第十二章 二十五
此処へ来て初めて、リンは全身が緊張するのを感じた。今まで触れる事はなかった長剣の柄に手を掛けている。全神経を研ぎ澄ませて辺りの気配を窺っているが、気の遠くなりそうな静寂があるだけだった。
「此処の、九宝寨の仲間か?」
『一応仲間、と言っておこう』
「……ヘッ、それなら出てきてくれよ。続きをやるまでだ」
『お前と遊ぶ気にはならないねぇ』
「あんた……まさか劉毅……って、女じゃねえよな」
『あんな男と一緒にするんじゃないよ。それにあたしは九宝寨の人間じゃない』
「でも北辰教、だろ?」
『盗人じゃないなら何故こんな真似をした? お前は九宝寨に恨みでもあるのかい?』
女の声はリンの問いには答えず、別の問いを返してきた。
「此処の奴らが九宝寨の人間だとは知らなかった。相手は誰でも良かったのさ。派手に暴れさえ出来るなら」
『何の為に?』
「北辰のお偉いさんに俺の腕を認めさせる為だ」
リンは長剣から手を放し、近くにあった椅子を引いてそこへ腰を下ろした。相手は依然として何処に居るのか定かでなくどっちを向いて話せば良いのかも分からない状態だが、とりあえず会話は成立しており女の声も殺気立っている訳でもない。こちらばかり気を張っても疲れるだけだと考えた。
(やる気になれば向こうから出てくるだろ)
『方崖にその腕を売りに来たっていうのかい?』
「ま、そうだ」
『その程度じゃ要らないと思うけどねぇ』
「ヘッ、そうだろうよ」
リンは溜息をついて項垂れる。
「此処の奴らがこんなに弱いとは思わなかった。これじゃ俺の腕を証明する事にならねえもんな。……あんたはどうやら此処の男共なんかより遥かに出来そうだな」
『何故そう思う?』
「あんた、妖術使いかなんかだろ?」
『――』
返事が無いのでリンはまた辺りを見回した。
「声は聞こえても気配が無い。どうやったらそんな事が出来る?」
『……方崖で、何をする?』
「何、と訊かれても困るが……とりあえず、北辰七星に入れてもらう。空きがあんだろ?」
『……そうか。フン、お前か』
「ん? 何がだ?」
『こんな所で遊んでないで方崖に行ってみるんだね。此処の連中を相手にしたって何の足しにもなりゃしないよ』
「いや、もう行った。けどもうずっと何の音沙汰も無しなんだよ。だから此処に来た」
また女の返事が途切れる。リンは立ち上がりもう一度辺りを見回して何も感じないのを確認すると表の庭に出た。
(まさかこいつらと一緒に寝転がって隠れてる訳じゃないよなぁ)
目の前に転がっている連中に混じって女が居ないかと探してみるが、やはりそれらしい者は居ない。
(当たり前か。本当に居たら笑っちまうよな。何で一緒になって地べたに寝転がる必要がある?)
『劉毅が此処に居たならお前の算段は狂ってた。まあ元々あまり意味は無かったけどねぇ』
リンがまた石段に腰を下ろしかけた時、再び女の声が耳元に響いた。先程よりも声が鋭くなったように感じられる。
(外に居るのか?)
リンは一瞬動きを止めたが、結局そのまま座り込む。
「やっぱり劉毅――七星は強いかい?」
『無駄口叩いてないで、此処を離れるんだね。劉毅がお前を放ってはおかない』
「別に相手してやっても良いんだけどな」
『……今夜生き延びる事が出来たなら、明朝、方崖へ来るがいい』
「今夜? 何があるんだ?」
『九宝寨がお前を探す筈さ。殺す為にねぇ』
「そいつらはもう少しマシかい? 俺は別に隠れるつもりはねえよ。何だったらこのまま此処に居たって良い」
『そうかい。まあ好きにすれば良いさ。しかし二度と方崖には近付けない』
「何で」
『九宝寨の敵は北辰教の敵。まあ、この街でだけの話だけどねぇ』
「だったら一緒じゃねえか。今夜の内に俺のした事が北辰にも知れるだろ? もう誰か報告に行ってるんじゃないのか。此処の奴らも幾らか逃げてったしな」
『もう一度方崖に上がりたいなら、黙って聞くんだよ。入れる様に手配しておいてやるから』
「へぇ、そいつはえらく親切だな。そしてあんたはただの北辰教徒じゃあない訳だ」
『覚悟を決めて来るんだね。お前の望み通り、七星がお前を試す事になるからねぇ』
「本当か? 誰だ? 劉毅でも良いぜ? あ、もしかして、あんたかい?」
『何故そうなる』
「七星には女が居るよなぁ? 武林に名高い北辰七星だ。こんな妖術が使えてもおかしくない」
『馬鹿馬鹿しい。妖術などあるものか』
「じゃあ今こうして話してるのはどういうからくりなんだ?」
『あたしはずっと前から隠れてもいない。お前の良く見える場所で、お前に話し掛けている。ハ……お前のような鈍い奴が相手なら誰だって妖魔にも神仙にもなれる』
視界の片隅に不意に赤い色が現れた――ような気がした。リンの視線がその赤に吸い寄せられる。今まで全く気に留める事の無かった場所、そこに、一人の女が立っているのをリンは初めて知った。
この屋敷の庭は広く建物から正門とそれに繋がった塀までの距離は近くはない。だが全てが霞んで見えるほど遠い筈もない。ただ、門に集まっている人の群れに自然に目が行ってしまいその周辺が見えていなかったのだろうか。リンは門の脇に伸びている塀の上など見ようとしていなかった。気付いたのはその赤が動いたから――赤い裳を着けた女がそこで立ち上がり、動きがあったからである。
(あれが、そうなのか? でも何で囁くような声がこの距離で届く?)
『いいかい、方崖に来るまで劉毅に見つかるんじゃないよ』
女は塀の上でこちらに背を向ける。
「待ってくれ! あんたの名を教えてくれ! あんた! 七星だろ!」
リンは勢い良く立ち上がったが、女――林玉賦はそのまま塀の向こうへと姿を消した。