第十一章 二十四
劉毅はまっすぐ屋敷奥へと向かい、自室に入る。留守の間この部屋を使う人間は居なかった訳だが、全てに手入れが行き届いており綺麗なものだ。背に負った包みを降ろすとまず奥の寝台に腰を下ろし、脚絆を解きにかかる。外は相変わらず騒がしかったが『休ませろ』と言っておいたので誰も部屋に近付く事は無い。
それほど疲れを感じていた訳では無かったが寝台に腰を下ろしてから次第に体が重くなっていく様な気がした。
(ひと眠りするか……)
そう思って素足を寝台に放り出した丁度その時、部屋の前に人影が現れ、声を発した。
「寨主。華でございます」
「おう、入れ」
劉毅は嫌な顔一つせずにすぐそれに応じ、同時に部屋の扉が開いた。
入って来たのは丸襟の上品な衫を纏った初老の男。この九宝寨屋敷に住まう連中とは随分と違った雰囲気があった。だがこの華という男、れっきとした九宝寨幹部である。
華は寝台の上の劉毅を見ると、
「とり急いでご報告するべきものは何もございませぬ。また後にでも」
「いや、構わん。方崖はどうだ?」
劉毅は寝台に横になると手枕で華の方を向き、訊ねた。
「張総監のご機嫌が宜しいので、至って平穏無事でございます。あの蔡長老の軟禁状態も解かれました」
「ほう。どうなった?」
「以前と変わらず、九長老の職にあります。つい先日、教主様に目通りしたとか」
「ふむ。それは意外だったな。蔡どのは結局、出て行ったあの殷が本物か偽物か、解っていたのか?」
「それは何とも……。ただ、蔡長老はあの偽の殷汪、『夏天佑』に騙されていた、という事で張総監のお許しを得た事になっております」
「あの人物に裏表がある様には見えんが、長年、夏天佑と共に居た事は確かだからな。よく観察する必要があるな」
劉毅は寝そべったままではあったが、その眼差しは鋭いままで華を真っ直ぐ見据えている。
「はい」
「他は? そうだ、七星……方崖に居た奴らは変わりないか? 俺より先に周と鐘は戻った筈だが」
「数日前に屋敷の方へ戻られました。周婉漣……意外でした」
華はそう言って顎を撫でた。何か思いを巡らす様なその顔には薄っすらと笑みが浮かんでいる。
「そうか? 俺はまぁそうでもないな」
「それはともかく、慮どの、侯どのは随分と張総監と親しくなられたご様子。これも意外です」
「ほう。……さすがにそれは俺も同感だな。何をしている?」
「今のところ特には何も。ただ張総監に度々呼び出されている様ですな」
「あの二人、誰かになびく様な者達では無い筈だが……。フン、今は張新と互いに何か利用出来ないか探るといったところか? 調べる必要があるな」
劉毅は体を起こして胡坐をかき、脛を擦る。それから首を捻ったり背を伸ばしてみたりと体を盛んに動かした。
「既にやっております。ただ、相手はあの慮元沖、侯且の七星二人。余程慎重にしませんと……」
劉毅は頷いた。その後、華が何かを思い出したのか込み上げる笑いを抑えるようにして言う。
「そう、林玉賦どのですが」
「ん? あれも何かあるのか? ずっと方崖に居た筈だな?」
「ええ。彼女は相変わらず気ままにやっておるようです。他の二人の様に張新にはなついておりません」
「名を変えたのではなかったか? ……何だったかな」
「林汪迦、ですな。寨主もお忘れになる程です。誰も呼ばぬのでふてくされて撤回してしまいました。ま、その方が良かったでしょうな。今のこの状況で『汪迦』は無いかと」
「まったく、あれはお気楽なものだ。フッ、ある意味羨ましい」
劉毅と一緒に笑っていた華が続ける。
「林どのといえば面白い事がありました。寨主。喬高様が欠けた今の『六星』を元の七星に戻すべく、張総監が何処からか一人の男を連れて来たのですが」
「何? ……どんな奴だ? 今、七星を名乗るのに相応しいと言える人間など俺は思い浮かばん。知られておらん奴か?」
「ええ。どこの馬の骨とも……。それで、張総監は『北辰七星は何をおいてもまず武芸。せめて林玉賦並みには使えねばならん』とか申されたそうです」
「ハハッ! 張新に武芸が解るか。あの林の武芸が」
「その事が、当の林どのの耳に届いてしまったようで」
林玉賦は喬高を除く六人の中では最も七星入りが遅く歳も四十前で、三十代半ばの周婉漣に次いで若い。しかし一番若い周婉漣は十代から方崖に居り最も古い七星である。次に劉毅。この周婉漣と劉毅の武芸が一際評価が高い事から、何となく古くから居る者ほど優れているという様な印象を持たれていた。実際は互いに遣り合う事の無い七星の優劣を比べるのは難しい。
林玉賦の腕前にも高い評価がある。派手な衣装を好み、見る者を圧倒する程鮮やかな舞の如き立ち回りに、そこから繰り出される冷酷無比な技の数々、数千とも表現される毒針の嵐。北辰信徒の間ではそんな彼女の手に心酔する者も少なくないのである。これが敵であれば忌み嫌うべき最たる者であろうが――。
「フ、怒り狂ったか?」
「張総監は、林どのにその男と手合わせするよう命じました」
「林は素直にそれに従ったのか?」
劉毅は華を見ながらニヤついている。
「そこは張総監も考えました。教主様をお迎えして御前試合としたのです。七星とは教主様に最も近い存在でなくてはなりません」
「……それは俺への皮肉か?」
劉毅は華を少し睨む様に見たが、華はお構いなしである。
「こうなれば林どのも遣るしかありませんな。で、その試合は行われました」
「林を倒せる、或いは引き分ける事が出来れば相当な腕前だが……そんな奴を張新が見つけられるとは思えんな。どうなった?」
「どうもこうも――」
華は両腕を広げて大袈裟に首を振って見せる。
「開始直後、……男は瀕死となりました」
劉毅は黙ったまま華を見つつ続きを待つ。
「林どのの怒りは全て対峙したその男に叩き込まれてしまった訳でして、全くなす術も無く倒れたそうです。災難では済みませんな。その男、瀕死のまま方崖から叩き出されたそうですから、不憫でなりません」
「まぁ、当然の結果だな。林とまともに遣り合える様な奴ならとっくに名が知れ渡っている筈だ」
劉毅はそう言って再び寝台に四肢を放り出した。