第十二章 十三
「という事だから、来て頂戴。もうお待ちなの」
「……わかった」
周婉漣が顔を上げてそう答えると叡はまた微笑んだ。もしこの場に他の幹部一人でも居ようものなら叡の言葉遣いもここまで砕けたものにはなるまい。教主の命をこのように軽々しく告げるなどあり得ないのだ。この三人の間においてのみ許される、そんな空気が此処にある。
「婉漣、今何処にいるのさ? また拝宮長老の処かい?」
拝宮というのは方崖にある場所の事で、そこを司るのが拝宮長老である。九長老筆頭で、尭という。林玉賦は周婉漣のこれからの居場所を尋ねている。周婉漣は長く暮らした方崖を降りた後、拝宮長老と呼ばれている尭長老の所有する景北港の屋敷で世話になっていた。他にあてが無ければ行く処はそこしか無い筈だった。
「あんた一人の頃を見計らってお邪魔するよ。どうせ何処にも行きやしないんだろ?」
「ええ、そうね。ここのところ尭長老はずっと戻られていないからいつでもいいわ」
「何? あなた尭長老は苦手?」
叡が笑いながら顔を覗き込むので林玉賦は横を向くと、
「教主様のお話も是非聞かせて貰いたいねぇ」
そう言って、二人を残し去って行く。彼女こそ普段何処で何をしているのか周婉漣にも分からなかったが、きっと夜にでもふらりとやって来るのだろう。
「聞かせられる話だと良いのだけれど」
ふと呟く様に言った叡を周婉漣は視線を向けるが、すぐに叡は踵を返す。
「行きましょう」
先を行く叡に、周婉漣は何も言わずに従った。
叡は人目を避けようとはせずに紫微宮の中央を通り、教主の居室に向かう通路を進んで行く。途中、多くの者とすれ違ったがその殆どはこちらを見るなり低頭して畏まり、二人が通り過ぎるのを待っていた。方崖幹部には一人も出会わなかった。
「教主様は体調が優れずお休みになられているという事になっているから」
そう話す叡の歩調は、少し緩やかであるように周婉漣は感じた。
奥へ進むに連れて周りから人が消えていった。方崖での身分により立ち入る事が許される場所は制限される。
「それで、外はどうだったの? まさか此処の方が良かったから戻ったという訳ではないわよね?」
歩きながら話す叡はまっすぐ前を向き、ずっと真顔のままだった。周婉漣は何と答えれば良いのか分からず黙っていたが、叡はそれを気にするでもなく続ける。
「教主様は、あなたが戻った事を本当に喜んでおられた。多分……教主様はもう、心をお決めになられたんだわ。もう何も知らない子供じゃない。婉漣、此処へもう戻ってしまったのだから、覚悟を決めて教主様のお気持ちを聞かなければならないわ」
周婉漣はそれを聞くと体を強張らせ、立ち止まってしまった。するとすぐに叡は振り返った。
「勿論、聞くだけじゃない。あなたも、お話するのよ。どうしたいのか、あなたの気持ちを」
「私は……私は何も……」
周婉漣は言葉を詰まらせたが、叡はその続きがはっきりと聞こえている様だ。
「何も変わらない方が良い? 今まで通り?」
「どうして、急に……そんな……」
周婉漣は視線を彷徨わせてぶつぶつと呟いた。心持ち肩が上がり力が入っている。これほど動揺するなど滅多に無い事だ。
「婉漣、ごめんなさい。確かに急だわね。戻ったばかりというのに」
叡が腕を伸ばし、そっと周婉漣の細い体を包み込む。幼子をあやす様に小さく体を揺らしながら、小刻みに震える周婉漣を抱き止めていた。
「だったら……どうしてそんな事を言うの? どうして忘れたら……いけないの?」
周婉漣の洩らす声は殆ど泣き声で、今にも消え入りそうだ。叡に体を預け、震え続ける。 まるで別人の様だった。周りがどんなに騒ぎ立てようともぴくりとも動かず瞼を伏せて黙ったまま――それが周婉漣である。口の悪い者は『あれに感情というものは無いのではないか』と揶揄するほど、沈着を通り越して物言わぬ人形の様にただそこにあるというだけの存在。周婉漣に近い一部の人間にはそんな事は無いという事が分かるのだが、あまり人と接する事を自ら進んですることの無い周婉漣をそう思う者は少なくなかった。口を開かないからといって頭の中に何も無いという事になるわけでは無い。逆に強烈な感情が渦巻いていたのかも知れない。だが、周婉漣はその胸の内を体外へ微塵も洩らす事は無かった。
近くには叡以外に誰も居ない。この光景を見ている者は居ない。周婉漣がそれを確認したのかどうかは分からないが、もし誰かが潜んでいたりしたとしても彼女がその気配に気付かない筈が無い。
仮に誰かが話を聞いていたとしても、何の事か全く分かるまい。
「でも、聞いて。婉漣、間に合ったの。あなたは戻って来た。そして全てが張総監の思い通りになる前に、教主様は決心をなされた。二度と、自分の知らないところであなたが苦しんで、一人消えてしまう事が無い様に。まだ、今なら間に合うの」
「忘れてしまえばいいのに……。私は、忘れようとしていたのに……」
「婉漣。教主様はきっとあなた以上に、あなたを忘れられない筈よ。それに、殷汪様も――」
周婉漣は思わず顔を挙げ、叡を凝視する。
「殷汪様が、何?」
叡も視線を逸らす事無くじっと見つめ返す。
「殷汪様は何度も、教主様に言い聞かせるように仰られていたの。『お前は何をおいても守らねばならない。可能かどうかなど関係なく、ただひたすらに彼女を傷付けようとする者から守る意思を持たねばならぬ。間違いなくそれは、内から現れる。それを退けられるのは、教主たるお前の力だけだ』と」
周婉漣は叡を見つめたまま、また顔を歪ませていく。見開いた瞼から涙が零れ落ちた。
『教主となって間もない今は困難かも知れないが、心を通わせる事の出来る者を探せ。まだ見つかる筈だ。九長老は張新と距離を置きたがっている者が殆どだ。そして皆、事情を知っている。尭長老とも良く相談するように。いいか、怠るな。知ってしまった以上、もし怠ればお前は、『不孝の子』である――』
「それは、いつの事なの?」
「あなたが、この方崖を離れる直前」
「嘘! あの頃既に殷汪様は街を出られていた筈だわ!」
叡はゆっくりと首を振った。
「当時、殷汪様が此処に出入りしているのを知っていたのは多分、教主様と私と、あとはあの夏という者だけだった筈。もしかしたら蔡長老もご存知だったのかも知れない」