第十二章 四
「真武剣……でございますか?」
「陸皓は、何を思ってあの品を方崖へ送ったのか? まさか、張新がその様に荷を利用すると読んで、殷総監の失脚を狙ったのか? しかしそれにしては余りにも……策が単純過ぎるように思えてならぬ。陸皓……」
蔡元峰は考え込むように卓上の一点を見つめている。
張新という人間を陸皓が何処まで知っているのか、蔡元峰には想像もつかない。というよりも殆ど知らない筈ではなかったか? 真武剣派は常に太乙北辰教に探りを入れ動きを観察している筈であり、張新という人物が今、方崖を動かしている事は当然掴んでいよう。しかし、張新の台頭はほんのごく最近の事である。その直前まで若き教主の側近でしかなかった男であり、方崖は紫微宮の深奥に潜むかの様に生きてきたのだ。真武剣派が方崖へ祝いの品を送ったのは殷総監が北辰を離れる直前。自分を含む九長老らこそ張新の威を不本意ながらも認めざるを得なかったものの、当時のその状況を外から眺めている真武剣派が既に察知していたとは考え難い。
「真武剣が祝いを贈る理由、張新が鏢局の到着を待たずにこれを襲った理由。何か繋がりがあるのではないかとずっと考えておるが、未だ解らぬ」
「鏢局の件が起きた時――」
周婉漣が訊ねる。
「あの夏天佑は何か申しましたでしょうか?」
蔡元峰は周婉漣をじっと見つめ返し、
「襲ったのは劉……、そう申しておった」
「しかしあの時、殷汪様は既に景北港を離れておられました。それはつまり……夏天佑が勝手に考えた事では?」
「殷汪どのはあの時、都に行っておられたようだな。それから戻ってはおられぬ。殷汪どのは鏢局の件をご存知無い可能性もある。確かに、夏の考えであろうな」
「そう考える理由は何だったのでしょう? 夏天佑はずっと、全て殷汪様の指示通りに動き、言葉を伝えるだけの役目であった筈」
「私は夏がそう言ったからそれを全て信じて劉が下手人だと考えた訳ではない。探りを入れるきっかけにはなったがね。夏の体は既にかなりの変調をきたしておった。精神的にも不安定であった様だ。……全く表にも出なくなったあの者が何故そう考えたか、今となっては知る由も無い。しかし、適当に考えたとも思えぬ。張新が『殷総監』という存在を疎ましく思っているという事に憤慨しておった。自分は『殷総監』であり、『殷総監』は殷汪どの。殷汪どのの敵は、己の敵――」
「……」
暫く沈黙が続く。考えを巡らせる、というより互いにぼんやりと物思いに耽っているという様な面差しであった。
「方崖へ?」
蔡元峰が思い出した様に訊いた。周婉漣は小さく頷く。
「はい。これから参ります。教主様にお目通りする事になっておりますが、果たして叶うかどうかは……」
蔡元峰の話では張新に邪魔されるかも知れないという事だったが、とりあえず今はどちらでも良いと周婉漣は考えていた。この景北港に残る為にも今は張新の前では大人しくしていなければならない。
「忠告、という訳ではないが、一つ言っておこう」
「何でございましょう?」
「北辰七星、その七番目だが――」
周婉漣はその言葉を聞いて、少し前に耳にした七星の七人目に関する話を思い出した。張総監が七番目にと連れてきた男を林玉賦が一撃で打ちのめしたという。
「張総監が何処からか連れてきた男の話は聞き及んでおりますが……」
「まだ続きがある。前は林であったが、今度はそなたか劉あたりが働かされる事になる様だ」
周婉漣は首を傾げる。
「林に負かされた男の話は随分と広まってしまってな。北辰教は七星の七番目を探していると。それを聞きつけた一人の男がなんと方崖まで乗り込んできた」
「それは……自分を七星に加えろと?」
「そうだ。フフ、北辰七星に志願するという。なんとも凄まじい自信だ。しかしこの男、武林での経歴などは全く分からぬ。どの門派の出であるのか……いや、それ以前に武芸を修めているのかどうかさえ――」
「それならば少し相手をすればその辺りはすぐ確かめられそうなものですが……。今度は私か劉がその腕試しをする事になるという事でしょうか? その男はいつ方崖へ来たのですか?」
「ひと月……にはならんな」
「では今まで試しもせず置いているのですか。張総監は」
「張新は……ハハ、いかんな癖がついたらまずい。『張総監』は、とてもその男が気に入らないらしいな。おかしな話だ。自分では七星にどうかと突然人を連れてきておいて、今度はわざわざ来てくれたというのに『追い返せ』とえらい剣幕で怒鳴っておったそうな。誰にも試させようともしなかった」
「……知らない者は七星に入れたくないのかも知れませんね」
前の七番目、喬高は先に七星となっていた劉毅との縁で七星に加わった。当時はまだ方崖における張新の発言力はそれ程強くは無かった筈、と周婉漣は記憶していた。当時この事に注目していた訳でもなくおぼろげな記憶ではあるが。この教主直属の北辰七星に思いがけず空席が出来、そこに自由に人を配置出来るとなれば自分に近しい人間、理想は思い通りになる人間を置きたいところであろう。
「しかし今もまだ居るという事は、張総監は追い出すのを辞めたのですね」
「そなたと劉がやっと戻って来たからな。張総監は勝手に行方をくらましたそなたらを、快く思っておらん」
「当然、そうでしょうね……」
「かといって劉については張総監も直接はあまり強く言えまいな。フッ、劉もその辺はうまく立ち回っておるようだが」
周婉漣は黙って聞いている。だが恐れてもいない。
(私は一人――。追放の命を下す事は容易。でもそれをしないのなら、私にも遣りようはある)
「その男、口はすこぶる達者の様だ。七星の誰が相手でも構わんと言う。頭がどうにかしているのでない限り、腕に相当の自信があるのだな。案の定、林が先の男同様方崖から叩き出すと息巻いておるが張総監はそれを許していない。恐らくそなたにさせるつもりだ」
「敗れれば、私を処分し易くなる――」
「張総監はそなたの腕前を理解しておらぬだろうから、そういう算段ではないか? 男の言う事を信じてこれは凄腕かも知れぬと思っているのだろう。フフッ、しかし万が一そなたが敗れる様な事があれば、これはとんでもない事だな。方崖に殷汪どのが現れた時以来の衝撃を目の当たりにする事になるかも知れぬ」
蔡元峰が笑顔を見せて言うので周婉漣は俯きながらも僅かに頬を緩める。蔡元峰の言う『その時』の事は、周婉漣は今でも鮮やかに思い返す事が出来た。