第十二章 五
その後暫く話は続いたが、後はそれ程重要な内容ではなかった。解っている事は未だ少ない。
「また、寄らせていただいても宜しいでしょうか?」
周婉漣が訊ねると蔡元峰は黙って頷いたが、
「頻繁に顔を合わせるのは避けた方が良いだろう。更に探るには時間が掛かる故、そう話せる事も無いだろう」
「はい」
「私は方崖への復帰が許されたとはいえ、この屋敷に居る事の方が多い。たいした役目も回って来ぬのでな」
周婉漣は頷き返す。方崖で張新に気取られぬ様に気を使いながら会うよりはまだこの屋敷での方が易しい。
「それでは、またいずれ……」
「先程言った七星志願の男と遣る事になれば、私も見に行く事になるだろう。張総監はより多くの者にそれを見せたいだろうからな。次にそなたを見るのはその時かな?」
返事の代わりに周婉漣は此処へ来て初めて、はっきりと口許に笑みを浮かび上がらせる。薄く開いた瞼に覗く瞳と唇の紅い光が周婉漣を飾る。周婉漣の表情ではあまり見る事の無い、不敵な微笑であった。
来た時と同じ、周婉漣は一人静かに屋敷を辞去し、蔡元峰はこれを見送った。
(いかな張新とてあの者に手荒な真似は出来まい。あれは……ただの『七星が一人』では無いのだ)
「旦那様」
背後から声が掛かる。この屋敷で蔡元峰に仕える少年が、周婉漣が屋敷を出るのを見届けてから傍らに近付いて来ていた。
「初めてあの方を間近で見ましたよ」
少年は大きく見開いた目を輝かせながら蔡元峰に顔を向ける。
「そうか。この景北港に住まう教徒でもあの七星周婉漣を近くで見た事のある者は多くは無かろうな」
蔡元峰は誰も居ない門の外を目を細めて眺めつつ言った。
「最初、来られた時はびっくりしてしまいました。でも……そんなに恐ろしそうな感じは無かったなぁ」
「恐ろしい?」
「街の人の噂では、あの人が七星の中でも最も腕が立って、最も北辰教を知り、最も冷酷で――」
「馬鹿な。そう言う者達の中であの周と言葉の一つも交わした事のある奴がどれだけ居るというのだ? 武芸が優れているというのは北辰七星に選ばれている事から想像出来る。そして教主様に……仕えて久しい。あれはまだ若いが他の幹部連中と比べても方崖に上がったのは随分と昔の事。古参と言っても良いな。北辰教を知るというのは……陶峯様に最も近しい存在であったという事から連想しておるだけだ。フン、あまり表に出ないが故の噂に過ぎぬ。街の者達はその手の話が好きなのだ」
街の人間とはこの景北港の住人の事であり総じて太乙北辰教徒である。信者が方崖の人間の噂話をする事は殆ど禁忌であり、慕い敬う言葉を用いる事はあっても『冷酷で――』等とは口が裂けても言える事ではなかった。周婉漣を揶揄するかの様な物言いが出来るのは、彼女が突然この景北港を離れたので(ついにあの周婉漣が北辰教を捨てた!)という噂が教徒達にまことしやかに囁かれた為である。あくまでも仲間内で『囁かれた』のであって表向きは沈黙を守っていたが、その裏で瞬く間に広まった。そういう話ほど拡がるのが速い。実際、もう戻らないだろうと思える程の時が経過していた。
(勝手に方崖を離れたのは教主様に対する裏切りではないか! やはり『あの』周婉漣は腹に一物あったのだ! やはり――!)
「陶峯様、ですか? 先主様の……?」
少年は首を傾げる。蔡元峰は相変わらず視線を門の外に送り続けていた。
「……周は先主陶峯様に見出され方崖へ上がったのだ。まだ……幼い頃に」
「そんな小さい頃にですか。じゃあそんなに長く方崖で教主様に仕えておられるのに、どうして街の人達は『やはりあの周婉漣は』なんて言ったんでしょうか? 裏切る様な……本当は全然そんな事無かった訳ですけど、どうしてそんな風に思われてしまったんでしょうか? 前にも同じ様な事が?」
「……知っているつもりでしかない者達の口はよく回る。そもそも方崖にも上がった事の無い者が教主様に仕える七星の何が解ると言うのだ。あれらは皆、方崖にあって特殊な存在。よいか。その様な話に耳を貸してはならぬ。虚言で教徒を惑わす者は厳罰をもって処す」
蔡元峰は語気を強めて少年を睨むと、踵を返して屋敷の中へと戻って行く。少年はまるで自分がその様に言い触らしているかの様に蔡元峰にたしなめられ、納得がいかず口をへの字に曲げて蔡元峰の背中をじっと見ていた。結局質問に答えは出なかったが、周婉漣の件が自身に関係がある筈も無くすぐに忘れてもどうという事は無い。実際、蔡元峰の後を追って駆け出す時には既に頭から離れていた。
周婉漣は蔡元峰の屋敷を出た後、そのまま真っ直ぐ北へ向かう。人の多い大通りには出ず、先程と同じ様に田畑の間の小道を一人歩いていた。辺りに人は居たが皆それぞれ自分の仕事に勤しんでいる。昔から変わらないこの街の風景。
顔を上げ正面に目を遣れば、樹木が削ぎ落とされたかのように露出する岩肌の帯が山を上下に二分している。人が手を加えてこうなったとも、人がこの世に現れる以前からこの景観なのだとも言われており、真相は定かではなかったがどうも自然にそうなったとは思えない程、見事に整った方形の崖が、その帯の中程にある。しかし誰かが手を加えているのを見た者は居ない。遥か昔からこの様になっているからだ。
その崖の上には陽の光を受けて輝く黄金色の屋根瓦が見えている。黄金色に見えているのは陽の光の加減であろう。実際のその屋根は明るめの朱であった筈だ。
(細工は不要。今まで通りで。私はあの方崖を捨てる気など更々無かったのだから――)
周婉漣は自らに暗示を施すかの様に胸の内で呟くと、少し歩を早めてその輝く黄金色を目指した。
方崖紫微宮。太乙北辰教の中枢に、周婉漣は舞い戻る。
「他は? まだ来ておらんのか?」
「さぁて、婉漣はまだ見ないけど、あとの二人はとっくに着いてる……というより、此処に入り浸りさ。今や総監様と仲良しだからねぇ。知らなかったのかい?」
「少しは聞いてるが、確認はしておらんのでな」
「……周は来る。東淵から共に帰って来たが、何も変わった様子は感じられなかった」
「さぁそいつはどうかな? あれがもし何か考えを秘めているとしたら、お前だけじゃなく他の誰にも気取らせたりはしないだろう」
「あたしはそっちの方が面白そうで良いんだけどねぇ。一体、何処で何をやってたのやら。あんたは知らないのかい? 婉漣を追ってたんじゃないのかい?」
「まさか。何処まで行ってたのか俺も是非聞きたいもんだ」