第十一章 十三
孫怜が馬少風に言う。
「他に稟施会も動いている。秘伝書は元の持ち主に返すべきで、その人は今、稟施会の許に居る。殷さんも探しているとしても、それを奪う様な真似をするとは思えない。真武剣派にしても殷さんと同じ立場な訳だ。北辰が絡んでくるならかなり込み入った事になるが、今のところはまだそれは無さそうだ。この先もし何かあればこちらに知らせを遣る事にする」
「殷なら放っておいてもどうという事は無いと思うがな。ま、とにかくお前は東淵を離れてはならん。良いな?」
傅千尽もそう言って念を押す。馬少風は承知したのか、まだ不満なのか、どちらとも読めない無表情のまま、黙り込んでいた。
樊樂が孫怜に声を掛ける。
「そろそろ行こう。もう暗くなる……」
「そうしよう」
孫怜は振り返り樊樂らと頷き合った。傅千尽がその傍に歩み寄る。
「何処へ向かう?」
「とりあえず南へ」
樊樂が答えた。行き先に選択肢は多くは無いが、未だに特に此処と決める事も出来ないでいる。
「そうか。なら緑恒まで行くかな?」
「徐という男が見つからないならその先までも。今、うちの仲間がそっちを廻ってると思いますが、一旦合流しようかと」
「千河幇に儂の友人で朱不尽と申す者が居る。鏢局を率いて国中を廻っている男だ。今は……緑恒だろう」
「鏢局……確か、賊に襲われたっていう?」
「そうだ。その賊というのが何処の誰なのか、まだ目星すらついておらん状態でな。きっと色々と調べている筈だ。もう一年にもなる。お前達の探している者に関連する事柄も何か聞けるかも知れん。千河幇は真武剣派と親密になりつつあるという噂もあるが、幇主范凱どのが完全に真武剣派に呑まれる事は決して無いと儂は思っている。千河幇にも当たってみるのが良いだろう」
「朱不尽どの……、分かりました」
樊樂が頷くと、傅千尽は両腕を広げて樊樂と孫怜の腕に手を添える。
「この先、縁があれば是非、稟施会とも懇意にしたいものだ。そちらの当主に宜しく伝えておいてくれよ。こんな処でも、色々とやりようはあるものだ」
傅千尽の顔は商売人のそれに変わっている。樊樂は愛想笑いを浮かべつつ頷いていた。
(他所から来て北辰の影響力が強いこの街で成功したのだ。かなり強かなお人に違いない)
孫怜は傅千尽を見ながらそう思った。
樊樂らは傅千尽に対して礼を施し、部屋を辞去した。馬少風が最後に部屋を出て扉を閉める。樊樂と孫怜が馬少風を振り返ると、馬少風の方が先に口を開いた。
「洪さんに会って行くだろう?」
「ああ……、そうだな」
「あの周婉漣の話が何だったか、俺も聞いておきたい。洪どのは何処に居るんだ?」
樊樂が訊くと馬少風は歩き出す。
「今、別の屋敷に行っている筈だ」
「他にも屋敷があんのか」
「古い屋敷だ」
「遠いのか?」
「少し離れているが、遠いというほどじゃない」
「おい、ちょっと待ってくれ。馬を取ってくる。洪どのに会った後、その足で出よう」
樊樂らは馬少風を待たせて、紅門飯店からこの屋敷まで連れて戻った馬を取りに行く。他に荷物らしい物は何も無いのですぐにこの東淵から遠ざかる事が出来る。
樊樂ら一行は馬を牽き、馬少風に付いて屋敷の外へ出た。
通りを進む間に、陽の光が弱まっていく。あの謝長老と黒装束の配下が不意に現れたりしないかと周辺の様子を窺いながら歩いていたが、それらしき人物を見る事は無かった。劉毅のおかげで今もこうして無事でいられる訳だが改めて考えると、暢気にこの東淵にやって来るという、とんでもない危険を冒したものだと冷や汗が出る思いで、皆それぞれに反省しきりであった。まだ油断は出来ない。少なくともこの東淵から離れるまでは。
馬少風に案内された屋敷の門をくぐる頃には、辺りは薄暗くなっていた。最初に門に入った馬少風が、不意に声を張った。
「媛」
誰かを呼んだのか、馬少風は建物の奥の方をじっと見ている様であったが、樊樂らがその視線を追っても何処に人が居るのかが分からない。暫く見ていると、中から一人の少女が出て来た。
少女はこちらに向かってお辞儀をする。普段の服装に着替え、まだ幼さの残る容姿に戻った梁媛だった。だが顔には薄化粧をしており、庭に灯された明かりが白い頬を一層輝かせていた。
「えっと、奥様は今出かけておられます。あ、もうすぐ戻られるとは思いますが」
「いや、洪さんに用がある。来ているだろう?」
「はい。……あの、奥に居られますが、皆さん……」
梁媛は馬少風の後ろにいる六人を見て戸惑っている様だ。馬少風と共に居るのだから特に怪しむ必要は無さそうだが、全員を奥に通しても良いものかどうか、判断に迷っていた。
「我らは長居出来ないので、洪破天どのを呼んで頂けるとありがたいのですが」
孫怜が進み出て梁媛に言う。相手は明らかにまだ子供だが、孫怜は丁寧な言葉で言い、恭しく拱手の姿勢を見せた。
「あ……では、呼んで参ります」
梁媛は慌てて孫怜に対して礼を返すと、小走りで奥へと戻って行った。
馬少風は孫怜を見る。
「怜、一応教えておこう。あの娘も殷さんと無関係じゃない。梁媛といって、都に居たんだ。洪さんと殷さんが此処へ連れて来た。孤児だ。今は洪さんの娘……孫だな」
「殷さんが連れてきた?」
孫怜は怪訝な表情を馬少風に向け、すぐに問い返す。
「いつだ?」
「昨年の今頃だったと思う」
「一年前……? 方崖を離れた頃だろう? それが、都から此処へとはおかしい」
「方崖に居たのは……天佑だ」
「なに? 殷さんは違うのか? 天佑が方崖だと……? 方崖に上れるのは北辰の幹部だけなのだろう? 天佑は幹部になれたというのか? 殷さんがそうしたのか?」
「殷さんと天佑は入れ替わっていた。方崖から逃げた殷総監というのは天佑の事だ。殷さんは随分前から方崖には居なかった」
「そんな事が……可能か? 少風、何故それを今まで言わなかったんだ」
「……お前達が来たのは『今日』だ。まだ居るならすぐにでも話しただろう。だがお前達はもう行く」