第十二章 一
景北港はすこぶる快晴である。中心部から少し離れて広い田畑の間の小道を歩いていると、最早自然の生み出す音しか聞こえてはこない。周囲を見渡せば作業をしている農夫の姿を確認出来るがそれは遠く、音は無い。
田舎の農村。まさにその典型といった風景であった。太乙北辰教の本拠で十数万の信徒がひしめき合う宗教都市――訪れた事の無い者はきっとそう想像している事だろうが、それを期待してこの街を訪れたならきっと落胆してしまうことだろう。多くの信者達の持つ信仰心を感じる事の出来るような立派な施設も、祭儀の様子も余程探さねば目にする事は無い。
(本当に此処の人々は『信仰』などしているのだろうか?)
そう疑う者も居よう。そういった者は立派な寺社が建ち並びそこかしこで出家の僧が連なって歩く姿を目にすればなるほどと納得するだろうが、それは根本的に認識が間違っている。太乙北辰教は仏門ではなくその指導者となる者達はいわゆる僧侶ではないので、見て分かり易い袈裟を纏っている訳ではない。托鉢もしない。いや、それ以前に、信仰とは人々の心の中にあるもので、街の風景を称したものなどでは決して無いのである。遠くで地面に座り込んで何やら作業に没頭している農夫の更にその心の奥。そこにあるのだ。
(私には、分からない――)
暫し足を止め、遠くの農夫を目を細めて見つめていた周婉漣は、再び歩き出した。街の中心部に程近い大きな屋敷に向かい、そしてそれはもう見えている。
屋敷の門の前に立つと、中から周婉漣の姿を見つけた少年が驚いたように目を丸くし、それから駆け寄って来た。
「長老様に目通りを」
「は、はい。どうぞ……こちらへ」
少年はやや急ぎ足で奥に向かうが、その後を周婉漣は辺りを眺めながらゆっくりと進む。外が眩しいほど明るい分、中は暗く感じられて少しひんやりとした小さな部屋に通された。そこで少年は少し待てと言ったが、屋敷の主が出て来るまで殆ど待つ事は無かった。
「周……どの」
部屋に入るなり主はそう小さな声で呟く様に言った。蔡元峰。太乙北辰教、方崖の九長老の一人である。
周婉漣はその顔を見て思わずいつも伏せがちな瞳を見開いた。歳の割に若々しい精悍な顔つきはそのままの様だが、口許に蓄えられていた黒々とした髭がいつの間にやら白くなってしまっている。黒がまだらに残っているといった感じで、それだけで随分と老け込んだ様に見える。頭髪に目を遣れば耳に掛かる辺りや襟足も白いものが目立っていた。
「……お久しぶりでございます」
周婉漣は一礼する。蔡元峰はその様子をじっと見つめた後、
「掛けられよ」
そう言いながら席を勧めた。
蔡元峰は椅子の背に体を預けた姿勢でぼんやりと周婉漣を眺め、黙っている。暫く見つめ合う様な状況だったが、周婉漣が口を開いた。
「この後方崖に参り、教主にお目通りする事になっております。その前に……ご挨拶を」
「私に、かね?」
「はい」
蔡元峰は溜息を鼻から洩らして目を閉じる。
「私にはもう何も無い。この街に――居てもしょうがないとまで思えてきた。そなた……何故戻った?」
「蔡長老様。私が戻りましたのは、殷汪様の命でございます。方崖へ戻るようにと」
周婉漣の思いがけない言葉に蔡元峰はこの上ないと言うほどの驚きの表情を浮かべ、周婉漣を凝視する。その後我に返ったのか辺りの様子を窺う様に素早く首を左右に向けた。
「誰も、居りませぬ」
周婉漣は真っ直ぐ蔡元峰を見つめ続けている。
「……まことか?」
顔を周婉漣の方に突き出して訊いたその声は掠れ、聞き取り辛かった。
「はい。夏ではなく、殷汪様でございます」
「殷汪どのは何と? 方崖でそなたに何をしろと? 今……何処に?」
その蔡元峰の問いに、周婉漣は答えず、
「やはり蔡長老様は、殷汪様とあの夏天佑については知っておられたのですね? ……最初から?」
「……」
蔡元峰は黙り込む。眉間に皺を寄せ奥歯を噛み締めるが、視線が泳いでるその様は明らかに焦りを表していた。
周婉漣は表情を和らげ、語りかける様に言う。
「蔡長老様。私は張総監の側の人間ではありません。それだけは知っておいて頂きたいと思います。殷汪様の命である事を明かしましたのは、これより先、蔡長老様にお知恵をお借りせねばならない事もあろうかと思いましたので――」
「待て。待ってくれ。何が起きているのだ?」
「『何が』――?」
「私には解らぬ」
蔡元峰は両の手で頭を抱え込む様にして下を向く。周婉漣はその様子に眉を顰めた。
「何も起きてはおらぬ。殷汪どのの出奔は確かに大事ではあった……。だが、既に殷汪どのは……殷総監は表には出なくなっていたのだぞ? 外に出たからといって我が北辰教の敵となった訳ではあるまい。それ以外には……何も起こっていない。しかし……方崖は徐々に変化してきている。この、不安は何だ? 解らぬ。解らぬのだ」
周婉漣はこの蔡元峰の言葉を全て理解出来た訳では無かったが、何となく言いたい事は解る様な気がした。
方崖に変化と言える出来事と言えば、一年前殷汪が居なくなり、代わりに張新が総監となった――ただそれだけである。そしてその後、方崖は何事も無かったかの様に平穏無事に見える。あの緑恒千河幇の真武剣派との関係の変化も決して捨て置ける事ではないが、それに対して方崖は今のところ特に何もしていない。己の知り得る限りでは――。
変わっていない様に見える。或いは誰かが努めてその様に振舞わせているのか。蔡元峰の感じている不安とは、目に見えていない処で徐々に変質していく違和感。多分そういう事なのだろう。しかしその細部は周婉漣にも解らない。恐らく蔡元峰は九長老として周婉漣では知り得ない方崖の内部について思うところがあり、こうまで憔悴してしまう程の不安、或いは猜疑心の様なものを抱いているのだろうか。蔡元峰は最近まで張新によってこの屋敷に監禁状態であったという。
(この方の知る事とその考えを全て、私も知っておく必要がある――)
周婉漣は自分だけでは知り得ない方崖を、この蔡元峰を通して見ようと考えている。加えて蔡元峰の掴んでいる、そして悩まされている『何か』について、知っておかねばならない。再び殷汪に会うその時までに――。