第十一章 十六
洪破天を待つ間、どうしても長く感じられて樊樂らは落ち着かない。実際、洪破天が中々戻らないのは確かで、振舞われた茶を誰もが既に飲み干してしまっていた。屋敷奥の客間に通された一行は言葉少なにただ待っている。下女が更に茶を勧めたのだが皆、遠慮した。
「ちょっと見てくる」
馬少風がそう言って立ち上がる。するとその時、屋敷の下男が部屋へ駆け込んできた。
「洪さんが来られました!」
息せき切って駆け込んできて大声を出した割には、ごく普通の事を口にする。
「やっと来たのか」
馬少風が歩き出すと樊樂らも一斉に腰を上げた。すると下男は馬少風の傍に身を寄せてその腕を掴んだ。
「馬さん、表に北辰教の劉毅様が来てる。今、洪さんが表に居て――」
「劉毅?」
馬少風と孫怜、そして樊樂が顔を見合わせる。
「おいおい、もう行ったんじゃなかったのか? まさか気が変わって俺達を……」
「分からん。とにかく行こう。洪どのが居るのだろう?」
一同は孫怜を先頭に部屋を飛び出した。その後を梁媛もついて行こうとするが、下男が呼び止める。何か騒ぎにでもなれば危険である。
「でも……」
「いいから、此処で待つんだ。なに、洪さんや馬さんが居るんだから心配無い」
下男はそんな事を言って梁媛を止めたが、本当に大丈夫かどうかなど言った本人も分かっていない。相手はあの劉毅である。何かのはずみで遣り合う事にでもなれば双方ただでは済むまい。
(大丈夫だ……。洪さんはただ話していただけだ……)
屋敷の正面、門の前に洪破天の姿はあった。こちらに背を向けて立つ洪破天は小さな包みを右手に下げており、その包みと一緒に一本の長剣を携えている。長剣は包みに引っ掛けてあるだけで洪破天は特に身構えたりする様子も無く、ただ門の外に向いているだけだった。孫怜らは洪破天の傍に駆け寄る途中で門の外に馬が居る事に気付く。そして人影。洪破天は話をしているらしい。
洪破天が振り返ってこちらを見た。
「すまんな。少し手間取った」
孫怜らは洪破天に目礼だけしてすぐに外に居る馬上の人物に目を遣った。辺りはかなり暗かったが、それでもすぐにその人物が夕刻会った劉毅である事に気付く。他には誰も連れては居ない。紅門飯店に来た時もそうだったが、ずっと一人で行動している様である。
「もう発つそうだな。賢明な判断だ」
表情はあまり良く見えないが、劉毅は低い声を出した。馬を降りようとはせずにこちらに顔を向けている。
孫怜が一歩、進み出る。
「方崖に向かわれたと思っておりましたが、まだ何か……?」
「いやなに、まだ急ぐ必要も無いのでな。この先、恐らくお前達が俺より先に殷汪に会うだろう。言伝を頼もうと思ったんだが、洪どのに会ったのでもう済んだ。お前達と共に行かれるそうだな。実に悦ばしい」
「悦ばしい?」
孫怜はちらと洪破天を見遣ったが洪破天はふらりと向きを変え、屋敷の奥に向かって歩きだした。
「この先、武林が大いに盛り上がる、という意味だ。舞台に上がる人間は多い程、面白くなるというものだ。無論、誰でも良いという訳では無いがな。やはり、洪どのははずせん。それから、お前達もだ」
クックッと音がする。劉毅は笑っているらしいが、微かに口の端が上がっているのが見えるだけだ。
「意味が良く分かりませんが、我らは……ただ、糧の為に働くのみです」
「それで良い。そんなものだ。どんな大きな流れであろうと、その発端は人知れず密かに始まっている。遠い所でな。俺達はいずれ交わる支流。東涼の秘伝は見えなかったものを浮かび上がらせるきっかけだ。お前達稟施会までもが動き出した」
劉毅の言葉の後に暫く沈黙が続いた。孫怜らは表情こそ変えなかったが、胸の奥にわだかまりを感じ始めていた。劉毅はよく喋るが解り易い部分は何処にも無く、こちらに伝えようという意思は無い様に思われる。
(この男、勝手に喋って勝手に面白がっているだけだな。何が言いたいのだ? ……これ以上付き合う必要は無いな)
「馬よ」
劉毅は孫怜らの心中を察する事無く、今度は馬少風に目を向ける。
「お前自身は別としても、この傅家、傅千尽どのも同様だ。ご友人を襲った者共はまだ見つかっておらんな?」
「……依然として怪しい奴は居るがな」
馬少風は劉毅を見返し、淡々と答える。怪しいのは劉毅――、そう一年前から思い続けている。関わった者は皆、同じ思いでいる筈だ。
「……繋がりが全く無い様でいてその実は違う、そんな事も往々にしてあるものだ。今、想像できんのは無理も無い」
「フン、疑いを他に向けさせたいのか?」
「いや、今のままで構わん。その方が面白くなるという事もある」
「劉毅どの」
孫怜は暗がりの中で劉毅に見えるように大仰に袖を降り、抱拳する。
「危機をお救い頂いたご恩は忘れませぬ。我らは直ちに街を出る事に致します」
そう言ってすぐに樊樂を振り返った。
「支度を」
樊樂は一瞬目を丸くして孫怜を見ていたがすぐに我に返り、頷いた。
劉毅は馬の手綱を手繰り寄せて向きを変える。
「俺も早々に用を済ませて、舞台見物に間に合うように戻るとしよう。もう少し間はある。また会おう」
劉毅の馬が暗闇の中を駆け出し、遠ざかって行く。暫くは通りに点在する灯りがその姿を照らしたが、すぐに見えなくなっていった。
「……あの男、とんでもない何かを知ってるか、或いはとんでもない妄想癖の持ち主か、どっちかだな」
樊樂が通りの先を眺めながら言う。結局劉毅の言った事は何から何まで解らずじまいであった。
「ま、とりあえず今は俺達にゃ関係ねえな。よし。行こう。随分遅くなっちまった」
「洪どのは中に入って行きましたけど?」
劉子旦が屋敷の方を指差しているのを見て樊樂は顔を顰め、頭を振る。
(ハァ。どうしてこう、思うようにならねえんだろうな? 何か、もうどうでも良くなってきたな。色々と……)
「中へ戻ろう」
馬少風が言いながら歩き出したので、一同はぞろぞろとその後に続いて再び中に入っていった。