第十二章 十八
「何だ? あんたも疑ってんのか? ま、仕方ねえよな。まだ此処では見せてないんだからな。そこをどうにかしてえんだ……」
「どうにか? その腕を披露するという事か? 張総監に会うところまでいったのだろう? ならば腕を見せろという事になったのではないのか?」
「いや、その時は何も無かった。また呼ぶから待ってろってよ。で、それから何も言ってこねえ。ちゃんと宿も教えてあるのにな。遊びで来てんじゃねえってんだ」
リンは口を尖らせて宙を睨みつける。それから思い出したように、自分が注文した『この店で二番目に安い酒』の入った酒壷を取ると、沖の目の前の空になった酒杯に近づけた。
「何かねえかな?」
沖は黙っている。『何か』と言われてもそんな方法は簡単に思い付きそうも無く、頭を捻る気にもならなかった。リンは勝手に酒を注いでいく。
「例えばあの方崖で一番、仲良くなれそうな奴とか居ねえかな? 気難しいおっさんとかじゃなくてさ。でも小物じゃ駄目だ。影響力の強い奴じゃねえとな」
(そんな話を聞く方崖の幹部など居る筈が無かろうが。それこそそんな事をして遊んでる暇などあるか)
「知らないか?」
沖はそれに首を振って答えた。
「そもそも何故、北辰教に入ろうと思うのだ? 近年、この北辰教周辺は至って平穏だ。昔に比べればな。今は特に武芸の優れた者を集めようとしている訳でもない。おぬしが名を挙げたいのならもっと他の……、そうだな、例えばおぬしは南方から来たそうだがあっちには荒廃した街が無数にあり賊徒の類が威勢を張っておるそうではないか。その辺をいくらか片付けてやれば即座におぬしは江湖の英雄と認められよう」
「あれは駄目だ。切りがねえよ」
リンは鼻で笑って沖の意見を即座に一蹴する。
「そんな事して名が広まりでもしたら、奴らずっと俺にすがりっぱなしさ。『今度はどこそこで盗賊が――次はあそこにおかしな奴らが住み着いて――』。知らねえよ。ちったあお前らも根性見せてみろって話だ。まあ無理な話だけどな。あいつら端から戦う気なんざ持ち合わせちゃいねえんだ」
奴らだのあいつらだのというのはその南方で賊に苦しめられている住民達の事だろう。大抵の悪党どもは土地の者を力と数で脅し、その生活を破壊していく。そして被害を被る住民達は何の力も無い平凡な民。戦う気概を持つのは結構な事ではあるが、現実にはそれは非常に困難である。気力だけで抗う力など手にする事は出来ないのだ。リンの言葉は半分はその通りであり、もう半分は無理な話。全てひっくるめて救ってやれば江湖の英雄と呼ばれる事は間違いないのだが。
江湖ではとりわけこの類の話が非常に好まれる。江湖は広く、遠く離れた処の出来事を伝聞する頃には事態は全く変わってしまっている事が殆どであったがそんな事はお構い無し、あたかも自分達が体験しているように勝手に事件の謎を解き、またある時は全く見ず知らずの名しか聞いた事の無い者のその人物評まで熱く議論してしまう。暇つぶしの娯楽である。
まるで乱世であるかのように荒廃した土地が存在し、そういった場所には常に悪人が蔓延るが、時としてそういう土地にこそ英雄と人々に謳われる人物が現れるものだ。今の武林で各派を取り仕切っている長老衆なども皆、若かりし頃に厳しい修練を積みながら正義の剣を振るい、大いに名を江湖に広めた。そういった英雄好漢が活躍して一たび名を挙げれば、その名は瞬く間に江湖を駆け巡る。今、国中がそんな人物を待望しているという証でもあるのだ。
リンはまるで経験済みだというようにそう話した。実際に助けてやったらそうなったと言うなら分かるが、沖にはどうしてもこの若造がそこまでした事があるとは到底思えない。そもそもリンなどという名はまったく聞こえてこなかったのだ。やったとしてもこの景北港まで届く程の事はしていないのは確かだ。
「北辰は今、千河幇と揉めてるんだろ?」
「いや、揉めてなどおらん」
沖はいかにも何でもないといったふうに、努めて冷静に答える。
「敵の味方に付く奴は、やっぱり敵だろう?」
「……若いおぬしには分らんかも知れんが、そう単純ではない」
「フン、どうだかな。まあいい。……今、七星には空席があるだろ?」
「七星……空席? ああ、確かに七星は今は『七』ではないが」
「そこに入れてもらおうかと思ってるんだ」
「ハ……」
いよいよ沖は言うべき言葉を失った。この街の子供らが同様の事を口にする時期があるがそれは現実的な目標となる筈も無く、単なる憧れからくる夢物語に過ぎない。いい歳になってまだそんな事を言っているような者はこの景北港には居ないのである。
(七星も昔の様にその腕を見せる機会は殆ど無くなってしまったからな。こんな若造にまで舐められてしまう……)
そう考えたところで、沖の頭にふと考えが浮かんだ。それはただ目の前の、自分の腕を過信していい気になっているらしい若造を懲らしめる為の悪知恵の様なものであったが、現実というものを知らしめるには都合良く、尚且つこの単純そうな男はすぐ食い付きそうである。
沖は考え込む様子を見せておいてから、
「ならば……」
言葉の後に間を置いてリンを真っ直ぐに見た。
「おぬしの腕をこの街に喧伝するのに良い場所がある」
「おっ、いいねえ! 何処で何するんだ?」
案の定、リンは間髪入れずにそう言って身を乗り出した。沖は微笑を浮かべて頷き返す。
(喧伝……そう、どんな結果だろうと、この街の人間が嫌でもおぬしの事を喧伝してくれよう)
沖は立ち上がり、街を見下ろせる窓の傍に寄るとリンを振り返った。すぐにリンも続く。
「あそこに――」
沖の指差した先は、陽の光を受けて輝く屋根が密集した市街中心部から少し外れていた。
「周囲より幾らか黒っぽく見える屋根の、大きな屋敷があるだろう? 庭も広く緑が此処からでも良く見える」
「ああ、あるな。あそこは何だ? 北辰のお偉いさんの屋敷か何かか?」
「まあそんなところだ。そしてあそこには多くの人間が居るんだが確かに皆、北辰教の仲間。しかも、おぬしがその腕を試したいと言えば恐らく、喜んで相手になってくれるであろう男達が大勢……というより一人残らずそんなのばかりでな」
「ほーう」
リンは沖の言う屋敷に目を凝らしている。口許には笑みを浮かべていた。
「なんでそんなのが集まってんだ? 俺が行って全部負かしちまったら、そいつは流石に不味い……よな?」
「あーいや、まあそうなったらそうなったでおぬしの名は、きっとこの景北港で知らぬ者は居なくなるな。あそこで勝てば……間違い無くそうなるだろう」




