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流浪一天  作者: Lotus
第十二章
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第十二章 十五

「長老衆も、あの時は殷総監に頼り過ぎたのだろうな。陶峯教主に似て奔放で好き勝手に動き回る事が出来る。桁違いに腕は立つし一人で武慶に乗り込む事だって可能だというのだからな。教主が亡くなってすがりたくなる気持ちも分からんでも無い。ただ、下駄を預けて長い間そのままにしておいたのが不味かったな。急に殷総監が消えてしまってまた混乱だ。そうこうしてる内にいつの間にやら新総監誕生で、余所様の事より方崖が分からんという教徒もまだ多いはずだ」

 男は一人一気に喋ってから酒に手を伸ばし、喉を潤した。

「おい酔ってしまったんじゃないだろうな? 張総監はよく方崖を降りる事があるらしい。滅多な事を言わぬ方が良い」

「お互いにな」

 二人はそう言い合うと揃って僅かに身を縮めた。

 此処は景北港市街に数ある酒楼の中でも大きい部類の店で、他にも客が多く入っている。店は三階まであり、この二人は一番上の三階で食事を摂っていた。良く晴れているこの日は東西に面した戸口を連ねた様な大きな窓が開け放たれ、東に海の水平線を望む事が出来た。

 見えている水平線の位置はまだ東海ではなく、大きな湾の内側である。景北港では船を使った南方との交易が行われているが、船で出発して暫くはひたすら東に向かわねばならず、南に進路を変えるのは随分先の事だ。今も多くの船が行き交っているがここからは遠く、小さな船影が木の葉の様に見えた。

「これ以上大きくなる必要もあるまい……」

 一人が目を細めて明るく光る海を見つめながら呟く。

「ん?」

「我らが武林に進出する事になったのは陶峯様が教主となってからの事だ。本来ならば太乙北辰教と武術界に接点など無かった筈。歴史は長い。多少なりとも武装して迫害から北辰教を守るべく多くの先達が戦いを繰り広げる時代もあった。それは我が身を守る為。武林などというものは何の関係も無かったのだ。陶峯様がたまたま武芸に優れていて武林の諸派に勝ちたいと思われたからあのような事になったが、……誰にも止め立てなど出来ぬわな」

 前教主陶峯がまず始めたのは、太乙北辰教という集団による強引な道場破りみたいなもので、初期の頃は陶峯自ら相手と定めた武林門派の拠点に乗り込んだ。形式的には真っ当な腕比べであるというのが陶峯の言い分だが、集団で乗り込んで荒らしまわった挙句、死傷者を多数出すというその行いは即座に武林諸派の反感を買う事になる。ちょっかいを出して面白がる遊びはすぐに終わり、真武剣派など武林の中核であった門派がその他各派に結束を呼び掛けて太乙北辰教に対抗する事を決めると、それは本格的な抗争へと発展した。

「その、武力を身に付けて様々な迫害に抵抗してきたという歴史――、もしそれが無ければとうに我らは絶えていた。何とか存続出来たとしてもこの景北港で細々と続いているだけだったろう。守りの力は必要だ。しかしこちらがわざわざ敵を作りに行くなど、あり得ない考えだ」

「ほう、陶峯様は間違っていたか?」

「間違うとかそういう事ではなく、付け火のいたずらが取り返しのつかない大火事になってしまったという事だ。陶峯様の武芸が武林でも類も見ない秀でたものだったというのが――」

「優れていたのがまずかったか? しかしまあとにかく、火はあらかた消えたろう。殷総監が武林をなだめてくれた。どうやったか知らんがな」

「それも謎だな。そもそも殷総監は一介の農民に過ぎなかったが何故、武林の重鎮とそのような話が出来る? うちの内部の事は、実際に動いたのは長老衆だっただろうから分からんでも無いが、殷総監はそんなに頭が切れるのだろうか? 話には学問の方はさっぱり出て来ぬが」

「腕で脅したとか」

 一人が笑って言う。あくまで冗談だという様に大袈裟に唇をひん曲げている。

「まさか。話が余計こじれるわ」

「だろうな」

 二人は同時に外に視線を移し、揃って目を細めた。話は途中の様だが自然に会話が中断し、しばらくそのままだった。

 夏、この広い江湖でこの街ほど涼しい土地は他に無い。丁度海から上がってくる風がこの酒楼にも届き、緩やかに吹き抜けていく。ぼんやりと外を眺めているといつの間にか瞼が自然に落ちてしまう、そんな日和であった。

「……殷総監は、武林制覇に興味は無かったんだろうか」

「んん?」

「陶峯様と殷総監、武芸の腕はどちらが上であったろうな?」

「俺は、殷総監だと思うね」

「何故だ? 見た事も無いのに?」

「ハハ、見ても分からんかも知れんな」

「で、何故そう思うんだ?」

「そりゃあ、あれだ。陶峯様が殷総監と腕比べをしようとしたという話を聞いた事が無いからだ」

「それは、やって負けるのは嫌だからとかそんな単純な理由か?」

「それで充分だろう? 陶峯様が今の七星を方崖に集めた時、あれは多分、力で従えたんじゃないかと俺は思う。ただうちに来いと言って、はい分かりましたなんて言う連中ではあるまい」

「そうだな。周婉漣以外はな」

「殷総監が方崖に来たのは陶峯様が会ってみたいと仰ったからと聞いているが」

「そうだ。当時は東淵に住んでいた」

「かつての陶峯様なら絶対に自ら剣を交えてみたいと考える筈だろう? 一夜に千を斬るなどと言われる男だ」

「ん? 少し増えてるぞ」

「殷総監には大した差ではあるまい。で、陶峯様は当然その腕前を見てみたい。だから七星にやらせてみた」

「しかも全員同時に当たらせてな」

「それだ。陶峯様は一目見て分ったんだろう。一人ずつ相手させても無駄だとな」

「ほう、分かるものかね。そういうのは」

「らしいな。真に優れた者は相手の技量を即座に見抜くという。つまり俺にはさっぱり分からんというのはそういう訳だ。ハハ」

「それほど殷総監は武術に優れる――か」

「ん? 何だ今更。謎の多いお人だが、それだけは確かな事」

「それ程の腕があるのに、殷総監は武林制覇に興味は無かったのだろうか……最強の剣……不敗剣……」


「なぁ」

 呼び掛けの声がどこからか聞こえたような気がする。しかし二人は特に気に留めなかった。風は穏やかで音を立てたりはしないがその風に気分を良くした客達の陽気な話し声が店内に充満していた。

 


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