第十二章 二十一
「他所者か。此処がどういう場所か理解してないようだな。だが、此処を選んだ事は間違いじゃあ無い。確かに名を売りたいなら此処で暴れるのが手っ取り早いぞ。まあ、生きて出られればの話だがなあ。お前、何処から来た? 本当に俺達を知らねえのか?」
顔は微かに笑っているがそのぎょろ目を上下させてリンの全身を観察しながら、男は数歩進み出る。
丁度それに合わせる様に集団の中からもう一人、こちらはわりと身形の良い、目立つ赤い袍を纏った中年の男が歩み出て来ると、先の髭面の男の横に立った。それから二人は互いに額を近付けて何やら言葉を交わしている。雰囲気からその者もどうやらこの集団の中では身分が――身分と呼ぶ程の区別がこの男達の中にあるのか定かではないが――幾らか上であるようだ。
また髭面の方がリンに訊ねる。
「お前は……喧嘩を売りに来た、という事で良いのか?」
「ああ、そうだ」
リンはにっこりと微笑んで頷いた。するとまた男二人は小声で何か話し出す。リンは溜息を一つ吐いてそこへ口を出した。
「なぁ、ややこしい事は何も無い筈だろ? あんたは今お集まりの皆さんに、『やっちまえ!』とか何とか、号令してくれるだけで良いんだけどな」
「……そう急くな。お前は今さっき来たばかりだろうが。お前が何なのかさっぱり分らん。何処の者だ?」
「何処だって良いだろう?」
「そうはいかんな。一人で乗り込んで来るなど怪し過ぎるわ。何処から来たか言え」
意外にもこの髭面が警戒しているのか慎重な態度を見せるのでリンは落胆した。すぐに自分を捕まえようと動いてくれれば即、乱闘になって自由に暴れられると思っていたからだ。
(ああ面倒だ。何も言わず適当に殴っとけば良かったか? 無視して始めるか……)
やり過ぎるのは不味い。問答無用で始めて向こうが本気でこちらを殺しに掛かるのと、あらかじめ自分の意図を伝えておくのでは、やり易さに違いがあると考えた。もっともその差は殆ど無い様に思われるが、とにかくリンはそれを妙案だと思っていたらしい。
「言えんのか? お前、此処を九宝寨と知って来たんだろう?」
「……九宝寨だって? 景北港だろ此処は」
リンの反応に偽りは無さそうである。また髭面と赤袍の男がひそひそと話す。
九宝寨とは土地の名。そしてそこを本拠とする集団の名でもある。リンが沖に教えられて来たこの屋敷はその九宝寨が、誼を結ぶ太乙北辰教の本拠景北港に置いた出先の拠点であった。
「九宝寨なら知ってる。場所も。此処より西の、山賊か何かだろ? 此処と関係あんのか?」
リンが問う間も、二人は視線を送ってくるだけで話を止めない。
「あんたら、九宝寨の仲間か? 北辰と組んでるから、こんなとこにも居るのか?」
「おい、聞いてんのかよ」
それにしてもこの屋敷の者は皆、見るからに気が短そうで、厳つい顔の男達ばかりというのに、皆押し黙ってリンを睨むばかり。最初あれだけ騒がしかったのが髭面が出て来て話し始めた辺りから静まり、後は一切動こうとしない。表に居た四人の態度も同様であった。リンはこういった集団を見慣れていたが、どうも此処の連中からは他所と違う毛色を感じていた。
「若いの」
今度は赤袍の男がリンに話し掛けて来る。
「九宝寨の本拠を知っているのなら、そこへ行く事を勧める。腕試しと言ったな? 向こうならすぐにお前の相手になるだろう。お前が何処の誰であろうとな。此処とは比べ物にならん数がお前を歓迎する。……この街どころか、武林に広くその名を轟かせる事も出来よう」
此処で良いという先程の髭面の言葉とは反対の事を言う。髭面は赤袍の男とのひそひそ話の中でたしなめられでもしたのか腕組みしながら口を噤み、異論は挟まなかった。
「此処じゃ駄目だってのか? いや、もういい。俺は頼みに来たんじゃねえ。勝手にやりに来たんだ。始めさせてもらう」
リンは言い終えると不意に地を蹴り身を躍らせ、正面の髭面に打ちかかった。
それほど距離があったわけではない。髭面と赤袍の二人は言葉を発する間も無く、弾かれるように後方へ退く。それが合図となり周りの男達は待ってましたとばかりに再び怒号を上げ、リンへと襲い掛かった。これを赤袍の男が止めようとしたとしてもそう簡単にはいくまい。リンの視界は周囲から押し寄せる男達で一杯になり、先の二人の姿は見えなくなっていた。
門前は人で膨れ上がっている。極めて平穏なこの景北港の街ではちょっとした騒ぎが一たび起これば瞬く間に人を呼ぶ。今回はこの九宝寨の屋敷、というのもそれを助長しているのかも知れない。他はともかく、この屋敷及びその周辺で何らかの騒ぎが起きるなど人々の記憶には無い。
門の正面に居場所を確保した一部の者にしか中の様子は見えないのだが、塀を越えて聞こえてくる荒々しい怒号に呼応するかの様に表の群衆の熱も高まり、かなりの騒ぎになりつつあった。
「何事だ?」
「何でもへんな若造が此処に突っ込んで行ったってよ。中で暴れてるらしい」
「何だと? 何処の奴だ? まさか真武剣とか言うんじゃあるまいな?」
「知らん。だがたった一人らしい。何処かの命を受けた刺客かも知れんぞ。もう結構な時が経ってるが中の騒ぎが収まってないという事はかなりの使い手じゃないか?」
「劉寨主はどうした?」
「今、屋敷には居られぬ様だ。寨主が居られたならとうに収まっておるわ!」
「一体、何の騒ぎだい?」
「ハッ? 何を聞いてたんだ? 邪魔だ! 向こうに行って――、……あ?」
人だかりの後方でさっぱり中の様子が窺えないこの男は次から次へとやって来る野次馬への説明役と化していたのだが、ついに苛立ちが頂点に達し声を荒げる。そして後ろを振り返って睨みつけた新たな野次馬である筈の声の主を認めると、思わず目を見張り言葉を失った。
「あんたらの方が余程、往来の邪魔だと思うけどねぇ?」
「り、林……」
「んん? あんた、あたしの知り合いかい?」
「こっ……これは失礼を! 林玉賦さま!」
男が半ば叫ぶ様に呼んだその名前に、前方に夢中になっていた群衆の顔が一斉に後ろを振り返った。