第十二章 三
「それからもう一つ。こちらの方が重要であったのだろう。先の――千河幇の鏢局襲撃の件」
蔡元峰の淡々とした声に周婉漣は一層深く眉を顰め事になる。
「『鏢局襲撃』? どう関係が……」
すぐに周婉漣の表情は一転し今度は驚きの色が浮かぶ。
「まさか、あれは北辰……張総監が?」
「……いや、証拠も無い。まだだ。まだ見つからぬが私は監禁される直前、七星の劉が張総監の命を受けてその賊を片付けに向かった事について調べていたのだ。そなたはあの事件を覚えているかな?」
「……詳しいところまでは分かりませんが、何があったのかくらいは」
蔡元峰は小さく頷いた。
千河幇の朱不尽率いる鏢局が北辰の縄張り、しかも景北港にかなり近い土地で賊に襲われてかなりの死傷者を出したというその事件については当然、周婉漣も聞き及んでいた。だが、周婉漣にとっては久しく記憶に留めておく程の出来事でもなかった。似た様な事件はこの広い江湖では起きない日は無いのである。太乙北辰教のお膝元と言える地での賊の狼藉という点においては多少は注目を集める出来事ではあったが、瞬く間に広まった伝聞を小耳に挟んだ程度の周婉漣にはどうという事も無い。景北港を離れる事を決めた、直前の出来事であった。
同じ北辰七星である劉毅が賊を始末したと聞いても、それは命令ならば当然であり何も感じない。劉毅が何処で何をやろうと興味は無かった。改めて思い返すと出てくるのは、『被害に遭った鏢局は殷総監が副教主になるその祝いの品を運んでいた』という事くらいか。
(真武剣からの祝いの品――。確かに不自然ではあるけれど……。私は……? それを誰から聞いたのだろう?)
「あの荷は謎だった」
蔡元峰の言葉が回想に偶然にも重なり、周婉漣はハッとなった。
「真武剣が何故、殷総監に祝いの品を送るのか? 先主様から代が変わって血で血を洗う抗争は終わった。陶光様はまだお若く、あのご性格だ。争いなど好まれぬ。真武剣としてはこれを機に……まぁ友好とまでは考えまいが互いに不可侵とする約定を取り付けたいところであったろう。あの頃は双方疲弊していたからな。『祝いの品を送る』というその方策だけをみれば、まあ納得は出来よう。しかし……殷総監に、とは如何なる事か?」
「殷汪様は……陶峯様が掲げた対真武剣の旗印……」
周婉漣の呟きに蔡元峰は大きく頷く。
「私は、千河幇の鏢局の者から話を聞き、その荷の目録も見た。その者の話では真武剣から『殷総監へ』ではなく『方崖へ』とだけ聞いたそうだ。武慶で預かった際には総帥陸皓もその場に居たという。さて、陸皓は誰にあの祝いの品を届けたかったのか? 当時、方崖でそのような祝い事と言えば、殷総監が副教主に……それしかない。では『殷総監へ』と告げなんだのは何故か?」
「本当に、『祝い』であったのでしょうか?」
周婉漣は上体を前に押し出し、真剣に聞いている。当時は全く気にも留めずに殆ど忘れかけていた一年前の鏢局の事件が、今になってとても気になり始めていた。あの殷汪が関係するというその一点に於いて――。
(すぐに調べていれば……。でも、あの時既に殷汪様は……)
「真武剣も中身については鏢局の者に目録を手渡しただけで祝いとは一言も言ってはおらぬようだ。しかしあの目録を見ればそれ以外考えられぬ。実用に足る物と言えば絹の反物があったがそのくらいか。恐らく上質のものであろうが量はそれ程無い。後はよく集めた物だと感心するが、各地の名産として名の知られた細工が数十点にも及ぶ。だがあれを見る限り……ただ祝いとしての体裁だけを考えたとしか思えん。あの陸皓が用意したとすれば、少しばかり粗末な、とも言えなくも無い。ただ集めただけの――」
「蔡長老様。張総監はその件に……どのように絡んでいるのでございましょう?」
周婉漣は先を急いだ。蔡元峰の話は複雑な様で細かに話を聞いておきたいのは山々だが、周婉漣はこれから方崖へ上がらねばならず、あまりゆっくりもしていられない。この地に留まり続ける事を決めたのだ。再び蔡元峰と話す機会は幾らでもある。
「荷が方崖へと届いた場合――」
蔡元峰は声を低く抑え、卓上を指し示すように指を伸ばしてコツコツと鳴らした。
「張総監が荷の中身を確認しただろう。恐らく私同様、祝いの品であると判断し、そして真武剣から殷総監への送られた物であると理解する。その荷には目録以外に何の書簡も無い。我が教に副教主が新たに立つその祝いのつもりならば、まず教主陶光様へ祝辞を述べる書状の一つもあって然るべきではないか? これは何とも、無礼な話であろう。教主様を無視した、真武剣と殷総監の遣り取り。張総監――いや、当時の張新はこの事をどう扱うかな? あの頃は既に殷総監は隠居も同然の状態であったが張新にとってその存在は邪魔であったろうな。教主様を連れまわす様になり我ら九長老に対してもその発言力を増さんと知恵を働かせておった様だからな」
「張総監はあの夏天佑を、殷総監と?」
「信じて疑わなかっただろう。滅多に顔を合わせる事は無かったと思うが、張新は殷総監のあの内功、特にいつまでも若々しい姿を保つ功夫を気味悪がっておってな。その奇妙な内功の副作用で体を壊したという噂も手伝ってか、たまに顔を合わせると怪訝そうに『顔付きが変わって来たな』と申しておったそうな。無論本人に直接言う訳ではない。取り巻き連中にだ。しかし、喜ばしい事だ。殷総監が弱っていくのはな。そろそろ止めを刺したいところであろう。長老衆も大方……頭は撫でてある」
「ですが、荷は届きませんでした。『それ』を使う事は出来なかった……」
「荷は方崖に届いた」
「えっ?」
周婉漣が眉を顰めて見返してくるその視線を蔡元峰は真っ直ぐ受け止める。
「鏢局は壊滅状態で三江村から退き返したが、荷は殆どを劉毅が方崖へと持ち帰った。荷は届けられたのだよ」
周婉漣は思わず息を呑んだ。それでは――劉毅は賊を追ってこれを討ったのではなく、その賊が劉毅という事か。しかし記憶では鏢局が襲われたという報が方崖に届いて後に劉毅が九宝寨の配下を率いて出た筈である。勿論、九宝寨は多勢であり先に人を遣る事は容易なのだが。
「しかし、届いて間も無く、殷総監役の夏天佑が自ら方崖から消えてしまった。張新の望みは叶ってしまった訳だな。……これが私の考えた事の一つだ」
「他にも?」
「私を監禁する理由としてはこれで充分だ。賊は劉毅か否か、つまり劉毅に命じたであろう張新の意図か否か。これについて私は調べようとしていたのだからな」
「ではやはり、張総監には隠したい事実があったという事ですね?」
「そう考える事も出来る、という段階だ。まだな。それに、真実はそう単純では無い。劉毅が荷を届ける役割を果たしたのは事実だが、何故劉毅でなくてはならぬのか? 放っておいても荷は届いたのだ。鏢局が運んでくるのだからな。それを考えれば劉毅の容疑は晴れる事になる。フッ、襲う必要性が無い。では張新が私をこの屋敷に閉じ込めたのは単に腹を探るような真似が気に入らなかっただけだろうか? まさか本当に『夏天佑に騙されていたから』という理由か? ……合わせてもう一つ、真武剣の方も謎だ」