第六章 七
「……どういう事でしょうか? 誰に言ったのです?」
「これの馬鹿息子じゃ。勝手に持ち出しおった」
老人は劉を指差している。その息子なのだから自分の孫だろう。
「今はそんな事どうでもいい! 問題は今真武観に行ってそんな事を言い出すのはやり過ぎだとさっきから言ってるだろう!」
劉は拳を強く振りながら老人に食って掛かる。二人を眺めながら考えを巡らす周維はすぐに劉の言葉の意味を察する事が出来た。
「確かに、本当に秘伝書が今真武剣派の手にあるとして今日の英雄大会の場で持ち出せば、一気に追い詰める事になりますが……。その後向こうは――」
「なぁ、あんたら」
徐が劉と周維を交互に見ながら少しにやついている。
「つまりあんたらは、真武剣派の奴らが悪事を暴かれて報復に出ると思う訳だな? 此処の奴は皆真武剣派の人間をまるで崇めるみたいに扱うが、あんたらはそうじゃないと?」
「私は他所の人間ですし真武剣派の事を良く知りませんが、まぁそうなるのはよくある構図ですよ。ただ、その秘伝書を借りたという事が「悪事」と呼べる程の事かは分かりません」
「儂の秘伝書を台無しにしおったんじゃぞ! きっともう書写でもして修行しておるやもしれん! 真武剣派に知れ渡ったような武芸はもう秘伝では無い!」
「まぁとにかくだ。真武観に行って、返して下さい、と言うだけだ。その秘伝書は爺さんの物で俺達は返してもらうのを手伝う。爺さん一人では相手にされんかも知れんからな。お前は此処に居ればいい」
徐は劉に諭す様な口調で言うが、その眼の光は相変わらず鋭く劉に向かって放たれている。
「家に居ても同じ事だ! この武慶にも居られん様になるかも知れん!」
「そう思うなら」
この時、徐の隣に居た男が初めて口を開いた。ごく普通の体つきの様だが痩せ細った徐と並んでいるので随分と良い体格に見える。声は太く、低かった。
「街を出る用意をしておくんだな。お前はいつも出歩いているんだから簡単だ」
男は徐に向き直る。
「もう人が集まり始めている頃だ。もう行かないと遠くから眺める事になる」
「そうだな。爺さん、そろそろ出るぞ」
「うむ。行こう」
徐が言うとすぐに老人も歩き出す。劉が慌てて入り口を遮った。
「やめろ! やめてくれ!」
「邪魔だ」
徐の仲間らしい男が乱暴に劉の襟元を掴むと部屋の外へと勢い良く突き飛ばした。劉は抵抗らしい抵抗も出来ないまま庭まで転げ落ちる。
「おい!」
部屋では一言も喋っていない洪が男の肩を掴んだ。同時に周維はその脇をすり抜けて劉に駆け寄った。
男はじろりと洪を睨むと無言のまま洪の首を取ろうかといった勢いで握った拳を繰り出した。しかしすぐに男の顔には驚きと苦痛の表情が浮かぶ。洪はいとも簡単に男の拳を掴み取りそれを握り締める。褐色の太い腕の逞しい隆起が一層増した。
「フン、意外だなぁ。あんた本気で真武剣派の所にこいつと乗り込む気かい? てっきりこいつが用心棒代わりかと思ったんだが、違った様だな」
洪は同じ体勢のまま笑いながら徐に向かって言った。
「お、お前……」
男はもう一方の腕までもいつの間にか洪に取られてしまい、じりじりと体を押し下げられていく。
「俺達は話をしに行くんだが?」
徐はそれだけ言ってすたすたと先を歩いて行ってしまう。
「ほら、ついて行けよ」
洪は男を見下ろしながら言うと、一気に取った腕を引き上げて庭へ放り投げた。
「ハ、ハハ。あんた凄いな」
劉は周維に抱きかかえられ腰の辺りを擦りながら立ち上がった。洪に投げられた男はすぐさま立ち上がり、何事も無かったような顔を作ると徐を追いかけて走り出す。庭で待っていた四人の男達も同様に屋敷の門を出て行った。
「いや、あんなので凄いと言われても……」
洪は苦笑する。先程の男は少なくとも見かけだけは結構やりそうな雰囲気で実際に劉を簡単に投げ飛ばしたが、洪にしてみれば拍子抜けする程何も出来ない男だった。
「ハハ、そうだな……あいつらはただのゴロツキでな。弱い奴にはやたら強気だ。まぁ、その弱い奴の一人は俺なんだがな。まさかあんたに投げ飛ばされるなんて思ってもいなかったろうよ」
「真武剣派があるのにあんな連中が大きな顔出来るのですか? ちょっと信じられませんね」
周維は洪と顔を見合わせた。
「奴らは真武剣派の人間には近付かないさ。自分からはな。うちの爺さんの話に乗ったのは意外だったが……。爺さんの後ろに居て真武剣派を引っ掻き回して遊びたいだけだろう」
「それは少し……危険な遊びですねぇ。後悔する事になるかもしれない」
「ただ、あの徐って男はごろつき共の親玉みたいなもんでなかなか頭は回るらしい」
「ほう」
「旦那、どうする? あいつら追って行くか?」
「俺は行かねばならん。具体的にどうするつもりか知らんが爺さんを止めないとな」
「では私達もお供しますよ。最初から真武観を見に行く予定だったのですから。それに、この洪さんは先程の男等より遥かに腕が立ちますからいざという時役に立つと思いますよ。真武剣派の人が相手でも大丈夫でしょう?」
周維は笑顔で洪に尋ねる。
「冗談だろ? 少なくとも陸総帥やその直弟子相手なら俺は大人しく引き下がるよ。と言うか俺にそんな仕事が回って来ない様にしに行くんだろう?」
「ハハ、そうですね」
「……迷惑をかけて申し訳ない。しかしまだ大した説明もしてないのに何であんたは……?」
「劉さん、旦那は何にでも興味を持つんですよ。でもまぁ大丈夫。今までも何とかうまくやってきましたからね。何かあってもこっちの責任だ」
劉は丁寧に深く頭を下げる。
「良いんですよ。では行きましょう。見失うのはあまり良くないでしょう」
三人は徐と劉老人を追って真武観へと向かった。
英雄大会で多くの人間が押し寄せるこの日の早朝、真武観の中央にある広間は来賓を迎えるべく整えられ、前日までに武慶を訪れた招待客ですでに幾つかの人の輪が出来ていた。その中には清稜派道長、木傀風と真武剣派の白千雲の姿があった。木傀風の隣には若い青年が座っている。
「もう一通り挨拶は済ませたのかな?」
「はい。道長様にご紹介頂けたおかげで助かりました。私は皆さんを存じ上げておりますが私の様な若輩者を見知っておられる方は極僅かでしたので」
「ハハ、そんな筈は無かろう? 恐らく皆そんなふりをしておるんだ。大抵、新しい遼山の掌門がどのような者なのか探りを入れた筈だ」
木傀風は青年を見てニヤリとする。
「それは……そうだったのでしょうか」
青年は落ち着かない様子で視線を彷徨わせる。
「雪殿、心配することは無い。ただ、遼山派は武林の名門。新総帥と顔を会わせて誰か分からぬなどという事の無いようにしなければ」
白千雲が青年に言うと、
「では真武剣派は遼山に忍び込んだんだな?」
木傀風の冗談に白千雲は笑顔で返し、
「まさか。我等は雪殿を昔から知っておりますからそんな必要は。すぐに書状を届けて頂きましたし、雪殿が新たな遼山総帥になられたと聞いた時にすぐに納得致しました」