第十二章 二十六
夜が更けた。だが、街は一向に静まる気配を見せない。通りをひっきりなしに行き交う松明の炎を、リンは街に程近い山の中腹から見下ろしていた。
(どっから湧いて来てんだ? さっさと帰って寝ろよ……)
女の言った通り、九宝寨の者達が何処からとも無く一斉に大挙し、リンを探し続けていた。あの屋敷に居た者の他に、恐らく本拠からも人を遣しているのだろう。通りを照らす松明で空までもぼんやりと赤く染まっている様に見えた。
ここまで大事になろうとは思いもしなかった。単に考えが足りなかっただけなのだが、たかがあれだけの事でこれほどむきになるあの連中が疎ましい。そして、これで本当に夜が明けたら方崖に上がれるのかどうも信じ難い。
(九宝寨だけだろうか? まるでこの街が奴らに乗っ取られたみたいじゃないか。北辰教の奴らがこんな事を許すってのか? 一体、どういう関係なんだ?)
九宝寨が北辰教の一部と化している事は周知の事実であるが、全くのよそ者であるリンの目には眼下の光景が奇妙に映る。その気になればこの街を如何様にも出来るといわんばかりの大人数が街中に散らばっているのだ。無論、住人も北辰教の人間も九宝寨屋敷で起こった事は知っており、リンを見つけ出す為に動いている事は承知しているだろうが、未だ『九宝寨』を名乗り続けるあの集団を見てこの街の北辰教徒達は不安を抱く事が無いのだろうか。その頭領は北辰七星として北辰教教主のすぐ近くにいる。
(劉毅は既に、北辰の急所に手を掛けているも同然だな。……まさか、それもあの香主の計画の内とか言うんじゃあるまいな? もしそうなら、あー何だかやばい事になっちまいそうだ)
リンは暫く暗い茂みの中で足元を確認しつつ辺りを歩き回ったが、街へ降りる事も出来ず、このまま夜が明けるのを待つしか無かった。
夏が近いとはいえどもこの景北港では薄着で居ると朝晩はかなり冷える。しかも茂みに埋もれるようにして横たわっていては満足に睡眠を取る事など出来よう筈もない。何度も目覚めては空を見上げ黒い夜空に顔を顰めていたが、ようやくその色に明るさが増し始めた頃、リンは体を起こし街を見下ろしてその様子を窺った。
(静かになってるな。単に疲れて引き上げたか、それともあの女が手を回してくれたのか、さて……?)
まだ陽が上るには早過ぎたが、リンは方崖の入り口に向かうべく歩き出し、用心の為に街には降りずに山の斜面の道なき道を北へと進んで行く。するとやがて方崖へ上がる為の小道の入り口、張り番が詰めている筈の小さな東屋が見下ろせる場所まで辿り着いた。初めて行った時、すぐ追い返されてしまった場所である。
(手配するって事は当然あそこの奴にも話を通す筈だよなぁ? もう大丈夫なのか? まだだったら不味いか……。あ、でもあそこで捕まれば連れてかれるのは多分、上だな。まさか上の連中に何も言わずにいきなり九宝寨に引渡したりしないよな)
そんな事を考えながら、じっと下に目を凝らす。見張りは数人で、特に警戒している様子は無い。暇そうに辺りをぶらつくだけである。
(どうする? 行くか? まだ早すぎるか……。せめて陽が昇るまで……)
リンは判断がつかずそのまま身を低くして様子を窺い続ける。そして結局、朝日が視界に差し込んで来るまで動かなかった。
(お? 誰か来る)
方崖に掛かる朝もやの中を下の東屋に向かって降りて来る人影が見える。この時分に上から来るのだから方崖の人間、北辰教の幹部か何かの筈である。リンはじっとそちらに目を凝らした。
濃い緑の衣服を身に着けた者が一人、静かに降りて来る。それに合わせて下でぶらついていた張り番の男達が慌てた様に東屋の前に整列するのが見えた。リンは観察を続けるだけだ。
(んー……どうしたもんか? もっとちゃんと段取り決めとかねえときっかけが掴めねえよ)
東屋まで降りて来たのはその身形と雰囲気からして方崖の幹部であることはほぼ間違い無い。張り番の男達と言葉を交わした後、先程までの張り番同様、辺りをまるで散策するかの様に歩き回り始めた。
(おいおい何だよ。用が済んだらさっさと戻れよ)
緑の衫を纏った幹部らしき者は後ろ手を組み、時折立ち止まっては辺りを眺めたりしている。リンは方崖とは反対側の山の斜面に身を潜めているが、その者の顔が見えそうになる度に首を縮めて隠れなければならず、顔を確認する事が出来ない。
(ま、見たって知らねえけどよ。あの女の名前さえ聞いてりゃあなあ。呼ばれたって事で出て行けるんだが……)
『……』
(ん?)
