第十一章 十二
「そいつかどうかは分からんがな」
劉毅はそう言ってそのまま立ち去ろうとする。先ほどから思わせ振りな言葉を口にしながらもその意図は見せず、ただ孫怜や馬少風の反応を見るだけという劉毅の言動は不可解で、劉毅の背中を視線で追う孫怜は眉を顰めた。だがこれでようやく解放されると思い、何も言葉を掛けずに見送ろうとする。しかし、馬少風は黙っていなかった。
「嬋は何処だ? 何処に居た?」
劉毅は振り返り、
「さぁ? 宝刀を持つ女と言っただけで、慕容嬋というのが何処に居るかなど知らん。だから先ほど訊いたんだがな」
「ごまかすな!」
「じゃあな」
もう劉毅は立ち止まらない。客達の注目を浴びながら、そのまま店を出て行ってしまった。きっとこのまま北へ向かい、景北港方崖へ行くのだろう。
(結局、劉毅どのは何かを得たのだろうか? 我らから――)
孫怜は暫し考えながら、店の入り口の方をぼんやりと見続けた。いずれにせよ孫怜らは劉毅に助けられたのであり、恩を受ける事となった。
「おい少風、お前凄いな。あのお人にあんな口が利けるとはなぁ。どういう関係なんだ?」
劉毅が出て行くのを見届けてから、近くに居た客達が馬少風に話し掛けてくる。この街に住む常連客達で馬少風の事は良く知っている者ばかりである。普段は傅紫蘭に連れ回されているしがない用心棒風情に、片や数百の手下を持つ九宝寨の首領で江湖に名が知られた北辰七星劉毅。一体どういう接点があるのか想像もつかない。ただ、初めて間近で見た劉毅は想像とは少し違い、意外にも普通の男の様に見えた。あくまで想像よりは、という事であり、劉毅の周りに与える威圧感は強く、気軽に話し掛けられるというものではない。
馬少風はその客達を無視して元の席に着く。孫怜も後ろを振り返り、樊樂を見た。樊樂はじっと孫怜を見返すだけで何も言わない。互いに見合ったままの間が続いた。
「これは……すぐにでも此処を離れた方が良くありませんか?」
劉子旦が樊樂と孫怜の顔を交互に見遣り、少し抑えた声で言った。するとすぐに馬少風が口を開く。
「もう日が暮れる。屋敷に居れば手出しはさせん。用心棒は俺だけじゃない」
「いや、俺達が居るだけで迷惑を掛ける事になる。我らが災いをもたらす様な事になっては……」
孫怜が言うと、樊樂も続く。
「そうだ。出よう。あのなんとかって爺さん、北へ帰ったかどうかも分からんしな。あの感じじゃ相当頭に来てる。……殆どはあの劉毅ってのが怒らせたんだがな」
「どっちにしても怒らせる事にはなったろう。俺達も捕まる気は無かったのだからな」
「よし。行こう。傅の旦那さんに挨拶して来ないとな」
「ああ」
まず樊樂が立ち上がり、それから皆、一斉に腰を上げた。
馬少風が孫怜に言う。
「怜、俺も行こうと思う」
「なに?」
「天棲蛇の秘笈探しだ」
「……少風、我らはただ徐騰という男を追っているだけ――」
「多分、それだけでは済まん」
「……」
「絶対あの劉毅も絡んでくる。そして殷さんもだ。それと真武剣派。怜、真武剣派に対して殷さんは、一人だぞ」
「……殷さんと真武剣派で、秘伝書を奪い合う事になると?」
馬少風の眼差しに力が籠もっており、孫怜はその意を汲み取る。殷汪の味方は自分と孫怜だけだと馬少風は言っているのだ。慕容嬋も居たならばきっと彼女もだろうが、今は居ない。それは理解出来るのだが、此処へ来て急に話が大きくなってしまった様に感じ、戸惑ってしまう。
(確かに漠然とそんな風に考えもしたが、本当にそこまでなるだろうか? 北辰は動かない――劉毅の言葉を全て信じる訳では無いが、あの感じでは本当の様に思える。となるとあとはやはり真武剣派と殷さん……。しかしあれは真武剣派でも殷さんでもなく、武慶の劉という商人の物だ。それを差し置いて奪い合うなど、許されぬ。本当に殷さんは今、我らと同様に東涼の秘伝書を追っているのだろうか?)
「おい馬公。そんな事勝手に決められねえだろ?」
樊樂が言うと馬少風は頷き、
「ああ。旦那様に言ってみる」
そう言って一人先に歩き出した。
「行けるんなら、良いんじゃねえか?」
樊樂は孫怜に言ってから馬少風の後を追う。孫怜は皆の後について歩きながら暫く思案顔のままだった。
「駄目だ。お前は此処を離れてはならん」
傅千尽は馬少風の顔をじっと見つめて言う。絶対に許さないとでもいう様な、厳しい口調であった。傅千尽の居室で馬少風は傅千尽の前に立ち、その後ろには孫怜、樊樂らが控えている。
「北辰教の監視が続いておるのを忘れたのか? ただの監視が続くだけならまだ良い。だが先の事は分からんのだ」
傅千尽は目の前の卓上に腕を乗せ、指でコツコツと拍子を刻んでいる。憂いの表情を浮かべ、溜息をつく。
「少風、とりあえず今はまだ徐を追うだけの事。お前は此処での仕事が大事だ」
孫怜は馬少風にそう声を掛けてから傅千尽の前に進み出た。
「我らはすぐに立ち去ります。本当に申し訳ございませぬ。お許し下さい」
「許すもなにも、北辰教徒を殺めたのはお前達で、儂らではない。そうだろう? 儂らが責めを受けるいわれは無い」
ぞんさいな言葉ではあったが、傅千尽はその口許に笑みを取り戻していた。何も関係が無いのだからこちらの許しを得る事など何一つ無い――。太乙北辰教がそう単純に割り切ってくれるとは到底思えないが、ただ去るしか無い孫怜らは傅千尽のこの態度に救われる思いであった。あとは謝長老が劉毅の言った様にこの件を伏せておいてくれる事を祈るばかりである。
傅千尽は馬少風に、
「既に朱蓮が出てもう随分経っている。狗さんまでもが力を貸してくれているのだ。殷が何処ぞへ隠れ続けているのでなければ、きっと見つけてくるだろう」
「きっと大事になる。ただの秘伝書探し、殷さん探しでは済まないと思う」
馬少風はじっと見つめ返して訴える。だが傅千尽はその言葉を払うように手を振った。
「何を根拠にそう言えるのだ? 儂にはさっぱり解らぬ。誰か教えてくれないか?」
傅千尽は首を傾け、馬少風の後ろの面々を覗き込む様にして言った。