第十一章 十七
王梨の視線を避ける様に横を向いて立つ洪破天。その傍らに梁媛も居たが、ただ俯くばかりであった。
「驚きはしないわ。洪兄さんが都に行った一年前だって、突然出て行ったんだもの。そして突然帰ってきた。でも本当に感心するわ。洪兄さんと言い、狗さんと言い――、ご老人方のその行動力は何処から来るのかしらね?」
王梨は穏やかな視線を洪破天に投げかけ、微笑んでいる。それでも洪破天は横を向いて僅かに唇を突き出し、手に小さな包みをぶら下げて立ち尽くすさまは大きな子供の様でもある。
「洪兄さん。ちゃんと無事に帰って来てくれるのならそれで良いの」
「……ああ。無論じゃ。しかし、千尽は文句を言うじゃろうな」
「それも、洪兄さんにではなく、私にね。居ない人には言えないもの。私は知らなかった事にしようかしら?」
「それでも良いのう」
「フフ、すぐにばれるわよ。まあ、それはいいわ……」
王梨の言葉が途絶える。王梨の視線は梁媛へと移っていた。
「媛児よ……」
洪破天が枯れた手を梁媛の肩に置くと、梁媛は俯いたままではあったがその体が微かな反応を見せる。細く白い手がゆっくりと上がり、洪破天に触れた。
「少しばかり出掛けてくるわい。あー……戻ったらあの耳飾りを着けた姿が見れるかのう? 楽しみじゃ」
梁媛が顔を上げる。それはまるで何か苦痛に耐えているかの様な、辛い表情だった。
王梨と洪破天が改めて話しているのを黙って聞いていた梁媛は、本当に洪破天がこの東淵を今まさに離れようとしているのを思い知らされたが、動揺を隠すのが精一杯だった。
思えば、洪破天が何故、今すぐ行かねばならないのかを聞いていない。しかももう夜だというのに。殷汪を探してくると洪破天は言うが、それほど急がねばならない理由が解らない。あの殷汪が何らかの理由で窮地に追い込まれているのだろうか? 北辰教が追っているとは随分前から聞き及んでいたが、洪破天も、傅家の者達も全く心配する様子も無かったではないか。
梁媛は更に考える。洪破天は恐らくかなり奔放な人だ。都へ行ったのも殷汪に――この時は夏天佑という別人の名であったが――ついて来たと言ったが、果たしてその通りであった様で、そして偶然出会った自分と弟を連れてこの東淵に帰る事を決める。ならば今の洪破天もあの時と同じ。これが洪破天なのだろう。
(悲しいんじゃない。そう、出掛けてくるだけなのだから。でも戻るまでに長い時間が掛かる……。でも、ただそれだけ。私はもう幼子じゃない。もし梁発が居たならきっとあの子が泣いて、私がそれをなだめた筈。少し……不安になっただけよ。私が小さな子供に戻ってお爺様を困らせる訳にはいかないわ。それに、もしかしたら本当に殷汪様と一緒に戻られるかも――)
梁媛はずっとそんな事を繰り返し考え続けていた。
「殷を無理にでも連れて来てその姿を見せてやろうかのう。お前の美しい姿を見れば驚く……喜ぶじゃろうな。うむ」
それを聞いた梁媛の目が潤んできている。洪破天は思わず視線を逸らす。
「媛児よ」
洪破天の声がぐっと低くなる。
「お前はこれからこの王梨の弟子じゃ」
「大袈裟ねぇ」
洪破天は王梨の言葉に構わず、続ける。
「お前は故郷、安県で黄龍門の子弟と接した筈じゃな?」
久しぶりに聞いた懐かしい名に、梁媛の伏せがちであった双眸が開かれた。
「儂は剣以外の芸事など良くは解らん。じゃが、何の道であろうと一度、師について道を学ぶからには相当の覚悟でもって師に従い、精進せねばならぬ。解るな?」
洪破天は梁媛へ視線を戻す。
「はい」
梁媛の薄紅色の唇が動き、はっきりと応えた。
「洪兄さん。叩頭は要らないわよ?」
王梨は笑っている。洪破天はフンと軽く鼻を鳴らし、部屋の入り口の方を振り返った。そこには表から戻って来た馬少風や孫怜らの姿があった。
「行ったか?」
不意に訊かれた孫怜は咄嗟に何の事か解らなかったが、すぐに劉毅の事かと思い当たる。
「はい。早々に用を済ませて戻る――と。何の事か解りませぬが」
「フン。まあ良い。では行こうかのう」
「洪さん」
歩き出そうとした洪破天を、馬少風が止めた。
「本当に、大丈夫だろうか? 北辰は俺達を――」
「お前達の役目じゃろうが」
洪破天はそう言ってから溜息をつき、
「心配は要らん。劉毅も言うておったが殷についてはひとまず手を緩めるそうじゃ。張新の意向としてはな。つまりそれが北辰の意思となる。普通にしておれば傅の家に用は無かろう」
「……では、あの死体の件はどうする?」
「放っておけ。もう他に何も出ぬじゃろう。関わらねば何も無い」
「もう、関わったが?」
「あの表紙は儂の手にある。その儂が此処を離れるなら、あれの下手人が何か用があるならば儂の処まで来るじゃろう。そんな事より」
洪破天は馬少風を軽く睨む様に見ながら、
「紫蘭じゃ。もっと気を付けろ。何でも言いなりになっておらんで言って聞かせるんじゃぞ。もう子供ではない。あの夜の様な事は止めさせるのじゃ」
「あの夜とは?」
そう訊いたのは王梨だった。洪破天は驚いて振り返り、
「いや、……夜遅くに出歩いておったようでな。まぁ……とにかくそんな事は止めさせるべきじゃ」
洪破天はまたすぐに馬少風の方を向いて王梨に背を向けた。
「良し。行くぞ」
「劉毅の――」
「まだあるのか。何じゃ」
再び歩き出そうとした洪破天に馬少風が話し掛け、洪破天は顔を顰めた。
「劉毅の、殷さんへの言伝とは?」
「大した事ではないわ」
「聞いておきたい。殷さんに何と?」
馬少風はそう言って食い下がる。洪破天は頭を振り、
「本当に何でもない事じゃ。劉毅に教えて貰わんでも既に殷も知っておるじゃろうて。……陸豊の居場所じゃ」
「陸豊?」
馬少風が聞き返し、孫怜や樊樂らは顔を見合わせていた。