第十一章 二十二
「え? 会っている?」
劉子旦が孫怜を見遣ると樊樂や胡鉄も傍に寄って馬を止め、一行は停止した。
皆が顔を見合わせて考える中、洪破天は孫怜に、
「会った? 来る道中にか? そうか、おぬしは知っておるのか」
「はい。しかし殷さんから聞いた訳ではなく偶然お会いし、その折に互いに殷さんを知っているという事が分かりましてそれから付き合いがあるのです。私と妻は随分と世話になっております」
「そうか……。まだご健在であられたか。もうかなりのご高齢の筈」
「……はい」
孫怜は俯いて眉根を寄せ、沈痛な面持ちとなった。だがすぐに劉子旦が声を上げたので気を取り直してその顔を向ける。
「もしかしてあの堯家村のお婆さんですか!」
「ああ」
孫怜はまた微かな笑みを浮かべて頷いた。
「あの穆さんが殷さんの義姉、という訳だ」
劉子旦はホウと息を吐き、孫怜をじっと見たままである。
(孫さんの周りには面白い話が一杯だなぁ)
新たな情報を得て彼の想像――或いは妄想――は幾らか膨らんだに違いなかった。
樊樂らもこの話に幾分驚きはあった様だが劉子旦ほどの感銘を受けてはいない。思いがけず耳にした話であり、想像の世界に入り浸りになる事の多い劉子旦とは違い、そううまく即座に整理など出来ない。
「とりあえず進もう。話は出来るだろ?」
樊樂は馬首を翻し、立ち止まった一行に進むよう促す。皆、頷き合ってそれに応じ、再び先へと進み始めた。
「……何じゃったかのう?」
洪破天は呟き、また可龍を見遣る。それから何かに納得したかの様に一人頷いた。可龍は何の事か解らず目を瞬かせて洪破天を見返している。
「名は何じゃ?」
「は?」
「お前の名じゃ」
「あ、ああ……可龍と――」
「私は比庸と申します!」
ぼそぼそと答える可龍に対して、訊かれていない比庸が随分元気に割り込んでくる。二人共もう既に話の中で名乗った様な気がしないでも無かったが、はっきりと思い出せないので改めて自分の名を口にしてみた。
洪破天は顎を突き出して目を細め、二人を交互に眺めつつ小さく何度も頷いた。
「ごちゃごちゃと取り留めの無い話をしたが、まぁ、どうでも良い」
「……ハァ」
「しかし、お前の習ったと言うその槍、それは忘れるでないぞ。お前の親父どのが槍を振るう姿だけでも良く思い出しておくのじゃ。その技が優れておるかどうかなど、今のお前が考える事では無い。良いな?」
「……はい」
可龍はとりあえず返事というよりも曖昧な相槌で洪破天の言葉に応じた。
(どうして俺の槍の話になったんだろう?)
東淵を出てよりずっと黙ったままだった洪破天が急に話し出したかと思えば、意外にも自分の事に興味を持ったらしく話を続けた。
(何を……思っているんだろう?)
そんな事を考えてみても、やはり気難しそうな老人である事には変わりない洪破天の心中など解る筈も無い。
視線を上げて洪破天をチラと窺う。話し方や声色からして機嫌は悪く無さそうだがやはりしかめっ面の様にも見える。今はそうなだけかも知れないが。ただ、後ろから睨んでくるだけであったのが、「話せる」と分かっただけでも、可龍は心が幾らか安らいだ様な気がした。
可龍と洪破天の会話が途切れ、暫く沈黙が続く。辺りは殆ど暗闇で馬蹄の歩を進める音しか聞こえず、どうしても重苦しい雰囲気が漂ってくる。そんな中、胡鉄が洪破天を振り返った。
「あの、娘さんは――」
洪破天はすぐにじろりと胡鉄を見返したが何も言わない。その様子を見て胡鉄はいささかたじろいだが、それを誤魔化すように少し高い声を出す。
「あの傅婦人に弟子入りとか何とか……」
ずっと可龍が感じていた睨みつける様な視線を今度は胡鉄に向ける洪破天。口を結んだままで何も言わないその様子に胡鉄は益々焦ったが、話し掛けておいて今更引っ込めるのもばつが悪い。
「あの、あの方は何とも上品なご婦人でしたが、何をされている……んでしょうね……ハハ……」
そこへ助け舟のつもりなのか全くの個人的興味なのかは分からないが劉子旦が口を挟む。
「傅どのの紅門飯店といえば、紅門の花、傅紅葵。……さん、ですよね。江湖一の舞姫という噂は、あの南の辺境、城南でも聞く話ですから」
劉子旦が話を継いでくれたおかげで胡鉄はホッと胸を撫で下ろす。そしてまた洪破天の顔色を窺ってみるが、表情に変化は無さそうである。だが、小さく唇が動いた。
「それが、何じゃ?」
洪破天の吐き捨てるような物言いに劉子旦と胡鉄は僅かに肩を竦めて顔を見合わせると、洪破天はやはり二人を睨んだまま続けた。
「もう居らん。お前達も見ておらんじゃろうが」
「……ええ、まぁ。後宮に召されたそうですね。でもあの、梁媛――さんですか? あの娘さんの美しさも素晴らしいですね。傅婦人はもしや、傅紅葵さんに舞などの指導をされたのではありませんか? あの物腰、というか雰囲気はそうではないかと……まぁ勝手な想像なんですが」
劉子旦は睨まれているせいか努めて明るい声を出しているが、それに効果はあまり無い様である。
「それと媛に何の関係があるんじゃ」
「あーいや、ですから、あの娘さんが弟子、というのはもしや、『紅門の花』を継がれるのではと……まぁ勘ぐっただけでして……。あっあの娘さんなら……と」
「……媛なら、何じゃ?」
洪破天の声が、徐々に低く、そして荒くなっていく。
(あの娘の話はまずかったのか?)
何故かは分からないが洪破天は明らかに機嫌を損ねている。とにかくこれはまずいと考えた胡鉄は不意に大袈裟なほどの愛想笑いを浮かべ、
「い、いやぁ、何でもありません。それにしても、あの梁媛さんはとても可愛らしい――いや、美しい娘さんですね。こう、何と言うか、ちょっと驚いてしまいましたよ。ハハ……。本当に……素晴らしい娘さんで……」
「誰にもやらん」
「……ハ?」
「媛は、誰にも渡さん」
少し話が噛み合っていない様に思われたが、とにかく洪破天はまるで唸る様に声を出して凄み、胡鉄と劉子旦の口を塞ぐ。そんな中、
(頼むから怒らせないでくれよ! もう!)
可龍が、そう心の中で独り言ちた。