第十二章 二
「張総監が私を監禁したのは――」
蔡元峰はそう言ってから周婉漣をじっと見て、
「それは……知っておるかな?」
「はい。私が此処を離れる直前の事でしたので。ですが、まさかこれほど――」
周婉漣の視線が一瞬逸れた事に蔡元峰は気付き、ほつれた糸の様に額に垂れ下がっていた白い前髪を撫で挙げると力なく笑った。
「フ……やっと自由の身になれた。ついでに方崖でのお役目からも解放して貰えればよかったのだがな」
「……教主様の許を離れたい、と?」
周婉漣の言葉にまた蔡元峰の溜息が洩れる。
「……いや。戯言だ。忘れてくれ。もうこうなれば思う事を遣り尽くすまでだ。以前の様に方崖への出入りが自由になったのは幸いだった。もし、殷汪どのがこの方崖に戻られるのならば、……それはとても困難な事だが、しかし希望は持てる」
「それは……殷汪様が戻られるかどうかは分かりません。ですが、私に『方崖へ』と言われたのは、そう考えておられるという事ではないかと思います」
周婉漣は城南で稟施会の当主、周維に言われるまで全く気付いていなかった。
『なぜ「方崖へ」としか言わないんです? ――方崖に何かあるんですかね?』
城南を離れてこの景北港に着くまで延々と考え続けてきた。周維の言葉は恐らく当たっている筈だ。
『あなたが方崖に居た方が良いとは思われませんか? 今は何もしなくても良いのかも知れない。内部に味方となる者が居る事で随分違ってきますよ?』
『戻るから方崖で俺を待っていろ――』
(そんな事を、あの方が言う筈が無い。『そんな』意味じゃない。……愚かな。思い上がりも甚だしい……)
幾度重ねたか知れない、そんな己の声をまた此処で繰り返した。その間、周婉漣の切れ長の瞳も、朱の唇も、微動だにしていない。胸の内はこれほど熱くなるというのに――。
「周どの?」
蔡元峰の言葉にハッとなり我に返る周婉漣。そして上体をやや前に出して蔡元峰を見つめた。
「蔡長老様。私にお教え頂けませんか?」
今までに見た事の無い周婉漣の表情だった。瞳を大きく見開き蔡元峰に向けている。座っていようが歩いていようが常にやや俯き加減で目を伏せている周婉漣の表情をこれほどはっきりと見たのは初めてかも知れないと蔡元峰は思った。
「……何をだね?」
「蔡長老様が抱かれておられる懸念とは、一体どの様なものでございますか? 方崖で、何かが起きている……起きようとしている?」
蔡元峰は暫く黙って見つめ返すばかりであったが、やがておもむろに口を開いた。
「張……総監の事だ。何かを――」
周婉漣から視線を外して顎を突き出し、宙を見据えて大きな息を吐くと、
「いや、表面的には単純な事なのだ。張総監が、我らと教主様の間に立ち塞がっている。方崖の他の長老衆でさえ直にお声を聞く機会は激減したらしい。総監という立場上、我ら九長老と共に太乙北辰教を纏め動かしていくのは当然だが、そこに、教主様のご意思は無い。殆どな。私の監禁は数ヶ月に及んだ訳だが、久しぶりに方崖に上がってみれば更にそれがひどくなっている様だ。真っ先に教主様にお目通りを願い、先の――夏天佑の件についての釈明……いや、お詫びしかないのだが、そう申し出てなんとかその機会が得られた。しかし、その場で教主様がお声を発せられたのはほんの二言三言。その場には当然の如く張総監が立会い、まるで張総監を介して言葉をお伝えしてもらっているという様な有様だったのだ。以前ならば考えられぬ。御簾まで下げられていたのだぞ。そう、明らかにおかしい」
話しながら蔡元峰の顔つきが徐々に険しくなりつつあったが、次の瞬間にはそれがふっと消える。
「そなたら七星は教主様の招集という事だそうだが」
「はい」
「そういう名目で、実際に会うのは張総監だけという事もあり得る。そなたや、劉は暫く此処を離れていただろう。フッ、『総監様』の小言を聞かされに行くだけかも知れんぞ」
「そうかも知れません」
周婉漣は既にその心づもりが出来ている。本当にもう戻らないというつもりで出たのだ。遥々城南の地まで行きかなりの月日が経った。今こうして戻って『最初から戻るつもりだった』と言っても、随分と勝手な行動である。無断で教主の許を離れたのは七星の役目を放棄したも同じなのだ。本来、小言どころでは済まない。
(それでも、どんな罰を受けようとも、何としても方崖に留まらなければ。何としても……)
蔡元峰が言葉を続ける。
「それでもまだ、張総監はあくまで教主様の補佐という立場を強調して振舞っている。九長老には『教主様のご意思を伝えている』そうだ。本当にそうなのかは解らぬが。そういう意味ではうまく動いている。何も――起こしてはいない。頭を低く低く下げたまま、隙を見せない。表面上はな」
周婉漣は眉を顰めて僅かに首を傾げた。
「つまり蔡長老様は、張総監は表立って何も事を起こしてはいないものの、いずれ教主様を傀儡として方崖の実権を掌握しようとしているとお考えなのですね?」
「既にその状態に近いがね。そして我が教の大部分の人間がそう思っている事だろう。しかしそれを誰も口にはせぬ。隙が無い。掴める尻尾をまだ出してはおらんからだ。『何も起きてはいない様に見える』と言ったのはその事なのだ」
「先程、『思う事を遣る』と仰いましたが、今、その尻尾が見えてきていると?」
周婉漣の視線が鋭さを増した。すると蔡元峰は俯いて、
「……そなたが本当は張総監の命で私の様子を窺いに来たのなら、既に大きな墓穴を自ら掘った訳だな。後は、大人しく底に横たわるだけだ。まったく私は妄想ばかりで実が無い」
「何をすれば、私を信じて頂けるでしょうか?」
「いや、今更何を言っても遅い。信じるしかない」
蔡元峰はそう言って静かに笑う。暫く何かを考え、頭の中を整理しているのか時折小さく頷く仕草を見せてから、再び周婉漣を見た。
「張総監が私を監禁した理由だが、私の考えでは二つある。一つは、あの夏天佑の件だ。偽の殷総監に騙され続けた失態……。そういう事になっているのだが、まあ妥当な処と言えよう。それにしても少し長い気もするが」
周婉漣はそこで殷汪と夏天佑の入れ替わりについて、蔡元峰はいつ、どの様に知り、どういった考えでそれを受け入れたのかを訊きたいと思ったが、短く済む話ではあるまいとも考え、黙って続きに耳を傾けた。