第十二章 二十二
屋敷の中は変わらず騒然となっているのに対し、門前の集団は一気に静まり返る。皆、一様に後ろを振り返り、殆どが口を開けたまままるで時が止まってしまったかのようである。
「フ、いつの間に九宝寨がこんなに大人気になったのかと思ったけれど……入りたいって訳じゃなさそうだねぇ」
林玉賦は屋敷の門に群がった人々を悠然と見遣りながらそう言って笑う。
この日の林玉賦は薄い沙羅の衫に素肌を薄っすらと浮かび上がらせていた。衫の下には赤い胸当てがあるだけで、とても大胆な姿である。好んで身に着ける真っ赤な裙は緩やかな風を受けて広がり、肩に掛けられた披帛と共に舞う。
この林玉賦の身装には皆大いに目を引かれたが、この姿が特に珍しいというわけでも無かった。林玉賦がこの様に華やかで女性らしい衣装を纏うのを好むという事を、この街の者は良く知っていた。
武林には女武芸者も数多く存在するが、荒事に臨むにあたって裙を着けるのを好む者は殆ど居ないだろう。不測の事態を除き、色や刺繍、装飾品はそれらしくともやはり下は褌子の武術着、或いはそれに近い動き易い衣装を身に着ける。常に男装する者も居る程で、武芸の妨げにならず、そして敵に侮られぬ事を念頭に置いている。
林玉賦もその様な装束を纏う事もあるのだが、それに拘る事は無い様だ。むしろ『それ』っぽくない姿で現れ、或いは宮廷女子の如く、或いは芸能者の如く、目に鮮やかな色目の大きな袖、長く広い真っ赤な裳裾を舞わせる事を好んだ。
そして、その艶やかな姿が、相手に恐怖を刻み付ける。複雑に入り組んだ、林玉賦の肢体を包む布の襞。その奥を覗こうとするのは危険極まりない。そこにあるのは果たして蜜か、毒か――。
成熟した色香を放つその肉体に具わる、歳を経て円熟味を増したその体術は時に官能的ですらあるが、それこそが対峙する者を死地に招き寄せる林玉賦の罠であるのかも知れない。その誘う様な肢体に吸い寄せられる敵の眼を、同時に彼女の持つ無数の得物もまた狙い定めているのである。
「おい、道を空けろ」
誰かが発したその声に群衆が身動きを始める。門の中央を境に徐々に人の塊が二つに割れていき、林玉賦の前には中へと続く一本の道が現れた。
「ハ、これは大した見世物だ」
門の中の様子を一瞥した林玉賦はそう言うだけで動かなかった。
門の手前からだけでは中の全体を窺う事は出来ない。しかし門に縁取りされた視界にはひっきりなしに男達が現れは消え、現れは消えして相当慌しく動いている。右から左へ、地に足を着ける事無く吹っ飛んで消えていく者さえ居た。無手の者、或いは長剣を振りかざして駆ける者。本来なら近付きたくない現場ではあるが、成る程、門を隔てて見物するにはとても良い見世物である。ただ、中で演じられている何かの、話の筋は誰も理解していない。
「滅多に無いことだからねぇ。皆、楽しんでいきなよ。あたしも邪魔はしないさ」
林玉賦は群衆が作った屋敷への道には一歩も進まず、そう言って横を向いて歩き出した。
(おいおい、中のあれを止めるんじゃないのか)
誰もがその姿を半ば呆然と見送りながらそういった意味の事を胸の内で呟いていた。
しかし林玉賦はそのまま立ち去るつもりは無かったらしく、少し行ってその足を止める。屋敷の塀を左手に眺め、視線を上げると次の瞬間、その身体が跳ねる様に飛び上がった。ほんの一瞬である。塀の上に文字通り舞い降りるかの様にふわりと広がる真紅の裙に人々の目は釘付けになり、ホウと溜息を洩らす者さえ居た。
林玉賦は裙を塀の上に広げたまま腰を下ろす。どうやらそこで中の様子を見物しようという事らしい。そこで群衆は我に返り、再び身を寄せ合って門の中へと向きを変えた。
騒がしかった屋敷の中の様子が、徐々に変化していく。激しかった動きが少しずつ減り、それに伴って音も減っていく。声を荒げる者は殆ど居なくなっていた。
(こいつ何なんだ? くそっ! 寨主に何て言えば良いんだ……)
髭面の男がその太い腕を戦慄かせつつも前にかざして構え、正面のリンを睨み続けている。
状況は大した説明を要しない程、単純だった。単身乗り込んできた若い男はいきなり喧嘩を仕掛けてきて、数十居る男達をいとも簡単に打ちのめしていく。何処の武芸で、どの様な技であるかなど考えるのは全く意味が無く、精妙さも、美しさも一切関係の無い、ただ闘争本能しか持たない原初の人間同士の争いに見えていた。
リンとその周りを取り囲む九宝寨の男達は、やがて睨み合いの硬直状態となる。リンに飛び掛ってもまた弾き飛ばされるかその場に崩れ落ちるしかない様に思われた。
「ちょいと、休憩するか?」
リンは髭面に向かってそう笑いかける。戦い始める前と比べて声も息遣いも、そしてその余裕の表情も全く変化が見られない。
「……正直、その言葉に甘えて一休みしたいところだがそうもいかん。お前は確かに腕が立つようだな。だが関係無い。お前がどうあろうと俺達は命尽きるまで戦わねばならんのだ」
「いや、だから命まで取らねえって。そう大袈裟に考えるなよ」
リンの物言いは変わらずお気楽そのものだが、訳も判らず迎え撃つ九宝寨にしてみれば仲間を次々と打ち倒されて悠長な事は言ってられない。乱れる気配すらないその息の根を止めてしまわねば全滅の可能性まで出てきてしまった。数百居る九宝寨のほんの一部だけがこの屋敷に集まっているが、此処でそんな事態が起これば江湖に知られた九宝寨の名が地に落ちてしまう。
表に人が集まり、自分達が一人の若造に手玉に取られているのをしっかり見られている。もうこの時点で景北港九宝寨の名声が崩れ落ちるのは間違いなかった。
(油断……? いや、あの若造のせいだ。なぜあれほど腕の立つ奴が突然やってきて俺達を襲う? 油断も何も、何か考える暇も無くこの様ではないか)
武芸の応酬というよりはただの喧嘩。腕が立つという表現を用いるのはどこか違う気がしないでもないが、全く歯が立たないこの状況を見るとやはり、そういう事なのだろう。
(寨主がお戻りになれば……)
髭面の男がふとそんな事を考えると同時に、門の横、塀の上にある人影が目に入った。
(あれは? くそっ、何で今此処に居やがる、あの女……)
さらに焦りが込み上げる。思い切った様に勢い良く腰の長剣を抜き、その切っ先をリンに向けた。
「殺せ! 何としても生かして帰すな!」