何かが聞こえた気がする。リンは辺りの気配を窺いながら耳をそばだてる。だが、朝を迎えた山の中はあらゆる生き物達が自らの存在を競って主張するかの様に声を上げており、何が普段の山の音で何がそうでないのか、山に生きる杣人の類でもない限り判別がつかない。
リンは再び下へ視線を戻す。先程まで張り番の男達も何やら会話をしていたがその声は全く聞こえず、声を張り上げれば充分に聞こえようが、見た感じではそんな雰囲気は無く平穏そのものだ。
(あっ、もしかしてあの女が来たのか? でも何処だ?)
リンは首を目一杯動かしてその姿を探すが人影っぽいものすら見つからない。そこで今度はじっとして耳に神経を集中させる。何処からかまた昨日の様に話し掛けて来ているのかも知れないのだ。昨日、屋敷の中と表の庭では声が変わったのを思い出す。
(少し遠くて、真っ直ぐ俺に声が届けられないのかも知れない。動くより此処でじっとしてた方が良いな。入り口は真下だ……)
だがその後、一向に人の声らしきものは聞こえて来ない。辺りの気配にも変化は感じられず、気のせいだったのかと思いながらまた下へ視線を移したその時、突然昨日と同様の圧力がリンの耳を覆った。
『劉毅に見つかる前に総監に会わないと、死ぬよ』
「うわっ!」
リンは思わず耳を押さえて立ち上がった。と同時に目に飛び込んできた光景に更に驚く。下に居る緑衫の男が不意に駆け出し、こちらへ向かって来るではないか。真っ直ぐリンの居る山の斜面を飛ぶ様に迫ってくる。明らかに常人とは違うその挙動。北辰教方崖の、武芸者。
リンは逃げ場を求めて慌てて周りを見回す。そんな僅かの間にも迫り来る緑の影が徐々に大きくなってくる。
「くそっ!」
リンは必死の形相で山の更に上を目指して駆け出した。だがすぐに絶壁の様な岩肌に行く手を阻まれる。迷っている暇は無い。すぐさまその岩肌に沿って駆けながら何処か身を隠す、或いは緑衫の男を撹乱出来る様な進路は無いものかと視線を辺りに巡らせた。
「ハッ!」
リンは跳躍した。恐らく何も考える余裕は無かったのだろう。前方斜め上の岩肌から一本の木が横に伸びていた。そしてその先は岩肌が途切れ、緑の斜面が見えている。木が視界に入ったとほぼ同時にリンはその木を使って更に上の斜面に登るべく飛び上がったのだが、その木はリンの両手が掛かった瞬間音も立てずに折れ曲がってしまいリンを振り落としてしまった。そしてリンの背中が岩の上に叩きつけられるその直前、今度は別な力がリンの服の襟を後方に引っ張り、そのままリンは地面に転がった。
余りにもあっと言う間の出来事で何がどうなったのか、リンは混乱した。岩場の上を転がって体中のあちこちが痛んだが、折れた木から直接叩きつけられるのは免れたのでどうにか立ち上がる事は出来た。
だが、それ以上は動けない。目の前に、緑衫の裾がひらめいている。
「フフ、お前、中々人を笑わせる才能があるんだねぇ」
リンが眼を見開いたその直前に立っていたのは、男物の緑衫で身を包み悠然と笑う、あの女だった。