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流浪一天  作者: Lotus
第十二章
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第十二章 十二

 林玉賦はじっと返事を待っていたが、この場所で言えるはずも無く周婉漣は口を噤んだままである。林玉賦は溜息をつき、そして顔を逸らす。

「あたしはねぇ、殷汪様がこの方崖に戻る事ばかり考えてるんだ。婉漣、あたしは何も変わっちゃいないよ。だから――」

 顔を上げ、遠くを見つめる。普段は気だるげな雰囲気を滲ませてあまり人を寄せ付けないような林玉賦だが、今はどこか微笑んでいるような口許と光を帯びた頬が精彩を放っている。久しぶりに見る『林玉賦』だ、と周婉漣も頬を緩ませた。

「まだ当分の間、あんたの味方でいられるはずさ」

「……そうね。私も多分、あなたと同じだと思う」

 林玉賦は周婉漣の言葉を聞いて、今度ははっきりと口許に笑みを浮かべた。

 

「それはそうと、またあたし達を使って勝手に遊んでるのが居るみたいだねぇ」

 林玉賦は遠くを眺めたままで言う。周婉漣が何の事かとその横顔を見つめていると、林玉賦の顔がこちらを向いた。視線は周婉漣ではなくその背後を窺っている。

「ああ、そうね」

 林玉賦が言ったのは今この場の話なのだと合点がいき、周婉漣は後ろを振り返った。

 視界に人の姿は無い。林玉賦同様、周婉漣も気付かない訳が無かったが、放っておいてもどうという事は無い。用があるならそのうちそう言う筈だった。しかし『彼女』は暫く遊ぶ事にしたらしい。

(えい)! あんたまさかあたし達二人を相手に気付かれないとか思っちゃいないだろうねぇ?」

 林玉賦は紫微宮の一角、建物の隅に向かって少し鋭い声を出した。辺りに響き渡るような大声では無く、彼女は唇を小さく動かすだけで離れた相手にその声を飛ばすという功夫を身に付けている。確実に、届いている筈だ。

 辺りは夏の虫の喧騒が山から響いて来るくらいで、他には何も聞こえない。林玉賦の呼び掛けに対する反応は一切無かった。

「あんたが帰って来て、余程嬉しいのかねぇ」

「まさか」

「叡は相変わらずさ」

 林玉賦は久しぶりに戻って来た周婉漣にその叡という者の近況をたった一言でまとめて聞かせると、先程声を掛けた一角に向かって歩き出した。

「叡。あたし達相手じゃこの遊びは楽しめないよ」

 林玉賦は叡が隠れているらしい場所の手前で足を止め、また声を掛ける。するとあっさりと、一人の女性が姿を現した。

「あなた達が気付かない振りをするだけで私は凄く楽しめるの。もう少し気を利かせてくれても良かったのではないかしら?」

 叡はにこりともせず、かといって表情にも声にも棘がある訳でもない。ただ真顔で林玉賦に言い、それから周婉漣にも同様の眼差しを向けた。

 女性にしては上背があり三人の中では一番高く、しかも背筋を伸ばしてすらりと立つ姿は上品さを感じさせた。林玉賦と同じ世代の、この方崖に仕える侍女の一人なのだが、ただこの叡は特別な、侍女である。

 先程、尊星の間に集まるようにと伝えに来たのも侍女の一人であったが、一応この叡と身分は変わらない事になっている。無論、仕えている年月の長短がその上下関係を作るという事はあるが、それでいっても叡より長く居る者はごく僅かであり、方崖に居る期間は幼い頃から居る周婉漣とそう変わらない。しかしそれを特別というのではない。彼女は、侍女の中で最も教主に近付く事を許されている唯一の侍女なのである。

「あたし達はもう降りるんだよ? 何処までついて来るつもりだったのさ?」

「まだ此処を出たばかりじゃないの。ほら、もう少しあるでしょう」

 方崖を下る道に至るまでには確かに『もう少し』距離がある。しかしそれは本当に少しで、二人を尾けてそれが楽しめるとは到底思えない。

 子供じみた事を――と林玉賦は思うのだが、今更口にはしない。叡にはこういうところもある、とよく知っていた。

 教主の身の回りの世話をするには多くの人間が必要になってくる。実際多くの侍女が紫微宮の奥で働いているが、教主の姿を遠目にはする事があっても言葉を交わす事は殆ど無く、また原則許されてはいない。その侍女達と教主の間には、この叡を介さなくてはならないのだ。前教主陶峯の時にはそんな事は無かったのだが、その陶峯自身が息子である陶光が教主となる時にはそうする様にと指名して命じており、その点が叡を特別な存在たらしめている。

 教主と口が利ける侍女がたった一人などというのは無理があり、教主自身も不便極まりない。陶峯亡き今、厳密にそれが守られているとは言えないのだが基本的にはそのようになされており、やはりこの叡が多く居る侍女達の中で飛び抜けてその地位が高い。教主と共にある事の多い叡は一介の侍女とは違い、鮮やかな色使いの上物の衫を纏い、控えめではあるが宝飾品を身に着けた、秀麗な女性であった。

「どっちにしてももう終わったねぇ。教主様は……お休みかい?」

 叡が教主の傍を離れる事は滅多に無く、ほんの少しの間、外に出る事があったとしてもかなり気を使う事になる。自由になれるのは教主が寝ている時くらいのものだ。勿論いつ呼ばれるか分からないので夜中であろうとあまり離れられないが、幸い教主陶光は至って分別のある、あの陶峯の息子にしては意外なほどに心根の優しい青年へと成長しつつあった。叡にとっては楽な仕事であるのかも知れない。

「私は教主様のご命令で来たの」

「命令?」

 叡はゆっくりと頷いた。

「ハハ! まさかあんたに、『外で遊んでおいで』とでも仰ったのかい?」

 林玉賦は腹を抱えて笑い始めた。それがそんなに面白い事なのかと後ろで聞いていた周婉漣は首を傾げたが、確かに、もし教主がこの叡に向かってそう言ったとしたらそれはとても微笑ましい光景であるように思える。そう考えると周婉漣の口許も自然に綻んだ。

「婉漣。教主様があなたに会いたいそうよ」

 叡は林玉賦を無視するかのように一切表情を変えず、周婉漣に向かってそう告げた。すると、それに真っ先に反応したのは林玉賦の方だった。

「何だって?」

 林玉賦の笑いは直ぐに消え、眉を顰めて叡と周婉漣を交互に見遣る。

「張総監――じゃないよねぇ? あんたを遣すんだから、本当に教主が?」

「勿論」

 叡はようやく此処でにこりと微笑んで二人を見た。林玉賦も周婉漣の様子を窺ったが、表情からは何も読み取れない。周婉漣はじっと地面を食い入るように見つめていた。

「張総監は知ってるのかい?」

「総監はもう此処を降りられたわ。教主様もご存知よ。だから私がこうして出てきたの」

 全て問題は無いとでもいう様に、叡は平静そのもので急ぐ様子も無い。だから本人以外には何の意味も無い、後を尾ける様な真似事などしていたのだろう。この叡ならば本気で遊んでいたに違いない。

「降りた? 何しに何処へ行ったっていうのさ?」

「さぁ? それは分からないけれど夜まで戻られないでしょうね。いつもの様にあの侯と慮の二人を連れて行かれたわ。何しに出掛けるのか、逆に私の方があなた達に聞きたいのだけれど?」

 それを聞いて林玉賦は顔を歪め、視線を逸らした。

 


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