第十二章 十
劉毅は張新と侯且を交互に見遣りながら、
(ふむ、あいつの言う事は聞く気がある訳か。侯の台詞、少々芝居がかってる様な気もするが。……しかし変だな。あの謝の配下は命令でもないのにあんな処まで行ったのか? 秘伝書の件、知らぬ訳ではあるまいが。まさか秘伝書も殷汪も、どちらも放置するつもりか? 殷汪には最初あれほど拘って俺らにまで探させたくせに、もう飽きたか? 今度は俺達を、か――)
と、そんな事を考えていると、張新が七星から顔を背けたまま言った。
「方崖は、変わらねばならん」
話は変わったのか続いているのか、周りには判断しかねる。張新は構う事無くゆっくりと向きを変え、七星を見渡して続けた。
「我が教は――」
張新はそう言って話し始める。方崖の人間が太乙北辰教をそう呼ぶのは特に変わった事では無かったが張新がそれを言うのにどこかしら引っ掛かりを覚えるのは、張新が方崖を支配したいという願望を持っているというその事が今、劉毅の頭の中の大部分を占めているからだろう。
(考え過ぎだな。俺もどうかしてる)
劉毅が一瞬頬を緩めるのを張新は目ざとく見つけ、ジロリと睨みつけたがすぐにまた話を続けた。
「先主様のお力により江湖に於いて大いに栄えるまでに至った。この事はおぬし達の方が肌で感じておろう。真武剣、清稜、襄統、武林の名門と呼ばれた勢力が皆、先主様の前にひれ伏した」
(はて? そんな事があったかな? 聞いた事も無いがお前はそれを見たのか?)
「我が教の悲願であった武林制覇はもう殆ど成っていたと言って良い。しかし惜しい事に先主様は倒れられ、この武林に大号令をかけられる事は叶わなかった」
(大号令とは何だ? 陶峯教主が次に何をしようとしていたか、そんな事を当時子守のお前が知る筈があるまい)
「我らは先主様に詫びねばならぬ。全ては先主様の御威光あったればこそ、我が教は躍進出来たのだ。先主様亡き後、再び真武剣を筆頭に力を盛り返してきておる。千河幇も切り取られた。これはまことに由々しき事態。先主様がご健在であられたならこの様な事、決して許されはすまい。……我らは先主様のお導きにすがるだけの無力な存在であったことを認めねばならぬ」
(千河幇? あれはお前がそう仕向けたのではないか。フン、あの時、俺を差し向けた事をいずれ後悔することになるだろうよ。お前の目論見が何か、そのうち暴いてやる)
劉毅は張新が口を開く度に胸の内であざ笑う。突っ込みどころには事欠かず、楽しみすら感じ始めていた。
「殷総監は――」
次に張新は殷汪の名を口にすると反応を窺う様に一度七星を見渡した。一人だけ下を向いてつまらなそうに話を聞いていた林玉賦も含め、七星の視線はサッと張新の顔に集まる。今、殷汪を総監と呼ぶのは如何なる事か? 表情には出さないものの七星は皆、張新の発言を訝った。それを察知したかどうか定かではないが、張新は淡々と言葉を続けた。
「確かに先主様の後を受け、そのご威光を損なう事無く我が教を掌握し、安定を保っていた。力を盛り返しつつある各派が未だ我が教に対して慎重な姿勢を見せているのは殷総監の手による我が教の体制が維持されているからだ。これは誰もが認める処。……まさかその殷総監自身が離反してしまうとは、残念な事だ」
張新は呟いて宙を仰ぎ、目を閉じた。
(ハ……よくもまぁ)
全く以って白々しい芝居だ、と劉毅は思った。恐らく劉毅だけではなく皆、似た様な事を感じているに違いない。これまで張新が殷汪の太乙北辰教における功績についてなど一言も言及したことは無く、それどころか方崖を出た殷汪を追う事には消極的であった九長老ら方崖幹部の中で『逆賊討つべし』と一人、気を吐いていたのがこの張新である。確かに勝手に方崖を離れ、しかも替え玉を置いて総監を名乗らせていた事は、教主以下、太乙北辰教を欺く重大な罪には違いない。しかしながら、それによって太乙北辰教に害を成そうとしていたふしは無く、発覚する何年も前から殷汪は消えていたのだ。張新の連呼する『逆賊』という言葉と、急に自らの存在を主張し始めたその態度に、他の幹部達は眉を顰めていた。
(ようやく自分の地位も固まってきて、余裕が出てきたか? 殷はもう近くには居ない。気にする必要も無くなったか)
劉毅はそんな事を考えながらふと横に視線を走らせる。丁度その時、周婉漣の張新に向いていた視線が下がり、瞼がそっと伏せられるのが見えた。そしていつもの様に微動だにせず静かに佇む。劉毅はまた視線を戻す。
(何も思わぬ訳ではあるまいが……。ま、今は大人しくしておくに限る。お前が、次に動く時の為にな。……フ、楽しみに待つとしよう)
張新の話は続く。
「先主様のご威光も、殷総監の名も、既に無い。そう心して我らは新しい太乙北辰教を盛り立てていかねばならぬ。先主様のご意志を陶光教主様が継がれる。我らが実現するのだ」
張新が切り口上で言うと、間を空けずに侯且が一歩進み出た。
「我ら七星は先主様のご遺命を受けております。先主様のご恩に報い、陶光教主様への忠誠をお誓い致します」
侯且は真っ直ぐ張新に向かい抱拳してそう述べた。最早、何処から見ても従順な部下といった姿勢である。
「うむ」
張新は唸るような低い声を返す。無理やり押し殺した様な声で、不自然な音であった。
(ハハ、なるほど。俺達より先に会ってたのはこの芝居の用意という訳だな? てことは、こっちの慮にも台詞が――)
劉毅が隣の慮元沖の顔を覗き見ようとしたその時、張新が劉毅を見た。
「おぬしはどうだ?」
「んん――?」
劉毅は少しばかり慌てた様に顔を戻す。
「是非とも九宝寨には引き続き、我が教に力を貸して貰いたい」
張新の言葉に劉毅は首を傾げた。七星劉毅ではなく九宝寨寨主劉毅に、張新は話している。
「九宝寨が北辰に加勢するのに特に期限を設けてはいない筈だが? 俺が北辰七星である限り、そうなる。それとも、俺は七星から外れる事になるのかな? 或いは――もう外れてるのか? 俺が方々を徘徊している間に?」
劉毅がそう言うと、張新はフッと鼻で笑う。
「まさか、それは無い。北辰七星は教主様によって任ぜられる。如何な総監であっても勝手にその任を解く事など出来ぬ」
(誰もあんたが――など言っておらんのだが)
「もし教主様がおぬしの任を解くと言われたのなら、何人たりともその命に逆らう事は出来ないがね」
張新は引き攣った様な不気味な笑みを浮かべたまま言った。