。だが林玉賦は振り返りもしない。ただ一言、
「殺すよ」
何の抑揚も無い、平坦な声が返ってきた。
「あんたなら出来るんだろうな。やっぱりあんたみたいに腕のある女は皆、自分より強い男じゃないと駄目かい?」
「腕はともかく、お前のようによく喋る餓鬼が一番嫌いだね」
「そりゃ……どうも」
林玉賦が更に歩く速度を上げる。しかしその上体を見れば無駄に振れる事無くまるで物の怪が宙に浮くかの如く、つーっと前へ進んで行く。リンは引き続きその姿をじっと見つめていた。
「フッ。何とか無事に来れた様だな」
不意に前方から声が聞こえ、リンが林玉賦の背中越しに首を伸ばして先を見ると、一人の男が小道を登り切った場所に立ち、微笑を浮かべながらこちらを見下ろしていた。林玉賦が何も答えずに進んでいくのでリンが小声で林玉賦の背中に声を掛ける。
「お仲間かい?」
「ハ、そうじゃないのはお前だけさ」
「だろうな」
二人は男の傍まで辿り着き、そこで林玉賦が男に話し掛けた。
「劉は?」
「屋敷だろう。まさか、この者が今此処に居るとは思うまい」
「あんたは誰だい?」
リンが不躾に男に名を訊く。だが男はまた微笑を浮かべてリンを見る。
「私は鐘という。お前は?」
「俺は……『リン』だ」
「そうか」
リンはまた聞き返されるだろうと思っていたのだが、この鐘――鐘文維はすんなりと理解出来たらしい。あえていつもと同様の発音で言ってみたが、これには少しばかり嬉しくなった。
「じゃあ、もしかしてあんたも七星の?」
「一応、そういう事になっている」
「なぁんだよ。あの北辰七星だぜ? もっと勿体ぶって出てきてくれないと」
「もうこの江湖では名が消えかかっているものでな。昨今はこちらから進み出て行かなければ本当に消えて無くなる」
鐘文維はそう言って笑っている。その物言いは少しばかり大袈裟で、恐らく謙遜だろう。少なくとも武林では北辰教といえばまず七星の名が出てくる。だからこそリンの様な若い世代でも知らない者は殆ど居ないのだ。
「がっかりしたかい? 武芸の腕を喧伝したいならこんな処じゃなくて中原に出るんだね」
林玉賦が言いながら歩き出すので、リンと鐘文維も後に続いた。
「しかしまだ早過ぎるぞ? どうするつもりだ?」
鐘文維が林玉賦に訊ねる。すると林玉賦は歩きながら両手を少しばかり持ち上げて空を仰いだようだ。
「さぁて。どうしてやろうかねぇ」
「お前の期待するほど面白い事にはならんかも知れんな」
鐘文維の言葉に林玉賦は振り返る。
「何かあったのかい? 婉漣は?」
「尭長老の処だ」
「昔からじゃないか。よく知ってる」
「それがな、昨晩珍しく尭長老の方から総監を訪ねて来られたのだ」
「何だって? それは……『周婉漣の取り扱いについて』かい?」
「かも知れぬ」
「……フフッ。それはそれで面白そうじゃないか。で? 総監はどんな様子だった?」
「侯どのの話では、どうやらまだあの総監も尭長老相手には下手に出るしかないらしいな。話の内容までは聞き取れなかったそうだ」
「へぇ……。さすがは拝宮長老様だねぇ。というか、本来なら九長老は皆それくらいでなくちゃいけないよ。そうだろう?」
「はて、どうだろうな」
鐘文維が首を傾げる仕草でそう答えると林玉賦は、
「ま、確かに、あたしらの知ったことじゃないねぇ。本来なら、ねぇ」
そう言ってまた前に向き直る。
ずっと黙って二人の会話を聞いていたリンは恐らく何の話か理解出来なかっただろうが、一人考え込む様な顔つきで大人しく歩き続けた。