第十一章 二十一
「そのご先輩は若い頃、東涼黄龍門に入門してその武芸を学んでおったそうじゃ。当時、東涼は武林では全く注目されてはおらなんだでのう、その師が何というお方であったのか、他にどれ位の門人がおったのか、定かではない。ただ、始祖洪淑華に連なる正当な筋であったという」
可龍、比庸はただ黙って洪破天の話に耳を傾ける。声は少し前を行く胡鉄、劉子旦にも届いており、時折、後ろを振り返って洪破天を見遣りながら興味深げに聞き入っていた。
「その武芸の真髄をその身に得ておられたのじゃろうな。その真髄とは剣技に非ず。ご先輩は得物を選ぶ事は無かったというから、果たしてその通りであった訳じゃ。東涼を離れられた後、呂州へと移って一生を一介の農民として送られたが、その技を絶やしてはならないと考えておられたという。ご先輩には二人の実子があり、他にも身寄りの無かった三人の子を引き取った。その子らに、自らの持つ技を伝えていかれたのじゃ。『技』だけではなかろう。心、技、体とはよく聞く言葉じゃ。ご先輩がその全てを余すところ無く伝える為にはどれが欠けてもならぬ。それらを、日々の生活の中で教えられた。呂州のあの広大な土地を耕しながらのう。剣もあったそうじゃが、剣では耕せまい?」
洪破天が話を止め、じっと若者二人を眺める。二人はただ頷き返すだけで何も言えなかった。何か気の利いた質問でも返したいところであったが、何も思い浮かべる事が出来ない。
洪破天はそんな二人の様子を窺いつつ、頬を緩ませた。
「まぁその辺はともかく、儂はお会いした事は無い。他にそのご先輩を直接知る者は恐らく、今言った五人の子だけかも知れぬ。だが、そのご先輩の武芸の素晴らしさは儂にも想像に難くない。何故か解るか?」
「その……ご先輩の子供達の武芸が素晴らしいからでしょうか?」
可龍がそう答えると、洪破天は天を仰ぐ様な大仰な仕草で笑い出した。
「ハハ! ハァー、あーいや、子と言うたのは儂じゃな。子供達とは言うても、上はもうかなりの高齢じゃがのう。まさにその通りじゃ。受け継いだ者が優れているのはひとえに、師が優れていたからと言えよう。どの様な天賦の才を持って生まれた者でも、それを導く優れた師が居らねばその才を開花させる事は出来ぬ。……ん? いや、儂が今、言いたい事はそうではない……」
急に笑い出したかと思えば一転眉を顰めて考え込む洪破天を、可龍と比庸は訝しげに眺める。ほんの少し間を置いて、可龍はハッとなって目を見開いた。それから暫し考えて後に、
「うちの槍など到底、黄龍門とは比べ物になりません。元々――」
「何故分かる? お前は先祖の技を見たというのか?」
洪破天はじろりと可龍を睨みつけ、可龍はそれを見て黙り込んでしまう。
「儂の話を聞いておらんのか? 東涼黄龍門は暫く途絶えた。厳密には細々と続いておったが、殆ど廃れておった。武林の名声とはその武芸の優劣で決まってしまう。つまり劣ったのじゃ。しかしそれは始祖洪淑華の技が劣っていたという証拠にはならぬ。お前や、父の槍が大したものでは無かったとしても、お前の先祖が編み出した槍が劣っていたとは決して言えぬのじゃ。そうじゃろう?」
語気を強めていた洪破天の言葉が、徐々に柔らかくなっていく。
「未だ、東涼黄龍門の名誉は回復されてはおらぬ。殆ど消え去ったと思われておるからのう……。しかしそれは真実ではない。華々しくその名を轟かせた始祖、洪淑華。師の業を体現するには至らなかったものの、それを絶やすまいと誓った弟子達。そして今話したご先輩へと引き継がれ、その業は復活しておる。殆ど知られてはおらぬがのう。この真実を知る者は武林に確かに居る。ほんの僅かではあるが。しかも今では武林に強い影響力を持つ者達じゃ。故にこうして動き始めておる。東涼黄龍門の秘伝と、天棲蛇剣の秘笈」
可龍は聞きながら、呆然としている。余りにも――違い過ぎる。自分の家に伝わる無名の槍術と東涼黄龍門を一緒に語るなど、荒唐無稽とまでに思えてしまう。だがそれを洪破天の言葉が即座に否定する。
「……洪淑華とお前の先祖は何か違うじゃろうか? お前に至るまで伝えてきた血筋は、東涼黄龍門の弟子達とどう違う? 何故、お前に至るまでに消えなんだのじゃ? お前の家は代々何をしておった? 皆、武芸者で名を売っておったのか?」
「とんでもありません。うちは昔から貧乏百姓で――」
「そうか。先祖伝来の槍術に相当な自負があったのじゃろうのう。同じ呂州じゃ。お前の祖父あたりは、儂の言ったご先輩、穆どのを知っておったやも知れぬな」
「……聞いた事はありませんが。穆……?」
「……殷汪の事はどうじゃ?」
「父が『咸水の英雄殷汪は呂州の出身だ』と度々言っていました」
洪破天はそれを聞いて頷く。
「殷汪が居なければ、穆ご先輩の凄さを証明する事は出来なんだかも知れぬのう。お前達の知る『英雄殷汪』の業は穆ご先輩の存在あってこそ。殷汪は穆ご先輩の五人の子の内の、末子にあたる」
「えっ」
驚きの声を発したのは、前を行く劉子旦だった。可龍と比庸などは即座に話を理解する事が出来なかったのか、何の反応も無い。
劉子旦は身体ごと捻って洪破天を振り返っている。
「では、殷汪どのには他に四人の兄弟があって、皆、その穆ご先輩の業を継がれているのですか?」
劉子旦は孫怜からもまだ聞いていない『真実』を前にして、心を躍らせている。その隣の胡鉄は劉子旦ほど興奮したりはしないが、一応、同じ様に後ろを振り返って洪破天を見遣っていた。
「んん? いや、皆ではない。五人の内、実子である二人は姉と弟。どちらも武芸は学んではおらぬそうじゃ。後から引き取った三人は武芸に強い興味があってな、その三人に教えたのじゃ。その内二人は実の兄弟じゃが残る一人は違う。その最期の拾い子、これが殷じゃ」
洪破天がそう教えてやると、劉子旦は「ほーぅ」と感嘆の声を洩らす。特に感心する様な話でもない筈なのだが、劉子旦の頭の中に於いてはとても大きな価値を持っているらしかった。
「ちなみに」
不意に、今は後ろを向いている劉子旦の背後から声が掛かる。いつの間にか傍に近付いていた孫怜であった。洪破天の話を孫怜もずっと聞いていた様である。
「その穆ご先輩の実の娘というのは、我らは皆、此処に来るまでに会っている」
孫怜はそう言ってニヤリと笑った。