第十二章 二十四
再び髭面の男が雄たけびを上げながらリン目がけて飛び掛る。リンも今度はそれを避けようとはせず、前へと踏み込んだ。
「よし、これで終わろう」
長剣の切っ先が風を切る音を響かせてリンに迫ったが、体に触れる事は無かった。髭面の男の剣の腕が他の者と比べて如何ほどであったかを知るには余りにも時が短すぎる。振り下ろされた剣が地面に触れる時、既にリンの拳は思い切り髭面の男の腹に叩き込まれていた。
「吐くなよ」
リンはその後素早く後ろに退き、また元の間合いで立つ。髭面の男は苦痛に顔を歪めつつ、腹を両手で押さえてそのまま地面に突っ伏した。
後に残された赤袍の男と手下数人はしきりに口を動かしていたが声にならず、体を震わせている。リンはじっとその様子を眺めてから、行け、と短く言うとその者達はその言葉を待っていたかの様に一斉に駆け出した。
(……こんなので良かったのか? なんだか……拍子抜けだな)
リンは改めて辺りを見渡した。気を失って倒れている者は相変わらずそのままで、まだ何とか動けるという者達は皆、門の外を目指して身をよじっていた。
「九宝寨、か……。嘘だろ」
リンは建物に上がる石段に腰を下ろすと溜息を洩らし、ぼんやりと辺りに視線を投げる。
(不味いかもな。劉毅か……。しかし何で劉毅の手下がこんな奴らばかりなんだ? 役に立たねえ奴らばかり此処に集めてあったとか? 本拠は此処じゃねえもんな。ああ……今更、遅えよなあ。あのおっさん、もっと詳しく教えといてくれりゃあ良かったのに)
この屋敷の連中が街の者にどう思われているのかリンは知らない。門の外にはかなり人が集まった様だが、あいつは凄いと思って貰わないと乗り込んだ意味が無いのだ。この屋敷をリンに教えた沖という男は此処の人間相手に腕を見せれば間違いないというような事を言っていた筈だが、ここまで弱い者ばかりでは何十人居たところで大した事では無い様に思えてくる。
リンは七星についても良く知っているとは言えなかった。一応、現在の六名の名くらいは知っているが、全ては噂のみで得た知識である。九宝寨の寨主が七星の一人だという事も此処へ来て初めて知ったのだ。
(こりゃあ……北辰の七星って大した事無いのかもな。くっそーこんなとこまで来てやったってのによ)
リンは肩を落として項垂れるが、またすぐに顔を上げた。
(……ん? まてよ? 七星がこれだけしょぼいなら……俺、どうなっちまうんだ? 少なくとも北辰教の縄張りの中じゃ最強って事だよな。おいおい、俺が教主様になっちまうかぁ?)
今度は目を輝かせながら頬を緩める。
(あ、でもなぁ。北辰の奴らが総出で襲ってきたらさすがに不味いな。あの崖に上がっても話どころじゃねえかも。とりあえずはこっちから乗り込んで先手を……うーん)
リンは頭を抱えた。
門の外から中を覗いている街の者達は座り込んだリンのその意味不明な動きを怪訝そうに眺めていた。
(……運が良かっただけだ。寨主以下、目ぼしい幹部も居ない。だが、それにしてもあの小僧……)
沖は人だかりの中から抜け出し少し離れてから門を振り返った。胸の鼓動がまだ治まらない。よもやあのリンが一人残る事になろうとは想像だにしていなかったのである。腕を示したいという目的は聞いていたが、まさかとんでもない裏があってそれに加担してしまったのではあるまいかと不安で仕方が無い。とにかくこの場を去らねばと歩き出したが、ふと横の塀の上にいる人物を思い出した。
中の騒動は収まった。だが、彼女はずっと変わらない姿勢で表に背を向け、じっとしている。
(何故、手を出さない? 劉毅様とは特に不仲とも聞かぬが、九宝寨には関わらぬと? あの小僧が北辰の敵であったなら何とする?)
彼女がこのまま去るのか、それともリンを捕らえるのか。彼女――林玉賦が相手をするとなればあのリンもここまで。抗いようが無い。幾らなんでもそれだけは間違いないと思っている沖は今すぐ去るか最後まで見届けるか悩み、足を止めたままだった。
リンは空を見上げる。まだ青空に真っ白な雲が浮かんでいたが、もう少し待てばその雲も徐々に赤味が差してくる筈だ。
(どうする? 宿に戻るよりはこのまま行くか……。まだ伝わってなけりゃまた追い返されるだけだが、さすがにそれは無いだろう? あの総監とやら、怒り狂ってるかもな……)
リンが門の方に視線を戻すと、未だ多くの見物人達がこちらを覗き込んでいる。リンの視線に気付く度に、それを避けようとでもしているのかうごめいているのが分かる。
(おっさん、居ねえかな?)
沖も見ているのではないかと思ったが中から見えるのは群集のごく一部であり、その中には見当たらない。沖に訊けば何か次のうまい手立てを教えてくれるかも知れないなどと考えていた。
『もう、終わりかい?』
不意に声がする。それもかなり近い。付近に人の気配など一切感じていなかったリンは思わず飛び上がる様にして石段から立ち上がった。
すぐに辺りを見回して声の主を探したがそれらしい人影が見当たらない。呻き声を上げている男達は居るが、先程聞こえた声は女のものだった。それにまるで耳元に囁かれたかの如く、すぐ近くに感じた。
(どこだ? 中に隠れてんのか?)
リンは石段を上がって建物の中を窺う。
『物盗りなら急いだ方が良いねぇ』
リンは思わず耳を塞ぐように手で押さえ、首を回した。声が近すぎて一体どの方向から聞こえたのかがさっぱり分からない。初めて経験する、異様な感覚である。
リンは意を決して勢い良く建物の中へ飛び込むとすぐに辺りを確認するが、顔を上げて天井まで視線を遣ったものの誰も居ない。この屋敷は大きく建物にも多くの部屋がある様だがリンは奥まで探そうとはしなかった。声の主はすぐ近くに居る筈なのだ。
「何処だ! 出て来い!」
『此処には大した物は無いと思うけどねぇ』
「俺は盗人じゃねえ。くそっ……何処に隠れてやがる」
『もう少し声を張って貰わないと聞こえないよ』
女の淡々としたその声が、リンの耳に捻じ込んでくるように響いていた。